プロローグ
その街は大陸の最南端、まるで槍のように細く長く突き出した半島の先に位置していた。しかし海には面しておらず港はない。代わりに灰色の石で作られた堅牢な壁が、二重三重にぐるりと取り囲んでいる。
壁と壁の間には広大な畑が作られており、街の外に出ずとも食料の確保ができるようになっていた。と同時に、攻め入られた時その畑は戦いのためのスペースにもなる。その作りはまさしく、城塞都市であった。
ただ一点。街の中心にあるべき城がなく、代わりに役所と広大な牧場が広がっていることを除けば。
遥か彼方に聳える世界樹を眺め、ゆっくりとのぼる日差しを浴びながら、その牧場で少年はゆっくり竜の毛をブラシで梳いてやっていた。
竜の地の民である事を現す黒い髪に茶の瞳。ともすれば少女にも間違いそうな柔和な顔立ちには、しかしその意志の強さを示すかのような太目の眉が乗り、優しげな瞳が竜を見つめていた。
竜と言っても、もっとも有名な巨大なトカゲにコウモリの翼、牛を丸呑みにするほどの巨体……といった姿ではない。その外見はむしろ大型の犬を髣髴とさせるものだった。
その体には鱗も翼もはなく、代わりにフサフサとした亜麻色の毛で覆われている。頭には耳が一対垂れ下がっており、ますます犬の様な印象を強くしていた。その太く長い尻尾と、頭のところどころから突き出している小さな角だけが辛うじて竜らしさを醸し出している。
この種は竜の幼体であり、ドラゴン・パピーと呼ばれていた。そこはパピー達を育てている竜牧場であり、少年の周囲には何頭ものパピー達が転がって毛を梳いてもらう順番を待っていた。少年は丁寧に絡まったり強張ったりしているパピーの毛を解きほぐしていく。
「おはようございます、アタカ君」
そんな少年に、不意に声がかけられた。声をかけたのは、少年よりも1,2歳ほど年上に見える少女だった。その鮮やかなエメラルド・グリーンの髪と、そこからはみ出す長い耳は彼女が『外人』である事を示している。
「あ、おはようございます、ルビィさん」
アタカと呼ばれた少年は手を止めて立ち上がると、少女に向かって頭を下げた。手が止まったのを抗議する様に、今まで毛を梳かれていた竜がぐるぐると小さく唸った。その頭を撫でてやりながら、ルビィと呼ばれた少女はアタカに優しく微笑みかける。
「いよいよ、今日ですね」
「……はい」
アタカの表情に、緊張の色が混じる。
「今までありがとうございました。アタカ君が手伝ってくれたお陰で、
この子達の世話も随分助かりました」
「いや、まだ受かったと決まった訳じゃないですしっ」
ぺこりと頭を下げるルビィに、アタカは慌てて手を振った。
「アタカ君ならきっと……ううん、絶対に受かりますよっ」
ぐっ、と拳を胸の前で握り締め、ルビィはアタカを励ました。
「……頑張ります」
そんな彼女に、アタカは少し緊張のほぐれた表情で力強く言った。ルビィは満足げに頷き、アタカからブラシを受け取る。
「じゃあ、残りはあたしがしておきますから、アタカ君は遅刻しないうちに市庁舎へ。
今日の試験はあたしもお手伝いに行く予定ですから、頑張ってくださいね」
「はいっ」
勢いよく頷き、アタカは牧場を出た。日は随分と高くなり、街は賑わい始めていたところだった。道の真ん中をがらがらと音を立てて竜車が走り、商人達の威勢のいい声が辺りを飛び交う。大きな竜が前足で器用に木の柱を支え、人が金槌で釘を打ち込む。
ここフィルシーダ市は、大陸で最も竜使いの多い街だ。日常に竜が溶け込み、人と竜が力を合わせて暮らしている。
そして、今日は年に一度の竜使いの試験の日だった。誰もが竜使いになれるわけではない。竜のその強大な力を手に入れるには、一定以上の能力を必要とされた。そして、アタカは試験を受けられる15歳の今日と言う日まで、ずっと竜使いを目指して努力してきたのだ。
「おはよう、アタカ」
「おはよう、ルル」
市庁舎へ向かう途中、アタカは顔見知りと出会った。彼女も同じく竜使いを目指す15歳。幼馴染のルルだ。
アタカと同じ、竜の地の民である事を示す茶色の瞳と黒い髪。さらさらの髪を背の中ほどまで伸ばし、透き通るような白い肌を真っ白なワンピースに包んだその姿はまるで人形の様に愛らしい。美少女と言って差し支えない顔立ちは控えめで優しげだが、見た目に騙されると痛い目に遭うという事をアタカは長い付き合いでよく知っていた。
「今日は負けないからねっ!」
「いや、勝負じゃないから」
冷静にアタカが突っ込むと、ルルは明るく笑った。
二人が市庁舎にたどり着くと、既にそこは受験生でごった返していた。受験資格は15歳からとは言え、アタカ達の様に15歳から試験を受ける者はそれほど多くない。特に、彼らが受けようとしている上級竜使いの試験となれば尚更だった。
「すごい! あれはチャク・ムムル・アインだ!
