第10話 湖畔の乙女-5
「あ、あー、あーあーあー」
鈴を転がすかのような声が、辺りに鳴り響く。
「凄い……」
指先をぴんと伸ばし、スカートの裾をひらりひらりと閃かせながらディーナはくるくると回る。
「素敵、素敵、すてき……!」
嬉しそうに回るその姿は人間そのもの。とは言っても、先程まで戦っていたメリュジーヌとは衣服以外は似ても似つかない。
「ご主人様、人間の身体って本当に素敵ね!」
「良かったね、ディーナ」
ルルの手を握り顔を付き合わせれば、その服と赤い髪を除けば、顔立ちも背の高さも、何もかもが鏡に映したかのようにルルにそっくりであった。これは偶然ではなく、人に化けるに当たって彼女がルルの姿を参考にした為らしい。
手を取り合って一頻り喜び合った後、ディーナははっと何かに気付いた様に後ろを振り向いた。その視線の先に立っていたのは、ジンだ。
喜びに宝石の様に輝いていたディーナの瞳に、不安がほんの僅か陰りを落とす。
「……良かったな、ディーナ殿」
しかしそれも、ジンがトカゲの様な顔を器用に笑みの形に歪め、金切り声でそう言うまでの話だった。ディーナは思わずジンに飛びついて抱きつきたくなるのを抑えた。それは、淑女のしていい行為ではない。代わりに、両手を胸の辺りで組み、「ありがとう」と礼を述べた。
「改めまして、皆様に御挨拶申し上げます。ルルの使竜、ディーナです。
皆様と同じように話せるようになりましたから、どうぞ、よろしくお願いします」
スカートの裾を摘み上げ、ディーナは優雅に頭を下げて見せた。
「よろしくね、にしてもディーナ、ルルよりよっぽどお淑やかなんじゃない?」
「よろしく」と口々に答えるアタカ達の中、カクテがからかいの言葉を投げた。しかし彼女は湖の上にじっと視線を向けていて、カクテの言葉が聞こえていないようだった。
「……ルル?」
「いた……!」
じっと湖面を見つめる彼女に、アタカは声をかける。その様子には覚えがあった。
「メリュジーヌ?」
アタカの目には相変わらず何も見えないが、そう問えばルルはこくりと頷いた。
「何か言ってる……ディーナ、あなたは見える?」
主人の問いにディーナはふるふると首を横に振った。
「でも……歌が、聞こえるの」
「歌?」
こくりと頷くディーナにルルは耳を済ませたが、彼女の耳に聞こえるのは木々が風にざわめく音ばかり。どういう事か、と悩む彼女の耳に、突然歌が聞こえだした。
と言っても、今まで聞こえなかったものが聞こえるようになったわけではない。ディーナが、歌いだしたのだ。
聞いた事もない言葉で紡がれるその歌声は、意味は全くわからない。しかし、どこか懐かしい響きを持っていた。その歌は、目の前のメリュジーヌが歌っているものだと感覚としてルルは理解する。気付けば自然、歌が彼女の口をついて出ていた。
長い長いまどろみの中、彼は昔を思い出す。
遥かな故郷、美しき岩の錦蛇の背の泉の記憶。
人々は彼を称え敬い、彼はまた人々に雨と豊穣とを与えた。木笛の調べと彼を称える歌の数々。泉のほとりには鹿や兎の肉が供えられ、全ての精霊達は彼を敬い頭を下げた。
時に禁を犯したものを罰し、時に旱魃に苦しむものを助け、時に共に歌い語らう。
鳴り響く歌声は、そんな幸せだった頃の記憶と同時に、否応無く苦い味を彼の口の中に蘇らせた。それは、彼が精霊達の長の座から落とされる原因となった、二人の娘の味である。
彼の棲むミリルミナに、ある日血が流れた。それも傷によって流された血ではない。それは、不義を結んだ娘の流す経血であった。己の泉を穢され、彼は怒り狂った。彼の怒りは雷雲を呼び寄せ、雨を降らし、風を起こし、雷鳴を轟かせた。
嵐の中娘達は、彼を静める為に幾つもの歌を歌った。それは、彼の守護する部族が彼を称える歌で、その歌をうたうものは許さねばならないのが古より定められた盟約であった。
