第12話 みちのその先-7
門の向こうから現われた巨大な竜は、恐ろしい生き物を無数に織り交ぜたかのような姿をしていた。
身体と前足は獅子のよう。全身は鋭い棘の生えた鱗でびっしりと覆われ、頭には牛の様な角が生えている。蛇のような尾は途方もなく長く、森の奥へと伸びるその果てはとても見通せるものではない。そして、一つしかない巨大な瞳がじろりとアタカを睨みつけた。
途端、アタカの心臓はどくりと一度大きく鼓動し……そして、その動きを完全に停止させた。その肌は艶を失って全身が灰色に染まり、つま先から髪の毛の一本に至るまで完全に生気を失う。アタカの身体は、瞬く間に石と化していた。
「いけない……!」
桜花は慌ててアタカに飛びつき、その身体をぎゅっと抱きしめた。白い光が彼女の身体から漏れ、アタカは息を取り戻して目を瞬かせる。彼にしてみれば、気付けば桜花に抱きすくめられているという状況だ。
「お、桜花さん……!?」
「アタカ様。あの竜の目を見てはいけません」
思わず動転して呼んだ敬称に、お定まりのたしなめさえなく鋭い言葉を発する桜花に、アタカは状況が逼迫している事を本能的に理解した。
『愚かしく、矮小で、小癪な竜術士どもめ。
貴様らにこれ以上進ませはせぬ』
単眼の竜はアタカ達を睨みつけ、轟然とそう言い放った。
「お待ち下さい! ……あなたは、フンババではありませんか?」
その目を見ないように気をつけながら、アタカは単眼の竜に問うた。
シルアジファルアから最も近いコクマの森に関して、アタカはここ数日真っ先に調べていた。その過程で知った、最も古い伝承に残っていたのがフンババという竜だ。伝説の杉の木を守る、森の守護神。ギルガメシュという英雄に倒された竜だ。
『我が名を知るか、小童が……』
フンババの瞳が、暗い輝きを帯びる。大きく開けた口はまるで全てを吸い込む世界の果てのように暗く、底知れない。
「そん、な……!」
アタカの身体を抱く桜花の体が、がくがくと震えだす。それと同時に、フンババの身体は口と瞳からあふれ出した暗黒の霧に包まれ、アタカの目には見えなくなった。
「お待ち下さい! 僕達は、あなたの森を荒らす気はありません!
門を開いたのも、僕達ではなく別の者です!」
アタカは震える桜花を安心させるように抱き返しながら、そう声をあげた。
『知った事か。貴様らは全て滅びてしまえば良い』
フンババの瞳の暗い輝きはますます強まり、完全にその身を覆い隠す。
「桜花。気をしっかり持って。それはただのまやかしだ」
震える彼女の肩を抱き、アタカは耳元で囁く。彼女は可哀想なほどに青褪めた顔で、目にうっすらと涙を浮かべ、いやいやをするように首を振った。
『……何故だ、小僧』
フンババは戸惑った様子で、アタカに問うた。
『何故貴様は、このわしの姿を見て平然としていられる。
恐ろしくはないのか』
フンババの姿は、見るものがもっとも怖れる存在として目に映る。そのような能力を持つと、アタカは知っていた。だが、アタカが正気を保っていられるのは、知っているが故のことではない。単純に、彼にはフンババの姿は恐ろしく見えない。
それどころか、暗い霧に覆われて姿そのものが見えなかった。
「僕には何も見えません」
『何故だ。貴様には恐れるものがないとでも言うのか』
アタカは首を横に振る。アタカにとって恐ろしいものは幾つでもある。死ぬこと。仲間を亡くす事。夢を失うこと。本気で怒ったルル。焼いたマシュマロ。
しかし、もっとも恐ろしいのは、結局のところただ一つだ。
「僕が恐れるのは、貴方がいなくなること。
……竜が、この世界から消え去ることだからです」