マフートにノヅチ、ラプシヌプルクルまでいる!」
集まってくるのは受験生だけではない。現役の竜使いたちもまた、更新の為に市庁舎へと足を運んでいた。普段は見ることのできない竜の姿にアタカは興奮して声を上げた。
「アタカって本当に竜が大好きだよね……」
呆れたようにルルは呟く。竜が好きというただその一念だけで毎朝早く起きては牧場で竜の世話を手伝い、竜使いを目指しているのだから筋金入りだ。
竜使い達(正確には彼らの連れている竜)を眺めて動こうとしないアタカを、半ば引きずるようにしてルルは市庁舎へと足を踏み入れ、試験受付へと向かった。
「おはようございます、コヨイさん。試験受けにきました」
「……おはようございます。受験料は20シリカ、それと受験票をお見せください」
アタカが挨拶すると、受付の女性は事務的な態度で答えた。見るからに生真面目そうな、眼鏡をかけた美女だ。
日ごろから市庁舎に入り浸り、パピーの世話を手伝っていたアタカは竜使い課の人間とは殆ど顔見知りだ。先ほど牧場で応援してくれたルビィも、役人の一人だった。
アタカとルルは受験票を提示し、銀貨を支払う。コヨイは二人の受験票に判を押し、受験要領の書かれた紙を渡しながら説明する。
「午前中は筆記試験。1時間の休憩を挟み、午後は体力試験を行います。
その後、更に1時間の休憩の後、合格発表。合格者は順に……」
「適性検査と、竜の授与、ですよね!」
満面の笑みを浮かべて言うアタカに、コヨイは眼鏡の位置を直し咳払いした。
「その通りです。試験会場はそこの角を曲がって右、お二人とも第二試験室になります。
わかったら後がつかえて邪魔なので、さっさとどいてください」
冷たい口調で、コヨイは言った。しかし、彼女のそう言った態度はいつもの事なのでアタカは気にせず頷き、その場を後にする。
「……頑張ってください」
かすかな声に振り向くと、コヨイは次の受験者の対応をしていた。
「がんばりまーす!」
アタカは笑顔でコヨイにぶんぶんと手を振った。周りの視線が一斉にアタカとコヨイに集まり、コヨイの頬が赤く染まる。ダンッ! と小気味の良い音を立ててコヨイは受験票に判を押すと「次の方!」と声を上げた。
そして、試験が開始された。
上級竜使いの試験は、基礎的な知識から専門的な竜の取り扱い方まで多種多様だ。ごく一部の小さな竜を使役できる下級竜使いなら、一般教養程度の知識があれば受かることが出来る。しかし、全ての竜の取り扱いを許可される上級には並々ならぬ努力が必要だった。
そして、アタカはその並々ならぬ努力を誰よりもしてきたつもりだ。
この世界の成り立ち。9つに分類される竜の種類。壁に阻まれた、街の外の知識。竜とはなんなのか。そう言った基礎的な知識から、竜の調教・訓練方法、魔力結晶化、制御方法や専門的な魔術知識まで。
アタカはどの問題もさほど考えることなく、スラスラと解いていった。ルビィやルル、コヨイ達と話して緊張が程よくほぐれたのか実に調子がいい。結局30分以上時間を残して全ての回答を埋め、3回見直して筆記試験は終了した。
昼休みを挟み、体力試験。アタカが鍛えてきたのは頭だけではない。竜使いの資本となる身体もまた、15年間ずっと鍛えてきた。闇雲に努力するのではなく、適度に休憩を挟みながら効率よく身体を鍛える。それは、竜育てにも通ずるところがあった。
短距離走。長距離走。高飛び。腕立て伏せ。腹筋。反復横とび。同年代はおろか、上の年代と比べても優秀な成績で、アタカは試験を軽々とこなしていった。
「アタ、カ、ほん、と、……はぁ、はぁ……
体力、どん……だけ……」
「無理せずに息整えて」
ぜえはあと肩で息をするルルに、アタカは苦笑していった。彼女も同年代に比べればかなり鍛えてはいるが、それでも運動能力にはアタカとは雲泥の差があった。とは言え、体格にも頭脳にも、アタカは恵まれているわけではない。
平凡な頭に知識を詰め込み、平凡な身体を鍛え。ただただ15年間ずっと竜使いになることだけを夢見、努力を積み上げてきた結果が今の彼だった。
息を整えたルルと他愛も無い話をしていると、1時間ほどしてルビィが丸めた紙を抱えて歩いていくのが見えた。アタカがそちらに目をやると、彼女は笑顔で手を振る。アタカも表情を綻ばせ、手を振り返した。
「ルビィさんって可愛いよね」
「……そうだね」
ルルの呟きに、アタカは内心動揺しながら努めて冷静に同意の声を返した。
「外人の人ってどうしてああ美人揃いなんだろ……」
ほう、とため息をつき、ルルは羨望の眼差しを送る。そういうルル自身、滅多に見ない美少女ではあるのだが、ルビィの美しさはそれとは異なるものだった。触れれば消えてしまうような、幻想的な美しさ。例えるなら精霊か天使の様な、肉の重さを感じさせない不可侵の美しさだ。
