第14話 死の大海原-6
風と砂が織りなす暴力の嵐が通り過ぎるのを、クロはじっと地中で待っていた。岩山が完全に吹き飛ばされる寸前、土道で地面にトンネルを掘るのが何とかギリギリ間に合った。
背に乗せたままのディーナの細い指先が、ぎゅっとクロの毛を掴む。音をたてないように気を付けながら首を回せば、彼女の瞳は不安そうに揺れていた。
ディーナはクロより遥かに強い。
だがそんな彼女も、恐れているのだ。
だいじょうぶ。
そう意思を込めて、クロはディーナの頬をぺろりと舐めた。
クロだって本当は不安で、恐ろしくて仕方ない。
でも、アタカなら、そうする。
そう思ったから、クロは勇気を振り絞ってディーナを元気づけた。
岩山を盾にして逃げる計画は失敗だ。つまりそれは、ここから先はアタカの助言なしで進まなければならないという事だった。
こうして砂に潜んでいると、どうやってサンドワームがこちらを探知していたかよくわかる。相手が大きいおかげもあるが、クロの耳でもどの方角、どの程度の距離にいるかくらいは音で把握する事が出来た。
ごうごうと地表を撫でる砂嵐の音が止まるが、サンドワームが立ち去る気配はない。再び砂に潜る事もその場を立ち去る事もなく、クロを警戒しているようだった。腹を括るしかない。
もう一度ぺろりと頬を舐めるクロに、ディーナはどういう事かと言いたげに目を瞬かせる。それに答えられるわけでもなく、クロは彼女を砂中において地面の上に飛び出した。
途端、彼の全身を強烈な熱気が苛んだ。
ディーナに比べて貧弱なクロの魔力では砂漠の熱を殺し切れず、見る見るうちに体力が奪い取られていく。
だが構わず、彼は砂の上を駆けた。サンドワームに向かうでもなく、かといって遠ざかるでもなく、一定の距離を保ちながら真横に走る。サンドワームは再び砂を吸い上げながら、そんな彼を追うように首を巡らせた。
体力を消耗し、ディーナの作る石畳もなくなった今、クロの脚はかなり鈍ってきている。ジンであれば、一息に目的地まで到達してしまっただろう。だが、クロにはとても無理だ。
再び砂の吐息が吹き荒れる直前に、土道で穴を掘って地面に隠れ潜む。岩山さえ軽々と削り取る砂の吐息だが、その『削り取る』という攻撃方法ゆえに、砂中に潜むのは極めて有効な防御手段となった。
何せ削られた末がその砂なのだ。さらさらと流れる砂に衝撃は分散され、無効化される。とはいえ一度でも砂中に逃げ込むタイミングを間違えば、クロの身体もまた粉々に磨り潰されてその砂の一部になってしまうだろう。命を懸けた「だるまさんがころんだ」だ。
そんな綱渡りを繰り返しながら、クロはただただ駆ける。時折牽制の為に魔術の飛礫を放つが、サンドワームには殆どダメージが入っていないようだった。
ウミなら、あの巨体相手でも真っ向から立ち向かう事が出来たかもしれない。しかしクロには、それだけの力もない。
魔力結晶を使わない、大元の力であれば、クロは同期の誰にも負けない自信があった。クロとアタカは間違いなく、誰よりも努力してきた。それはただ過酷であったというだけではない。
どこまでであれば身体を損ねずに追い込めるか。
どうすればもっとも効率よく魔力を鍛えられるか。
どんな技が一番効果的なのか。
アタカは常に頭を悩ませ、そして実践してきた。
しかしそうしてつけた力を、種族差があっさりと覆す。
ドラゴン・パピー。
クセがなく、あらゆる能力に関してバランスが良い……そう言えば聞こえはいいが、その実態は器用貧乏ですらない。
あらゆる能力が、低いのだ。
魔術が不得意なジン程の魔力すらなく。
海竜種で陸上が苦手なウミより速く動くことも出来ず。
ロクに鍛えず魔力特化のディーナでようやく同じ程度の体力。
そんなクロの力を、アタカは努力と戦術で補い続けてきた。
だが、それももう、限界だ。
動き続けていたクロの脚が、止まる。
彼の能力では、サンドワームを倒すことは絶対にできない。
攻撃はその巨体に有効なダメージを与える事は出来ないし、逃げようとして逃げられるほど俊敏でもない。そして彼には、それを何とかする作戦も考え付くことは出来なかった。
出来る事といえば、たった一つ。
ディーナを巻き込まないよう、逃がしてやる事くらいだ。
サンドワームの注意を自分に引きつけながら、ぐるりとその背後に回り込むよう、クロは走っていた。だがそれもここまでだ。ディーナのいた位置と、アタカ達のいる竜車。そのどちらもサンドワームの巨体に遮られて見る事は出来ないが、ディーナがしっかり逃げ切った事をクロは確信する。
ごうごうと風が渦巻き、サンドワームの口の中に砂礫が吸い込まれていく。更に土道でトンネルを掘るだけの魔力は、もはやクロには残されていなかった。
しかし、これで十分だ。
満足げな息を吐くクロに向けて、死の嵐が吹き荒れる。一切の生命を許さぬ乾ききった竜巻は、あっという間にクロの身体を巻き込んで死と破壊をまき散らした。
