第12話 みちのその先-9
「桜花っ、人の姿に!」
アタカはクロを駆りながら、金色の鱗を纏った蹄を持つそれから、白く人間の形へと変わっていく桜花の手をとるとぐいと抱き上げた。麒麟の姿の桜花は、クロの背に一緒に乗せるには少し大きすぎる。
『逃がしはせぬぞ!』
けたたましく怒鳴り声を上げながら、フンババは逃げるクロを追いかける。単純な速度では敵うものではない。アタカは小回りの利く小柄な身体を生かして方向転換を何度も繰り返し、木の根の下をくぐり、狭い木々の間をすり抜けてフンババの手を逃れる。
対して、鬱蒼とした森の中をフンババはその巨体にも関わらず、するすると樹の間を縫って這った。まるで木々がフンババの身体を避けているかのようだ。
時折吐き出される毒混じりの炎を跳んでかわし、或いは桜花が防御膜を張って攻撃を防ぎ、どうにかやり過ごしているような状態だ。とても逃げ切れそうはなかった。
「桜花さん、傷は……?」
「はい、もう少しで、何とか」
苦痛に端整な眉を歪めつつ、桜花は己の腹に手を当て、回復を施していた。
「ですが、これでもう……先程のような雷撃は使えません」
本来麒麟は仁徳の生き物であり、殺生を好まない。攻撃よりも防御や回復と言ったサポートに特化した竜なのだ。種族自体は攻撃手段を持っておらず、雷撃も風も桜花自身が習得している魔術を行使したものである。鎧に身を包み、倒すには高い攻撃力を要求されるフンババとは非常に相性が悪い。
全力を振り絞って放った雷撃で彼女の魔力はつきかけていた。それでも、破壊できた鎧は僅かに四枚。残り三枚を破壊し、フンババに致命傷を与えるだけの力は無い。
己の回復を優先せず、死力を尽くせば或いは倒せたかも知れない。しかし、それはアタカが許さなかった。攻撃を受けて傷付いた際は自分の回復に専念する事を事前に言い含めてあったのだ。
己の主ではないとは言え、竜使いの言に桜花は忠実に従った。しかし、その胸中は不安に満ちていた。クロとアタカでは、到底残り三枚の鎧を打ち砕くことは出来そうもない。
シンバがいれば。桜花は、心の底からそう思った。彼女の主がいれば、もっと戦いに向いている姿に変わることも出来る。そうすれば、魔力が尽きていようとあんな竜など一捻りにしてやれる。しかしそれは、叶わぬ願いだった。
病床についているシンバがこの場に現われる事があるはずが無く、仮に桜花の危機を察して街を発っても、とても間に合わない。
「大丈夫」
そんな感情が、知らず表情に出ていたのだろう。アタカは桜花の頭を撫でて、柔らかい声でそう言った。
「僕を信じて」
状況はどう考えても絶望的だ。だと言うのに、アタカの目にはまるで絶望の色は無く、澄んだ瞳は一点の曇りも無く桜花を見つめていた。
「……はい」
その目にどこか己の主と重なる物を感じて、桜花はこくりとは頷いた。
逃げ行く小さな竜を追いかけながら、フンババの心中に去来するのはかつての記憶。そして、彼らへのどうしようもない憎しみであった。
神に命じられ杉の樹を守っていた彼を、かつて英雄は無慈悲に殺した。下僕になると懇願し、誇りを捨て命乞いをしたにも関わらずだ。
そして、死の安息が彼に訪れたかと思えば『これ』である。人間どもは、一体自分をどこまで馬鹿にすれば気が済むというのか。呪いを込めた視線で、フンババは逃げる三匹を睨みつける。既に力もつき息も絶え絶えな娘と、ロクに戦い方も知らぬヒヨっ子二人。殺してしまうに労は無い。
だが、ここまでに与えられた屈辱と怒りをそう簡単に晴らすわけにはいかない。じわじわと追い込み、絶望の中食い殺してやろう、とフンババは心に決めた。