とは言っても近寄りがたい訳ではなく、むしろ本人は至って付き合いやすい性格をしている。持っていた紙を掲示板に貼ろうと、全力で爪先立ちをしてぷるぷると震える彼女の後ろから、アタカは紙を押さえた。
「手伝いますよ」
「あ、ありがとうございます、アタカ君」
ほっとしたように笑顔を見せ、ルビィはぺたりとかかとをつける。
「それと、おめでとう!」
満面の笑みで祝いの言葉を投げかけられ、彼女の視線を辿って紙をよく見ると、それには試験の結果が書かれていた。
「試験の結果を発表しまーす」
アタカの助けを借りてピンで紙を掲示板に留め、ルビィは周りに向けて声を張り上げる。掲示板の前が受験者達で埋まる前に、ルルはさっと結果に目を走らせた。
「あっ、すごい! アタカ、成績1位だよ!」
ルルはアタカの手を握って飛び跳ねた。そういう彼女自身も3位。この試験会場だけでも1000人近くの人間が受けているので、かなりの高順位と言える。そして合格者は僅かに10人。上級竜使いとはそれほど狭き門なのだ。
「では、合格者の方は適性検査を行いますので、こちらへきてくださーい」
ルビィの先導に従い、合格者達は第五試験室とプレートのある部屋へと向かった。その中には受付をしていたコヨイと、20歳くらいの男性が立っていた。
「やあやあ、皆さんお疲れ様。そして、合格おめでとう!
今から行う適性検査は合否には関係ないから、まずは楽にして欲しい」
明るい声色で気さくにそういう彼の顔を、アタカは知っていた。流石に直接会うのは初めてだが、あるいはこの街で最も有名な人物かもしれない。
「……市長。まずは名を」
コヨイが後ろから囁く。
「おっと、忘れてた。でもまあ、皆知ってるでしょ?
俺がフィルシーダ市長のコウです。よろしくー」
市長は軽い口調で言った。コヨイが眼鏡を持ち上げる。その顔に表情は無いが、こめかみが僅かにぴくりと震えるのをアタカは見逃さなかった。
「試験に合格した君達ならわかっていることだろうけど、これから適性検査……
君達がどれほど竜に対して同調できるかを検査させてもらう。
勿論、高ければ高いほどいいけど、さっきも言った通り低くても合否には
関係ないから安心してねー」
立て板に水とばかりに市長は並べ立てた。コヨイが水晶玉のようなものを机の上に置き、ルビィが合格者の名がリストアップされた紙を広げた。
「では、名前を呼ばれた方からこの水晶に触れてください。
まずは、カクテさん」
名前を呼ばれた少女が水晶玉に手を触れると、その中に炎がともる。
「……41%です」
コヨイは目を細めて炎を眺め、そういった。ルビィがその数字を合格者の名前の横に書きとめる。
「次は、カナリさん……」
次々に合格者が適合率を量っていく。個人差はあるが、だいたい50%前後、30~70%程度の範囲に収まるようだった。
「次はルルさん」
どうやら成績が下の方から呼ばれているらしく、ルルは8番目に呼ばれた。彼女が水晶に手を触れると、目に見えて大きな炎が水晶の中に浮かび、室内はどよめいた。
「95%です」
ピュー、と市長が口笛を吹く。
「こりゃすごい、90%越えは滅多にいないよ」
ルルはなにやら照れながら、アタカの隣に戻る。
「次、ソルラクさん」
試験で2位。背の高い、鋭い目付きの男が進み出た。大人びて見えるが歳はアタカ達と同じ15歳。ある意味で彼も有名な少年だった。総合成績では惜しくもアタカに負けたが、体力試験ではダントツの一位だ。
ソルラクが水晶に触れると、ルルに勝るとも劣らぬほどの炎が浮かび上がった。
「これは……98%、です」
流石に驚きに目を見開き、コヨイが声を震わせた。
「そりゃすげー」
市長は飽くまで軽い調子で言った。
「では、最後……アタカ君、お願いします」
少しだけ丁寧さを増した口調で、ルビィがアタカを促す。部屋中の視線が、彼に注がれた。3位が95%、2位が98%と来れば、1位に期待するのは100%しかない。試験の結果が適合率に比例するわけではないが、誰もが水晶を完全に埋め尽くす炎を想像した。
緊張した面持ちで、アタカはそっと水晶玉に触れる。
「……あれ?」
しかし、アタカが水晶に触れても何の変化も訪れなかった。何かの間違いかと、二度、三度と彼は水晶に触りなおすが、炎が浮かぶどころか光さえ出ない。
「市長」
困惑した表情で、コヨイが背後を振り返る。市長は頷き、少しだけ重い声色で言った。
「……これは、0%だね」
足元がガラガラと音を立てながら崩れていくような錯覚を、アタカは感じた。