第02話 旅の始まり-2
アタカは慎重に、ざわざわと寄せては返す波打ち際へと歩を進めた。あまり波に近づき過ぎると水や抜かるんだ泥に足を取られ、かと言って砂浜の上では動きにくい。たまに足首に波がかかる程度の距離がよさそうだ、とアタカは判断した。
「ああ、そうだ。一つ言い忘れたことがあるんだけどね……」
アタカから少し離れた場所で、ムベはふと思い出したように声を上げた。
「ここの竜はね……」
彼の言葉に耳を傾けるアタカを囲むように、四本の水柱が立ち上る。その中に、竜の瞳がぎらりと光り輝いた。完全なる奇襲。そして、包囲。迫り来る死の予感にアタカの背筋は凍りつき、頭の中は真っ白になった。
竜の口から、最強の武器であるブレスが一斉に放たれる。避けられない。防げない。ムベはアタカを助ける様子もなく、彼をニヤニヤと笑いながら見ている。アタカは、思わず目を固くぎゅっとつぶった。
衝撃が、全身を打つ。アタカの軽い体は吹き飛ばされ、波打ち際をごろごろと転がった。
「おーい、大丈夫か?」
「ごほっ、が、はっ、げほっ!」
気管に入り込んだ海水にむせ返りながら、アタカは身体を起こした。口の中がひどく塩辛く、鼻の奥がつんと痛む。倒れた時に打った背中がじんじんと痛んだ。
痛い。痛い。痛い。
だが、それだけだ。
「言い忘れたんだけど、ここの竜は滅茶苦茶弱いから、そんなに緊張する事ないよ」
大きく身体を揺らし豪快に笑いながら、ムベはそういった。仮にも竜の一撃だ。それを四方からモロに食らったら本来骨が折れるどころの騒ぎではない。
しかし、顔を上げたアタカの目に入り込んできたのは、竜というにはあまりにも小さな小さな、手のひらに収まる程度の大きさの生き物だった。
強いて言うなら、雨龍に似ている。蛇のように細く長い身体を縦にもたげ宙に浮くそれは、ラッパのように突き出た口と鶏のトサカのようなヒレを背中につけ、尻尾はくるんと巻いていた。
「タツノオトシゴ……?」
「お、よく知ってるねー。その通りだよ」
ムベが右腕をタツノオトシゴに向けて「行け」と短く命じると、ドラゴン・フライは風のように飛び、タツノオトシゴ達の間をすり抜け、再びムベの腕の上へと舞い戻った。一瞬の後、タツノオトシゴは4体とも真っ二つに切り裂かれ、光の粒子になって消える。
竜は大地の力の根源。死ねばすぐさまその身は大地に帰り、死体を残さない。それが、竜とそうでない生き物を分かつ絶対的な違いだった。
「ひどい、です。助けて、くれても」
「緊張はとけただろう?」
未だにごほごほと咳き込みながら恨みがましい目を向けるアタカに、ムベはニヤっと笑ってそういった。
確かに言われてみれば、さっきまではガチガチに緊張していた。自分自身、緊張していることにさえ気づかない程に。そもそもあの程度の攻撃は落ち着いてさえいればかわせるレベルのはずだ。コヨイの投石の方がよほど鋭く容赦がなかったのだから。
「……ありがとうございます」
「いいから着替えておいで。そのままじゃ動きづらいだろ」
素直に頭を下げるアタカに、ムベは鷹揚に手を振った。タツノオトシゴの水鉄砲と波打ち際を転がったことで、全身びしょびしょの泥まみれ、砂まみれだった。
「あ、そうですね。じゃあちょっと着替えます」
幸い、荷物は少し離れた場所に邪魔にならないよう置いてあるので、着替えは無事だ。アタカは波打ち際から離れた所で安全を確認すると、無造作に衣服を脱ぎ捨てた。
「お……おいおいおい! そんな所で――って」
顔を赤面させ、しかし鼻の穴を広げてアタカを凝視しながらムベは言いかけた。しかしそれも、アタカが完全に上着とシャツを脱ぎ去るまでの話だ。
「男だったのかよ!」
響き渡る怒声に、上着を絞って水気を落としていたアタカはびくりと震えた。
「え、あ、の……?」
「てめぇフザけんなよ、そんな顔して男だと!?