しかし、余りの怒りに彼は許す事が出来ず、二人の娘を丸呑みにしてしまう。他の精霊達との集会で、それが発覚するのはあっという間の事であった。
どのように誤魔化しても言い逃れることはできず、とうとう彼は精霊達の長の座から追いやられ、ミリルミナからも追放された。
その段になってようやく彼は怒りを解き娘達を吐き出してやったが、彼の腹の中で既に二人の娘は石へと姿を変えた後であった。
過去の苦い記憶に思いを馳せながら、彼はゆっくりとその巨体をもたげ、小さな者たちを見下ろす。
彼の名は、虹蛇ユルルングルと言った。
湖の中から鎌首をもたげたその巨大な蛇を、アタカ達は呆然と見上げた。その蛇がどこから現われたのか、誰もが理解できなかった。索敵の魔術に引っ掛からなかった、などと言う次元の話ではない。これだけ巨大な蛇がいて、気付かない方がおかしいのだ。
ユルルングルの身体は湖一面を覆い尽くし、もたげた首は天に届くのではないかと言うほど高く持ち上がる。その姿は赤銅色に煌めいて、鱗の一枚一枚が力に満ち、今まで彼らがであった竜達とは根本的に異なる力を持った存在なのだと宣言するかのようであった。
湖底にその身を潜めていられるような体躯ではない。ルルとディーナの歌が終わる頃、湖が突然七色に輝いたかと思うと、マカラさえ小さく見えるようなその巨体がまるで湖そのものが変ずるかのように現われた。
『小さきものどもよ。我に何の用だ』
雷鳴の如き声が、辺りに轟いた。それが目の前の大蛇から発せられている事を察して、アタカ達は息を飲む。その凄まじいまでの威圧感に、誰もが声を失い、動くことさえままならなかった。
ユルルングルは首を巡らせ、じっと見上げる二人の少女を見つめる。そして、己が意図せず呼び出された事を悟った。彼を呼び出す方法はただ一つ、救いを希う二人の乙女の歌のみ。……だがそれは本来、人の乙女を勘定に入れはしない。
『……用なくば、疾く失せよ。まだ汝らが我に対するは早い』
「待ってください!」
再び身体を湖の中に横たえ、消え去ろうとするユルルングルを、気付けばアタカは呼び止めていた。ユルルングルは答えず、しかし動きを止めてアタカの瞳を睨み付けた。途端、強烈な威圧感がアタカの全身を襲い、彼は思わず膝をつきそうになる。恐怖よりももっと根源的な感情が、彼の心を支配した。
それは、畏怖だ。自らの身体に危険があるから、恐れるのではない。己の理解を超えた、あまりに偉大な存在への、畏れだった。何か具体的に、呼び止めた理由があったわけではない。しかし、アタカはこの機を逃せば次は無いであろうと言う事を、自然と承知していた。人と言葉を交わし、更に交渉の余地がある野生の竜。そんなものとの出会いが、早々あるとは思えない。
「竜とは、なんですか」
たった、一言。
全身の力を振り絞るようにして、アタカはそう尋ねた。千載一遇の機会に出てきたその問いは、アタカの根源的な疑問であった。真っ直ぐにユルルングルの瞳を見上げ、ぐっと腹に力を込めてアタカは崩れ落ちそうになる膝を叱咤する。その身体を、ぐいとクロが脇から支えた。
その時、ふっと急に威圧感が消え、彼は目を瞬かせた。ユルルングルがゆっくりと瞼を閉じ、もう一度あけてアタカを見つめる。その表情はどこか、笑っているようにアタカには感じられた。
「私からも尋ねたい。『まだ早い』とはどういう意味だ」
ようやく声を出せるようになって、イズレは声を張り上げた。それとよく似た言葉をかつて、イズレは聞いたことがあった。ルルとカクテを、ケセド平野の『門』から助け出した時の話だ。
『……良いだろう』
ユルルングルは厳かにそう答え、牙を剥く。
『知りたくば、盟約に基き我は汝らを試そう。
その力、しかと証立てるが良い!』




