第10話 湖畔の乙女-4
ざばりと湖面を押し上げるようにして、最初に姿を現したのはタラスクスだった。六本の足を持つ、ワニに似たその身体はひと一人くらいなら軽々と丸呑みにしてしまえそうなほどの巨体。牙はぎらぎらと鋭く尖り、全身は硬い鱗に覆われ、その鱗のそこかしこからは剣の様に鋭いトゲが何本も生え揃っていた。
その凶悪な見た目に相応しく、その気性は非常に獰猛。その上、息には毒があり、その糞便は空気や水に触れると激しく燃え上がるという非常に厄介な性質を持っていた。
その長い上顎の上に、すとんと軽い音を立ててソルラクが降り立つ。と同時に、全体重を篭めた斧槍の一撃がタラスクスの眉間を貫いた。激しく声を上げて暴れながらも、タラスクスは尾をしならせてソルラクを襲う。タラスクスの尾はワニとは違い、蛇やさそりの様に自在に動かす事ができた。
しかしそれも、一呼吸遅れてやってきたジンの振るう刃が刎ね飛ばす。たまらず、タラスクスは彼らを振り払うように水中へと潜った。深い水の底まではついては来まい。水中から、燃える糞便をばら撒いて焼き殺してくれる。タラスクスの内心を代弁するとしたら、そう言ったところだろうか。
しかし、その意図が成立する事はなかった。水中に潜った彼の目の前には、口を大きく開いて突進するウミが迫っていたからだ。所詮、『人を一飲みにできる程度』の大きさしか持たぬタラスクスである。その十倍にも及ぶ体躯を誇るマカラには抗うことも出来ず、己と同じくらいの大きさの牙がその身体をバラバラに引き裂かれるのを受け入れるしかなかった。
「硬くて、トゲが刺さった? そのくらい我慢しなさいよ」
カクテは巨体でぴいぴい泣くウミを宥めながら、湖面をたゆたうソルラク達の回収に掛かった。
水中から姿を現すミズチとイピリヤを、ムベ達は湖のほとりで迎え撃つ。
まるで湖面の水がそのまま蛇に変化したかの如く沸き立ち、空中でとぐろを巻くのはミズチ。長く細い身体を持ってはいるが、蛇とは違い小さな足と角を持っているそれは、雨龍が成長した姿とも言われている。
一方、水辺からのっそりと姿を現すイピリアは、巨大なヤモリの様な姿をしていた。ただし、その頭には髪の毛と豊かな髭を蓄えている。
「り、竜の癖にフサフサだとぉ……!」
その姿を見て、ムベは激昂した。
「いや、それは流石に八つ当たりにしても甚だしいのではないかな」
少し呆れた様子で、イズレはムベを諌めた。寂しい彼の頭髪も、イズレにとっては男らしさの象徴のように感じられて、密かに気に入っているのだが、流石にそれを言うのは憚られた。
イピリアはおもむろにぷっくりと頬を膨らませると、上を向いて水を噴出した。巨大とは言っても一抱えほどのその身体に、一体どうやって収めていたのかと言う程の量。その水は、瞬く間に雨となって降り注ぐ。先程まで雲一つ無かった青い空は黒い雲で覆われ、すぐに風と共に嵐が巻き起こった。
「いけない……ディーナッ!」
同時に、雨の一粒一粒が無数の刃となって襲い掛かった。それはイピリアではなく、ミズチの仕業だ。ディーナは無数の雨粒を楯にしてそれを防ぐが、ミズチは雨龍の純粋な上位種といって良い竜である。魔力の差は如何ともしがたく、じりじりと楯は破壊され、刃がルル達を襲う。
「ビー・ジェイ」
その、文字通りの刃の雨の中を、ビー・ジェイが走った。その肌を無数の刃に切り裂かれつつも意に介さず、目だけを守って突き進む。そして蛇の下半身をバネの様に使い器用に跳躍すると、鋭い爪でミズチの喉笛を切り裂いた。その一撃で屠れないまでも、衝撃に雨粒が力を失い、ただの水に戻る。
その瞬間を見逃さず、一気に水滴の支配権をディーナが掌握した。先程までとは反対に無数の水の刃がミズチを切り裂き、パンと軽い音を立てて魔力結晶へと姿を変える。
「逃がさねえぜ」
旗色が悪いと見て水中に逃げ込もうとするイピリアの退路を、ムベとエリザベスが塞ぐ。さそりの尾が、驚くべき速度でイピリアの喉元に突き刺さった。もがき苦しみながらも、イピリアは口から鋭く水を吐き出す。高圧で噴出されるそれは、鉄の鎧でも易々と引き裂くほどの破壊力を持っていた。
「させない!」
しかし、ディーナの魔術によって水は散らされ、エリザベスに届くことはない。エリザベスが口を開き高温の炎をかわりにお見舞いすると、イピリアもまたさほどの時を待たず結晶になって地面に転がったのだった。
「おっちゃん、これ使うー?」
「だからおっちゃん言うな! ……タラスクスか。使うことは出来るが……」
深緑に光る結晶を握ってエリザベスを見ると、彼女は拒否の意思をムベに伝えながらぶんぶんと首を振った。
「糞を武器にするような下品な竜は嫌だとさ」