この森はフンババの住処であり支配する領域そのもの。人には同じ森の中にしか見えぬだろうが、彼はその構造を枝の一振り、根の一本に至るまで完全に把握していた。相手はフンババの攻撃を避けながら何とか逃げているつもりだろうが、その実、フンババは確実にアタカ達を絶望の果てへと追い込んでいる。
そしてようやく、その時はやってきた。
三方を完全に木々に囲まれたそこは森の果て。これ以上逃げることの叶わぬ最端部だ。そして残りの一方を、フンババは己の身体で塞ぐ。これで、アタカ達には完全に逃げ場は無くなった。
『さあ、鬼ごっこは終わりだ、小僧』
雷鳴の如き声を鳴らし、牙を剥き出して、フンババは宣言した。
『命乞いをするならば、見逃してやっても良いのだぞ』
無論、嘘である。フンババにそんな気はない。見苦しく命乞いをしたアタカを、毒の炎で燃やし尽くすか、喉笛を牙で切り裂くか。そのまま石にして、永遠に姿をとどめてしまうのもいい、と頭の中で考えを巡らせる。
しかし命乞いをするどころか、アタカは背後に桜花とクロを庇い、真っ向からフンババに対峙する。その目には、死への恐れなど微塵も無い。その態度に、フンババは苛つきを覚えた。
最も恐ろしいのは竜が消え去ることだと? 馬鹿な事を。死こそが、生きとし生けるものの最大の恐怖であるはずだ。強力な竜を従え虚勢を張ることが出来ても、身近に死が近付けばそんな事を言える筈が無い。
フンババは大きく口をあけ、その双眸に宿った魔力を解放した。神々や英雄さえもが恐れ、目を背けるその恐ろしい顔。
それを、アタカは真っ直ぐに見つめ返した。その目の輝きの強さに、フンババの背筋にぞわりと何かが走る。それが恐怖と呼ばれるものであると彼が思い知る頃には、アタカの全身は既に石と化していた。石化の邪視をまともに受け止めたのだ。当然のことであった。
……しかし、恐れさせるはずの自分が、人間ごときに恐怖を抱くなどと、到底認められることではない。苛立ち紛れにアタカの石像を破壊しようと、前足を振り上げたその時。パチパチと言う音が、彼の耳を打った。
「お気をつけ下さい」
ただ一人、石化を免れた桜花が、フンババの後ろをすっと指差した。
「貴方の森が、燃えていますよ」
気付けば、森の至る所から火が噴出していた。逃げながら、クロが小さく火をつけていたのだ。桜花の操る風が更に炎を巻き上げ、その火勢をあっと言う間に強めていく。
『貴様ら……これが、狙いか!』
どれほどの炎になろうと、鎧に守られたフンババの身体にとっては然したる熱量ではない。しかし、この森は彼の住処であり、同時に彼自身の様なものだ。燃え尽きれば、フンババという存在そのものを支え成り立たせているものが喪われる。
そして、その火で死なぬように、アタカ達は自ら石と化したのだ。麒麟は回復と防御に優れた竜。攻撃でフンババを倒しきれずとも、森が燃え尽きるまでアタカ達を守り、石化から回復させる程度の事は造作もない。
……だが。
『甘いわ……!』
フンババの叫び声が、森全体を揺るがした。洪水にも例えられるその咆哮はあっと言う間に森全体を包み込むと、恐ろしいほど太く、また密接に絡み合う巨木をまとめて轟々と揺らす。永遠に続くかと思われるその咆哮に、まるで握りつぶされるかのように炎は消えた。
「傍にいたら……注意、したんだろうな」
ごほごほと咳き込みながら、アタカはそう言った。石化の影響か、辺りを舞い散る灰のせいか、妙に喉がいがいがとするのだ。
『さあ。貴様の最後の望みも潰えた』
「でも、今はそれが、すごくありがたい」
『……気でも触れたか?』
ぶつぶつと呟くアタカに、フンババは怪訝な視線を向ける。泣いて命乞いをする姿を望んでいたが、これ以上こんな小童にかかずらう事もあるまい。フンババはそう考えて、前足を高く振り上げた。