いや、待て、そう考えるのは早計だ……ちょっと発育が悪くて、羞恥心が薄いだけの
僕っ子という可能性も」
「いや、その、僕はれっきとした男ですが」
「言うんじゃねえええええええええ!」
ムベは絶叫し、がっくりと地面に手をついた。それはまるで魂の慟哭。心の底からの叫びだった。
「どうせなら……もう少し、夢くらい見させてくれよ……」
「す……すみ、ません……?」
わけも分からず、しかしなぜか謝らなければならない気がしてアタカは頭を下げた。確かにアタカは、どちらかと言えば中性的な顔立ちをしている。背もそれほど高くないし、それなりの格好をすれば女に見えることもなくはないかもしれない。
しかし、性差というのは体格や顔つきだけに現れるものではない。とっくに声変わりは終わっていたし、動き方だって男性そのものだ。現に今までアタカを女と見間違えるものは皆無だった。にも関わらず、ムベが彼を女だと見間違った理由はただひとつ。
「どうせ俺は童貞だよちくしょううううううう!」
その圧倒的なまでの、女性経験の無さに起因するものだった。
「……あの、落ち着きました?」
「ああ……見苦しいとこ見せちまったな」
ひとしきり泣き喚き、落ち着いたムベは訛りの混じった乱暴な口調でそう答えた。どちらかと言うと、今までの言い慣れてない感がたっぷりだった妙に爽やかな口調より、こちらの方が印象に合っていて落ち着くな、とアタカは思った。
「……俺ぁよ。今までかーちゃん以外の女には手を触れたことはおろか、
ロクに話したこともねえ。そりゃそうだ、このご面相だもんな。モテるわけもねえ。
25の時竜使いになって以来、もう3年も経つがこんな所でくすぶってるような
才能もねえ、クズみてえな男だ」
ムベは項垂れたまま、ポツポツとそんな話を始めた。28歳なんだ、随分歳上なんだなあ、3年も竜使いをしてるなんて大先輩だ、などとアタカは思ったが、ムベは自嘲気味に笑みを浮かべ続けた。
「ああそうだよ。28でこの頭だよ。
竜の力を持ってしてもハゲはどうにもなんねえんだよ!」
「ム、ムベさん、落ち着いて」
顔を上げたムベは、「ああ、悪ぃ」とバツが悪そうにつぶやき、座りなおした。この頭、この顔だ。誰もが額を凝視する。しかしアタカの目は真っ直ぐにムベの目を見ていた。今も、最初に声をかけた時もだ。
「……俺以外に、パピーを連れてる奴なんて初めて見た。
俺の顔を見て、怯えない奴もだ。それがこんな……可愛い顔してるもんだからよ。
つい舞い上がっちまった。悪かったな、アタカ。お前は別に悪かねえのによ」
「いえ……」
顔を見て怯えなかったというのは、正確ではない。アタカだって人並みの美醜感覚を持った人間だ。ムベの顔が酷く不細工で、恐ろしげだと感じるのは同じだった。
「そりゃあ男だったら顔なんか関係ねぇもんな。
パピーしか連れられなきゃ藁にもすがるわな……」
「……女だったとしても、僕はムベさんについていったと思いますよ」
躊躇いがちに述べたアタカの言葉を、ムベは鼻で笑う。自分の醜さは誰より彼自身が心得ていた。そして、世の人々がどれだけ辛辣にそれを評価するかも。心の中は、見た目になど現れないのだ。
「ハッ。慰めはよせよ。どこの女がこんなブサイクについてくってんだ」
「だってこの子が、すごくムベさんに懐いてますから」
アタカは彼の肩に乗るドラゴン・フライを撫でて笑った。
「この子、ずっとムベさんの肩に乗って、ムベさんを守ってるんですよ。
正直言って、僕だってムベさんの顔は怖いです。でも、少なくとも自分の竜は
誰よりも大事にしてる。この子を見れば、それがわかる」
ドラゴン・フライの複眼は赤くつやつやと輝き、薄い羽は虹色に輝いて一点の曇りもない。それは、ムベがドラゴン・フライを大切に手入れしている証だった。
「だから僕は、ムベさんなら信頼できるって思ったんです」
にっこりと笑顔を浮かべ、アタカははっきりそう言った。
「お前……いいやづだなあ」
ムベは再び涙を浮かべ、わんわんと泣き喚いた。大の大人が臆面も泣く涙を流し、鼻水を垂らして泣く様は無様で、不細工な顔がますます不細工になる。
しかし、アタカはその顔をもう、醜いとも怖いとも思わなかった。
「……なあ、お前やっぱり実は女だったりしねぇか?」
「しません!」
泣き終わった後、ポツリと漏らしたムベの問いだけは、全力で否定したけれど。