笑いながら、ムベは結晶をカクテに放り返した。エリザベスはこれで意外と好みがうるさい。どちらにせよ、今使っているムシュフシュのほうが上位だからと、ムベも無理に強制するつもりはなかった。
「ルル。ミズチとイピリアは両方精霊種だが、どうする」
「うーん、ミズチは貰えたら嬉しいです、けど……」
魔力結晶を差し出すイズレに、ルルは歯切れ悪く答えた。
雨龍という初期の竜で今まで彼女が戦ってこれたのは、ひとえにその才能によるものだ。無論、彼女自身と雨龍という種の相性が良かった事もあるが、そろそろ限界である事は確かである。殆ど戦闘スタイルを変える事無く戦えるミズチの結晶は、正直言えば喉から手が出るほど欲しい。
しかし、彼女はミズチを受け取る事を渋った。どうしてもメリュジーヌが欲しいと、彼女の頭の中で相棒が声高に主張していたからだ。流石に両方欲しがるのは図々し過ぎる。
「まあ、出なかった物は仕方ないだろう。ここで泊る訳にもいかないし、
今日のところはミズチを取っておいて、またくればいい。
どっち道、完全定着させる為には通う必要が……」
「ちょっと待ってください」
アタカは水際に膝を突き、じっと水中を見据えながらイズレの言葉を遮った。
「ルル。この方向……80mくらい」
「わかった」
ルルはアタカの横に座り込み、並んで水中をじっと見た。水は透き通ってはいるが、流石に80mも先となると見通すことは出来ない。しかし彼女は微塵も疑う事無く、ディーナに指示を送った。
小さな水の精霊は正確に80m先の水を操り、かき乱す。流石にその距離ともなるとたいした操作は出来ないが、その必要はなかった。少しでも敵意をこちらが見せれば、後はあちらから襲い掛かってくる。すぐさま水面にルルが昨日見た女性が姿を現し、こちらへと真っ直ぐ視線を向けた。
「ルルが見たのはあれ?」
「う……ん」
中世のような、古めかしいドレス。赤い髪に、美しい顔。間違いなく、昨日見たのとかわらぬ姿だ。しかし何か違和感を覚えて、ルルは頷くのに少し躊躇した。
「来るぞ。避けろ」
イズレが声を張り上げると同時、湖面の水が盛り上がって三匹の蛇のようにうねり、アタカ達を襲った。慌ててクロにまたがりかわすと、水の蛇は大地に突き刺さって土をうがつ。細くしなやかなその外見とは裏腹に、アタカが丸ごと入るほどの穴が地面にうがたれた。
「くらえー!」
ざばりと水中からウミが顔を出し、大きく口を開いてメリュジーヌを飲み込もうと迫る。
「ウミ、結晶まで齧っちゃ駄目だからね」
ばぐん、と口を閉じたものの、何か違和感があるらしく口をもごもごさせるウミに、カクテは嗜めるように言う。
「カクテ、上!」
「えっ?」
すっかり勝ったものと油断しきっていたカクテの真上、メリュジーヌが炎の塊をその手の平に掲げて飛んでいた。
「なっ、飛んだー!?」
その下半身は青銀に輝く鱗を持った大蛇、背には蝙蝠のような翼を生やしたその姿を見て、ルルはやはり、違う、と強く感じた。川の上でルルを見つめていたメリュジーヌと、その本性を露わにして炎をかざす目の前のメリュジーヌは何かが根本的に異なる気がした。
それは姿形や敵意を持つかどうかではなく、もっと根本的に……
「ちょっと、ルルー!?」
ルルが深い思考の檻に捕えられていると、カクテが死に掛けていた。目前まで迫る炎を、彼女を含めルル以外は防ぐ術を持たない。
「あっ」
「あっ、て何よ……!」
カクテの抗議の声を置き去りにして轟音が響き、ウミの背の上を爆炎が覆いつくす。
「カ、カクテー!」
「うっさい、生きてるよっ!」
顔を煤で真っ黒にしながらも、カクテはまるで小荷物の様にソルラクの脇に抱えられ、宙を舞っていた。それに追随するかのようにジンが跳び、ソルラクの腕を踏み台にして、空中で再度跳躍するとメリュジーヌに向かって刃を振るう。
ガン、と硬質な音が鳴り響き、ジンとメリュジーヌの間に突如出現した石造りの壁が、その刃を防いだ。ジンがぐっと腕に力を入れて刀を振りぬけば、石壁は真っ二つに裂かれて魔力の粒子となって風に溶ける。しかしその隙は、メリュジーヌが翼をはためかせ、ジンの攻撃範囲内から外れるのには十分だった。
空を飛ぶ術を持たないジンは、そのまま湖面へと落ちていく。追撃の魔術を練り上げ、炎を放とうとするメリュジーヌの腕が、不意に切り裂かれて湖にぼちゃりと落ちた。肩を抑えながら振り向く彼女の瞳に映ったのは、羽ばたくムシュフシュに跨ったラミアの姿。
ビー・ジェイ達を相手にするか。ジンを相手にするか。ほんの一瞬、逡巡を見せるメリュジーヌの体を、巨大な壁が覆った。それがマカラの巨大なあぎとだと気付いた時にはもう遅い。石壁での防御も丸ごと飲み込まれ、メリュジーヌはついに魔力結晶へと姿を変えた。