「桜花、お願い」
「はいっ」
桜花の掌に、白く輝く光が集まる。しかし、それは先程フンババを打った力の半分もない。無駄な足掻きだ、とフンババは一笑に付した。
雷光が閃き、爆音が轟き渡る。しかし、フンババの鎧は壊れるどころか、毛ほどの傷もつかなかった。
……当然だ。桜花が撃ったのは、背後の巨木なのだから。
炎に巻かれ、フンババの咆哮に揺るがされた樹は、随分とその強度を落としていた。そこに、残る力全てを振り絞った桜花の雷撃である。巨木は耐え切れず、ぽっかりと幹に穴をあける。そして、その向こうには澄み渡った空と、日光にきらきらと輝く湖があった。
途端、何かがフンババの巨大な瞳を貫く。それは鎧に遮られて目に到達する事は無かったが、フンババは思わずその大きな目を閉じた。
「相変わらず、最速で一番必要な事をしてくれる。
……本当に、君は頼りになるよ、ソルラク」
外からアタカの姿が見えたわけでもないだろうに。真っ先に樹に空いた穴から飛び出して、相手の最大の武器であると同時に弱点である目を突くソルラクを見て、アタカは苦笑した。
魔力感知のいいところは、ある程度障害物を無視して感知できるところだ。深い水や土は無理でも、樹くらいならば透かして見れる。……それを通して、アタカは見知った魔力を三つ、感知していた。
そして、森に火をつけフンババに咆哮を上げさせれば、ルルが止めようが物見高いカクテが見に来ないわけがない。ソルラクが真っ先に突っ込んできたことだけが誤算だったが、それはむしろありがたい誤算だ。
「ルル、カクテ! 後一撃ずつお願い!」
「なんだかわかんないけど、わかった!」
「ああもう、一体何が起こってるの!?」
言いつつも、ディーナの放った鋭い水の槍がフンババに突き刺さり、巨大な竜魚がその身体に圧し掛かる。バキバキと音を立て、フンババの鎧は全て破壊された。
「よし、ウミ、そのままそいつを押し潰しておいて……ついでに目を隠して。
ソルラク、トドメさすのはちょっとストップ」
アタカは矢継ぎ早に指示を送りつつ、容赦なくトドメを刺そうとするソルラクを止める。
「アタカ」
そんな彼に、ルルが声をかけた。
「何でここにいるのかとか、あの竜はなんなのかとか、色々聞きたい事はあるのだけど」
ルルはすっと視線をアタカの隣……彼にしな垂れかかる様にして、クロの上に乗っている桜花へと移す。そして、にこりと笑った。
その笑みが、彼女が本気で怒っているときのものだと、付き合いの長いアタカは知っている。
「その人は、だれ」
今フンババの目を見たら、この幼馴染の姿に見えるかもしれない、とアタカは思った。
『殺せ』
と、フンババは言った。二度も……ましてや、英雄ですらない小僧に命乞いをする気にはなれない。それに、『どちらにしろ同じこと』だ。
鎧を剥ぎ取られ、ウミの巨体に身体を地面に押し付けられるフンババに、アタカは何かを悩むように瞑目する。如何にして、情報を聞き出すか考えているのだろう、とフンババは思った。
しかし、何一つ、彼らに益する気はない。己に勝ったからとて、人を、そして彼らを認めるつもりはフンババには一切無かった。
「フンババさん。貴方はこの森の守護者であり領主。
森の全てを統べる、神聖にして偉大なるお方。
一つだけ、願いを聞いてもらえませんか」
アタカの口から出る調子の良い言葉を、フンババは無視した。ドラゴン・ロードへ向かう道。そんな下らない、愚かしい道を阻む為に彼は存在するのだ。何を言われようと、協力する訳がない。
「どうか、花束を一つ、いただけませんか」
その決意は、あっさりと肩透かしを食らった。
『……花、だと?』
一体何のつもりだ、と、思わずフンババは問い返す。
