第07話 ムベの恋-4
コクマの森。
商業都市サハルラータと、漁業の街シルアジファルアの間に横たわるこの巨大な森は、西と東とに大きく分かたれている。その東西を分けるのが、森の中心に位置するケテル湖、そしてその湖に北のティフェレト山脈から流れ込み、南ゲブラー海へと抜けていくケテル河である。
「……竜の気配が全然ありませんね」
さらさらと流れる河の水を掬い、周りの気配を確かめながらアタカはそう呟いた。川を挟んで生い茂る森の中にも、河の中にも、竜の気配はまるで感じ取れない。澄んだ河の流れに目をやれば、森の中とは違って魚達が気持ち良さそうに泳いでいた。
「この河は、ケテル湖にいる竜達の縄張りなんだ」
ざぶざぶとラミアを河の中に入れながら、イズレは南を指差した。
「実際には、ケテル湖に出没する竜は大きすぎてこの河には出てこない。
が、森の西側の竜よりは2ランク程上だからな。怖れているのか、近寄らないようだ」
そしてつい、と指を東へと向けると、そこにはまるで壁の様にみっしりと立ち並ぶ巨木があった。まばらで隙間だらけの東の森と違い、一部の隙もなく絡み合う木々は竜や人どころか、猫の子一匹入り込む余地がなさそうだった。
「東側はと言えば、あんな有様だ。森の東側に入るには、東の入り口……
シルアジファルアの方に回り込まなければ入ることが出来ない。
湖の竜より更に強い竜が跋扈する魔窟だが、ここならば安全と言うわけだ」
さて、と振り向き、イズレは己の身体を疲労するかのように両腕を広げ、アタカとムベに向き直った。
「では、身体を洗ってくる」
言葉には出さないが、『そこで見ている気か?』と問うかの様な圧力が、その言葉にはあった。
「あ、ああ、じゃあ見張りをしておくな」
ムベは思わずそう答えてアタカ共々森の中へと引っ込んでしまった。
「……見られたくない、って事は、やっぱり女性だったって事でしょうか」
「どうだろうなあ……男でも、同性に肌見られたくねえって奴もいるだろうし」
森の中、二人は顔を突き合わせてううむと唸る。
「……こうなったら……覗くしかねえな」
「ムベさん、流石にそれは……」
露見すればパーティ自体が崩壊しかねない。ムベの表情からかなり本気と見て、アタカは思わず彼を止めた。
「いや、何も俺が覗くわけじゃねえ。エリザベスに見てきてもらうんだ。
俺は視覚の共有なんて真似は出来ねえし、エリーならイズレさんが女だったとしても
女同士で問題ないだろう? で、性別だけ教えてもらえばいい」
「うーん……」
アタカは考え込み、唸った。イズレとの森につく前のやり取りを思い出す。肌を見られたくない、と言うよりも、イズレは自分の性別を知られたくないという気がした。しかしそれにしては、こうやって水を浴びると言うのは不自然だ。……まるで
「エリザベス、『ドラゴン・フライ』オン。頼んだぜ」
アタカが思考を纏めるよりも早く、ムベはエリザベスをドラゴン・フライの姿に変えるとそう命じていた。エリザベスはどこか呆れたように羽音をブンと立てて1,2度旋回すると、木の上まで飛び上がって河へと向かっていった。
それから、十数分後。
「どうした、エリー?」
エリザベスから伝わってくる、酷く混乱した感情を受け取りながら、ムベは帰還した彼女に問うた。
「……男だったか?」
ブン、と羽を震わせて、エリザベスが伝えるのは『否』という意思。
「じゃあ、女か!」
しかし、声を弾ませそう言うムベの言葉にもまた、エリザベスは『否』と伝えた。
「……どういう事だ? 裸を見てもわかんなかったって言うのか?」
その問いに返すのは『是』だ。エリザベスには、イズレが男なのか、女なのか、判断できなかった。
「……体付きだけじゃわからなかったって事でしょうか」
女性でも、男性に見紛うばかりの体格を持っている人と言うのは、稀にいる。大抵、その容姿が自然……例えば、大平原だとか、崖だとか……に例えられる人種である。イズレもそのような体付きだったのだろうか、とアタカは失礼な事を考えた。
「その……確実に、男女の差異が現れる部分であれば」
「いや、もういいよ、アタカ」
恥かしげに、言葉を濁しながらもエリーに言う彼に、ムベはそう声をあげた。
「エリーも、ありがとな。妙なこと頼んじまってすまねえ」
ムベはエリザベスの頭を一つ撫で、彼女の姿をムシュフシュに戻す。
「……いいんですか?」
「ああ」
急に執着をなくしたムベを、アタカは不思議そうに見つめた。
「エリーが見たのがどんなものだったのかは、わかんねえ。……けどな。
イズレさんが、性別を話したがらないのはその辺に理由がある気がするんだ。
俺だって頭髪の話なんかしたくもねえ」