故に、フンババの姿は見えない。見えなくなることそのものが、恐怖だからだ。
フンババは虚を突かれた様に単眼を見開き、轟く雷鳴のような笑い声を上げた。
『面白い小僧だ……良いだろう』
そして、牙を剥くとちらちらとその奥に真紅の色を瞬かせる。
『ならば、直々に殺してくれよう!』
「クロ! 桜花、こっちに!」
フンババの吐き出した炎がアタカを燃やし尽くす寸前、彼は桜花の身体を抱えながらクロに跨り逃げ出すことに成功した。
「桜花、桜花! 目を覚ますんだ!」
桜花は何を見たのか、身を小さく丸めて酷く震えていた。しかし、彼女が目を覚ましてくれなければ勝機はない。リターンディスクで街に逃げ帰るか、アタカは悩む。脳裏をよぎるのは、逃げ帰ったところでフンババは大人しく門の奥に戻るのだろうか、ということであった。
彼は、なぜかはわからないが竜使いを憎んでいる。門兵であり、森の守護者であるフンババが森から出ることはないだろうが、偶然森に足を踏み入れた竜使いが犠牲になる事は十分考えられる。
それと、もう一つ。
「クロ、ファイアブレス! 吐きながら、横に避けて!」
ごう、とクロは紅蓮の炎を吐き出す。紫色の邪悪な炎がそれと一瞬拮抗し、すぐさま押し返して一瞬前までクロの立っていた場所を溶かし腐らせた。
ドラゴン・ゾンビ。いつの間にか姿を消していたそいつが、アタカの前に立ち塞がっていた。やはり、野生の竜ではない、とアタカは確信する。野生であればフンババを避け、挟撃などという手段はとらない。ましてやドラゴン・ゾンビともなれば尚更だ。
腐り果ててなお蠢く死体の竜には、本来挟み撃ちをするような知性はない。ただただ生きるものを追い殺すだけの存在であるはず。となれば、それを操るものがどこかにいるのだ。
背後からは、轟音を立ててフンババが迫る。その口から、毒を帯びた息が吐き出された。竜をも殺す猛毒だ。それと合わせるかのようにドラゴン・ゾンビも炎を吐き出す。逃げ道はなく、クロの力では防ぐこともままならない。
二頭の竜の毒息に、アタカ達は覆いつくされた。
「アタカ様……!」
気付けば、アタカは金色の毛の中に顔を埋めていた。太陽のような美しい金の髪は、桜花のもの。しかし、それが生えるのは、逞しい鱗の生えた首からだ。桜花は、麒麟としての本性を現して、アタカとクロをその背に乗せて駆けていた。
疾風の如き凄まじい速さ、足はけして大地を踏む事無く、ほんの僅か地面から離れたところを蹴り、足の動きはあくまで優雅にゆっくりと動かしながらも、彼女はあっという間にドラゴン・ゾンビの脇を抜けると彼らを置き去りにして森の中を駆けた。
「申し訳ありません、アタカ様。取り乱しました」
「いや……ありがとう、桜花。助かったよ」
一体彼女は何を見たのか。尋ねようとして、アタカは一瞬躊躇った。
「……ご主人様です」
しかし、その様子を敏感に察して、桜花はぽつりとそう言った。
「主人が……あのゾンビのように」
そこまで言って、桜花はぶるりと身体を震わせる。それは彼女のもっとも恐れる事。いつか必ず来る別離を、まざまざと彼女に見せ付けた。幻影か否かは関係なかった。なぜなら、それは絶対に避けられぬことだからだ。その悲しみを、普段は見てみぬふりをして、どうにか彼女は平静を保っている。
……それを、目の前で見せられた。それは彼女の心を乱し、傷つけるには十分な絶望だった。己の不甲斐無さと、それを見せ付けたフンババの怒りに、桜花は打ち震える。
「アタカ様。桜花はあの者を許せません。どうか、力をお貸し下さい」
毅然として、彼女はそう宣言した。




