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向こう側

数年前に掲載させて頂いた「闇を好む者」という作品の登場人物、ロングコートの青年にスポットを当てた作品になります。

前作は拙いながらも、彼がキャラクターとして気に入っていた分、どこかでまた書きたいと思っていたので、衝動的に書いてしまいました。

前作を読まなくても楽しめる作品になっていると思います。

「死にたい」

 誰にともなく呟いた俺のテノールは、白い吐息とともに濃い藍色の中に溶けて消えていった。瓦斯灯の光の下、ベンチに腰掛けてそれをぼんやりと見つめながら、自分もこのまま、この藍色の中に溶けてしまえば良いのにと、ため息を吐いた。吐き出したそれは、それが自分への呪詛だとは思えない程に白く透き通っていて。何となく無意識にその白に手を伸ばすと、俺を嘲笑うかのようにそれは、音も無く霧散していった。

 ざわと木々が、冷たい風に微かな悲鳴をあげる。俺にはそれが酷く羨ましく思えた。自分を刺すそれに声をあげることが出来るのなら、誰かに助けを求めることも出来るだろうに。そんなことを思いながらなけなしの給与で買った外套の襟元をたぐると、それは僅かに冬の匂いがした。既に秋の気配はもう成りを潜め、世界は白へと向かっていた。

 心の中に、ぽっかりと穴が開き始めたのはいつからだっただろう。最初はただ忙しい毎日に、身体が疲労しているのだと思った。ここ、東亰に流れて来てから、寝ても覚めても仕事。たまの休みは寝ることに充てる。そして起きたと思えばまた仕事。そんな毎日だったが、仕事は嫌いではなかったし、それなりに充実していると思っていた。しかし、心の穴は、徐々にその面積を広げ、その存在は決して無視できないものになっていった。何をしていても空虚な感覚が、俺の脳を、身体を支配していく。

「死にたい」

 もう一度呟いてみる。何が原因なのかだとか、どうすれば抜け出せるのかとか、そんなことはどうでもよくて。ただ、この空虚な感覚の先に何があるのか、それだけが気になった。それは、この頭上に広がる藍色の向こうに焦がれる気持ちに良く似ていた。この肉体を捨てて身軽になれば、あの星々にも触れることが叶うだろうかと、ぼんやりと焦がれるあの気持ちに。

「死にたい」

 死にたいか、と問われれば、正直それも少し違う気もしたが、残念ながら俺は、これの他に今の気持ちを表す言葉を知らなかった。

 不意に、足許を掠める感覚があった。少し驚いて視線を遣ると、そこには黒の漆器をしっとりと濡らしたかのような黒猫が行儀良く座していて、その翠の双眸をこちらに向けていた。

 俺はそうすることが当然のように、黒猫に右手を差し出した。その右手に逃げることも無く、黒猫は差し出した俺の手に擦り寄ってきた。その人懐こさに、思わず抱き上げる。猫は暴れるでもなく、俺の両腕の中にすっぽりと納まった。その身体を、俺はぎゅっと抱きしめる。少し高めの体温が優しくて、俺の中に開いた穴が埋まっていく気がして、酷く泣きそうだった。

 そいつがにゃんと微かに鳴いたその瞬間、目の前の世界が、がらがらと音を立てて崩れ始めた。両目に溢れた涙とともに、俺の信じていた世界が実は、俺が作り上げた妄想であったことに気がついた。すさまじい速さで移ろう世界に、俺は絶望した。それは俺達が望んだことであったはずなのに、俺は、俺達が望んだ世界から取り残されてしまった。全てを投げ打って東亰ここに出てきたはずなのに、この街は俺なんかまるで無視して先に進んでしまう。踏み出そうとすれば足がすくんでしまう。そんな俺を、誰一人見向きもしない。仕方ないと言えば仕方ないのだろう。時代が大きく変わった今、皆、自分のことに必死なんだ。

 ふと、腕の中のそいつが僅かに身じろいだ。抱きしめる力を緩めてやると、そいつは軽やかに俺の足許に降り立って、その双眸をじっと一点に向け始めた。不思議に思ってその視線の先に目を遣ると、そこには瓦斯灯の光の届かない、ねっとりとした闇があった。最近興行に来ている見世物小屋の陰、小さな空間だが、そこだけこの季節特有の乾いた空気ではなく、湿った空気が流れていそうだと、そんな雰囲気だった。

「あ」

 闇に気を取られていた一瞬のうちに、黒猫はその空間に向かって駆けて行ってしまった。そして考えるより早く、俺の身体はそれを追って駆け出していた。待って、そう言うより早く、闇は俺の身体を捉えた。闇の中に引きずり込まれる瞬間、俺は俺を捨てた。

*****

「懐かしいねぇ」

 青白い街頭の下、ベンチに腰掛けたロングコートの青年は、己の膝に寝そべる黒猫を愛しそうに撫でながら呟いた。

「僕が僕として歩き出した日も、こんな乾いた風が吹いていたねぇ」

 同意するように黒猫は、僅かに身じろぐ。

「僕の中に開いた穴は、どこに行ったのだろうねぇ。僕にはもう、とんとわからないや。お前は、僕をこちら側に呼んで、何がしたかったのかい」

 黒猫は答えず、ただ身体を丸めるだけだった。そんな様子に、青年は僅かに嘆息する。

 闇に魅入られたあの日、青年は永遠の命を与えられた。決して老いることもなく、病に伏すこともなく、ただただそこに在るだけの存在。

「――いや」

 ふと青年はある考えに至った。自身の中に確かに在った筈の穴は無くなったのではなく、ただ単純に、あの穴の向こう側に、自分は来てしまったのではないだろうか、そんなことを思う。

 そこまで考えて、青年は久しく忘れていた感覚が、つっと背中を通っていくのを感じた。そして額に浮かぶそれを手で拭って、苦笑した。

「本当にお前は、恐ろしいよ」

 そんな言葉にも、黒猫は、ただ僅かに身じろぐだけだった。

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