「彼女の主人が病に臥せっていて、それを慰める花束が欲しいんです」
「え、何言ってんの、馬鹿なの?」
ふざけるな、と言う叫びの声は、それよりも早く彼の心情を的確に代弁したカクテの言葉によってタイミングを失い、虚空に消えた。
「元々、森に来たのはそれが理由だったんだよ」
言い訳がましく、アタカはそう口にした。
「それに、そもそも『門』を開けたのも僕らじゃないし。
フンババさんを倒せたのだって、桜花さんが手助けしてくれたから。
それだって、僕らだけじゃどうにもならずに、ルル達の手を借りたんだから……
こんなのは、納得がいかない」
アタカはフンババに向き直り、深々と頭を下げる。
「なので、今日のところは花を下さい。
また、来ます。今度は正々堂々と、真正面から倒しに」
森を統べる竜を倒した戦果としては恐ろしく慎ましやかで、取り様によってはこの上も無く図々しいその願いに、フンババは思わず笑い声を上げた。
『……良かろう。花くらい、くれてやる』
フンババが大地に息を吹きかけると、見る間に美しい花が一輪、大地を割って咲き誇った。桜花がゆっくりとそれを手に取ると、花は自然と大地を離れ、彼女の腕の中に納まる。
「ありがとうございます!
……ウミ、もういいよ」
アタカはもう一度頭を下げて、ウミにそう指示する。彼女は見る間に小さくなってフンババの身体を転げ落ちると、カクテの腕の中に転がり込んだ。
この隙に、噛み殺してやろうか。既に警戒を解いて無防備な姿を見せるアタカに、不意にそんな事を思ってフンババは首をもたげる。しかし、その前を、二頭の竜が自然に阻んだ。曲刀を携えたリザードマンと、古めかしい衣装に身を包んだメリュジーヌ。
戦いの構えを見せるわけではない。が、フンババが攻撃の気配を見せればすぐさま迎え撃ち、叩き殺せる間合いに、人の姿をした竜達は自然と入り込んでいた。
なるほど、こやつらならば、かの者の元へも届くかも知れぬ、とフンババは思う。
そして、アタカならば或いは……と、そこまで考えかけて、彼は首を横に振った。誰も、ドラゴン・ロードの力には敵わない。期待など、するだけ無駄だ。
『……二度と、この森に足を踏み入れるな』
フンババはそういい捨て、ずるりと尾を引き摺って森の奥へと姿を消した。
森の奥深くで、フンババはとぐろを巻いて眠りにつく。門も、森も、彼の力を使ってすぐに元に戻る。そうして彼は、再び待つのだ。ただひたすらに、守るものも何も無い、この森で。
不意に。何か、彼は胸の辺りに違和感を覚えて目を開いた。違和感はどんどん強くなり、彼は身体をもたげる。
『なん、だ……こ、れ、は』
ずぶり、と。彼の胸から、爪が突き出した。臓腑を滅茶苦茶にかき回される苦しみに、彼はのた打ち回り、地面を転がる。口から血を吐き出しながら、目を剥き叫ぶが、彼のあらゆる能力は体内を直接蹂躙する敵に対して無力であった。
やがて、動かなくなったフンババの腹を裂き、そのおぞましい竜は姿を現す。
フンババの血を纏い、ぬらぬらと赤く輝きながら顔を出すのはドラゴン・ゾンビであった。ほんのひとかけ、フンババの腹に入った骨の断片から全身を再生し、そして体内を毒素で満たしてフンババを殺したのだ。
フンババの死体が魔力の粒子となって大気に溶け、結実して石となる。
一人の女が、それを手に取った。森の闇の中に溶け込むかのような、黒々とした長い髪を持つ女。
彼女は己の竜に向き直ると、その顎に手をかけ、そのまま首をぐちゃりと捻じ切った。更に頭蓋骨を樹に叩きつけ、飛び散った破片を一片、握り締める。
どうせ再生する。運ぶには、この位の方が都合がいい。そう言わんばかりの動作。
一連の動作の間、眉一つ動かさぬまま、女は森の闇の中に消えた。