男か女かわからない。そういうエリザベスの真意がどこにあるかはわからない。
が、己の外見に強いコンプレックスを持つムベは、イズレの態度にもそれがあるのではないだろうか、と思った。あれほどの美しさを持つ人でも……いや、もしかしたら、美しいからこそ、その奥に秘めた苦しみがあるのかもしれない。彼は、ふとそう思ったのだ。
「それに、なんかな。まだ二週間の付き合いだが……あの人は、いい人だ。
見た目で人を差別しねえし、言葉は朴訥だが付き合いやすい。竜も大事にしてる」
アタカにとってそこは重要だ。うんうん、と彼は頷いた。
「いい竜使いで……いい仲間だ。だったら、別に男でも女でもいいじゃねえか。
って、今更ながらに思ったのさ」
余計な事をして、傷つけたくない。それに、どうせ女だったとして、俺みたいな奴を相手にするわけも無いしな、とムベは自嘲気味に笑みを見せた。
「それは本当か?」
その時。唐突に割って入った声に、アタカとムベはびくりと身体を震わせた。
凛とした、しかしどこか色気を含む中性的な声色。振り向くまでもなく、その声の主はイズレだった。
「盗み聞きをする気はなかったんだが……
まあ、そちらも盗み見ていたのだ、お互い様と言う事で許してはくれないか?」
しかも、エリザベスを使いにやったことまでバレていた。
「……詮索してすまねえ、イズレさん。だが今言ったのは本当、本心からのことだ。
これ以上探ったりはしねえから安心してくれ」
「そうか。それは実に嬉しいな」
そうムベが頭を下げると、イズレは満足げに頷いた。
「アタカ、君はどうだ?」
「気にはなりますけど、竜を大切にする人かどうかの方がよっぽど大事です」
視線を向けられ、アタカは正直にそう答えた。彼にとって最も重大な点はそこであり、それ以外は全て些事である。
「なるほど」
ふう、と一息つくと、イズレは改まった態度で二人を見た。
「……実はな。私にも、自分の性別はわからないのだ」
「えっ」
アタカは一瞬、冗談かと思う。しかし、イズレの表情はどこまでも真剣だった。
「性分化疾患……或いは、半陰陽、両性具有などと呼ばれる者がいる。
私は、それだ」
極めて冷静に、淡々とそう告げながらも、彼……もしくは、彼女の手が震えていることに、ムベは気付いた。
「そういった者の多くは、己が男であるか、女であるか……自覚を持つ。
身体はともかく、心はどちらかの形をしている。
だが、私は、違う」
身を切るかのような告白だ、とアタカは思った。平坦に告げられる言葉はまるで鮮血が滴り落ちるかのようだ。
「……もういい」
「いや、言わせてくれ」
イズレを止めるムベの言葉に、イズレは首を横に振って続けた。
「己が何者にも属さないと言う事は、恐怖以外の何物でもない。
不思議なことに、出会うものは皆私を同性だと思うらしい。
アタカ、君は私を女性だと言ったが、第一印象ではそうではなかっただろう?」
「はい」
素直に、アタカは頷いた。
「誰もがそうだ。私は男でも女でも無い、何者でもない身でありながら、
今まで異性と言うものに出会ったことが無いのだ。
……ムベ。君を除いて、だ」
まるで能面の様に無表情だったイズレの顔が、ふっと和らいで笑みを浮かべた。
「君ときたら、最初から殆ど私の事を女扱いしていたものな」
それどころか、くく、と喉を鳴らして可笑しそうに笑い始める。
「いや、それは……別に俺が何か特別なわけじゃ」
「ああ、わかっているとも。だがしかし、それでも。
それでも、君は私が初めて出会った『異性』なのさ。
最近は慣れた様で寂しいが……」
すっと身体をムベに寄せ、イズレは目を細めて彼の顔を見つめた。大柄なムベと、男女の中間の身長を持つイズレは意外にも似合っているようにアタカは思った。
「私にこう寄られて、赤くなる君の顔は実に可愛らしかった」
「あ、飽くまで、仲間として、だからな……!?」
ずりずりと後退りながらも赤面し、上ずった声でムベはそう言った。彼の頭の中はかつて無いほど混乱していた。男ではない。が、女でもない。とにかく美形な、そんな人物が明らかにムベに言い寄っている。今まで男は勿論、女に言い寄られた事などない男だ。完全に彼の対処能力の限界を超えていた。
「わかっている。勿論、わかっているとも。
今は、それでいい」
「い、今は……!?」
ずりずりと後ろに下がるムベの退路を、何者かが断った。柔らかくも力強い力に後ろを振り向けば、ラミアがムベの両肩を押さえ笑う。
「決めたぞ、ムベ。
……私は、君を全力で篭絡する事にした」
そう言い放ってムベの胸にそっと頬を寄せるイズレの姿は恋する乙女以外の何者でもなく、ムベとアタカを戦慄させたのだった。