散々逃げられ、惑わされ、攻撃された鬱憤を晴らすかのように吹きつけられる砂の吐息は一分余りもたっぷり荒れ狂い、大地さえも大きく抉り取る。
だが。
砂嵐が過ぎ去っても、クロの姿は全く変わらぬままそこにあった。
「もう……無茶しすぎですよ」
「ウォフ?」
呆れた口調で諌める桜花に、「何が?」とでも言うようにクロは鳴いた。
ディーナが無事に竜車に戻ったのなら、桜花が出て来れる。
別にクロはそれを見越してディーナを逃がした訳ではなかったが、そうすればアタカが何とかしてくれるだろうという確信はあった。
結局のところ、クロは桜花が回復するまでの時間を稼いだに過ぎない。
だが、それでいい。
クロにも、アタカにも、どうしたって力は足りない。
だから彼はいつだって、仲間達を頼りにしてきた。
その仲間達の力を最大限引き出す為に立ち回ってきたのだ。
だから、クロもそうしただけの事。
「――クロさんは、勇敢なのですね」
だが、果たして自分にそれを真似できるだろうか。
指先に魔力を収束させながら、桜花はそう思う。
ブレスをマトモに受けて傷一つない桜花達の存在に、サンドワームはとうとう業を煮やして突進し、その巨大な口をさらに大きく広げた。
己よりも遥かに強大な敵を相手に、自分は臆さず立ち向かう事が出来るだろうか。
そう一人ごちながら放った桜花の雷撃が、サンドワームの口腔に突き刺さった。
「二人とも、本当に、お疲れ様」
サンドワームを撃退した、その二日後。
「ウォフ……」
「ありがとう……ございます」
アタカの労いの言葉に、クロと桜花は青息吐息と言った様子で応えた。
不毛の大地は、例え夜になっても彼らに安らぎを与える事はなかった。
日中の暑さがまるで嘘の様に冷え込んで、魔術で防がなければ樽に汲んできた水に氷が張る程だ。冷気というのは、熱よりも防ぎにくい。
火を焚いて暖を取る事は出来るが、そんな事を夜闇の中ですれば野生の竜をおびき寄せる羽目になってしまう。そんな状態ではとても竜車を引くことなどできず、結局日中にクロと桜花で交代しながら竜車を引いてきたのだ。
最後にはヘトヘトになった二人で力を合わせて竜車を引いて、何とか門が閉まる前にここ――オアシスの街、ビレンラーヴァに辿り着く事が出来た。
「えと、宿の手配してきますねっ」
唯一元気なディーナがぴょんと竜車を飛び降り、ぱたぱたと街の中へと駆けていく。竜車を引くほどの力がない彼女は、一人だけ楽をしていると随分気に病んでいた。実際には絶えず冷気の魔術で竜車全体を防護していたのだから、彼女も疲れていないわけはないのだが。
「とにかく、今日はゆっくり休もう」
「そうね、お風呂入りたい。汗でべっとべと」
少しでも荷を軽くしようとアタカ達も竜車を降りて、フラフラと竜車を引くクロと桜花を先導する様に歩く。幸い、街全体が結界で守られているらしく、街中なら『死ぬほど暑い』くらいで済んだ。
何とか宿に辿り着いて夕食を摂り、湯を浴びてベッドに倒れ込むと、アタカはあっという間に眠りに落ちた。
「おはようございます!」
「おはよう。もう大丈夫なの?」
翌朝。
元気に笑顔を見せる桜花に、アタカは目を丸くした。
彼女達に比べればただ暑さに耐えていただけのアタカでさえ未だにぐったりとしているというのに。
「はい。桜花は竜ですから、一晩休めばバッチリです」
「あ、なんだ。まだ疲れてるみたいだね」
しかし、頷く桜花にアタカはむしろ笑みを浮かべた。
何かと無理をしがちな所は気を付けてあげないといけないが、無理をしている事自体は意外とわかりやすい。彼女は余裕があまりない時、一人称が『私』から『桜花』になるのだ。
「え、な、なんでわかるんですか?」
「さあ、何となくかな」
とはいえそれを言ってしまうと次から直してしまうだろう。
アタカはそう考えて、適当にそう誤魔化す。
「うう、アタカ様には敵いません……」
気まずいような、恥ずかしいような表情を浮かべる彼女に笑いを押し殺しながら、アタカは竜舎へと向かう。桜花でこれなら、クロは相当疲れているだろう。昨日はそんな余裕もなかったが、たっぷり労ってやらなければならない。
「クロ、おはよ……って、寝てるのか」
常ならばアタカが来る時間にちょうど目を覚ますクロが、今日はまだ藁の上で丸まっていた。
「クロさんも、お疲れみたいですね」
「う、ん……」
桜花に頷きながらも、アタカは眉根を寄せる。
疲れているから、眠っている。ただそれだけのはずだ。
なのに、妙な胸騒ぎがした。何か、違和感があるのだ。
「クロ……?」
名前を呼びながら、アタカはそっと相棒の身体に触れる。
その毛はごわごわとして硬く、そして、ぞっとするほど冷たかった。
同時に、アタカは抱いていた違和感の正体に気付く。
クロの身体はじっとして、動いていない。寝ているにしたって、微塵も微動だにしていないのだ。まるで、人形か何かの様に。
アタカは恐る恐る、クロの鼻先に指で触れる。
「……呼吸が、ない」
その声は、自分でも驚くほどに震えていた。




