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第3話

「よしましょう。また夢になるといけないわ」

「寝ぼけとるんけ?」


 富岳を探して駅まで車を走らせていると、複合ビルの1階の化粧品店が、都市という機械に組み込まれたインジケーターランプのように、世相を反映すべく光り輝いているのが視界に入った。何と読むのかも覚つかない、流行りの看板が白光するそばの道路で、女が1人、さながらこの世が今しがた終わって、二度と始まることが無いといった様子で、うずくまって泣いていた。俺は信号で停車し、サイドミラーにその女の姿が小さく映り続けるのに魅入って、本当にこのあと世界が終わるのではないかと思った。

 それから、並の男が、人目も憚らずうずくまって泣き倒れる女に動員し得る、心ばかりの想像力が、俺の頭にとある物語を紡がせた。創造性に欠け、デリカシーに欠け、あまつさえ合理性にすら欠ける物語だったが、何もかも上手くいかない孤独な男の人生に、隙間風のように入り込んできた夜の空気は、軟弱な思想に搭載された軟弱なエンジンに鞭打った。



「ねぇ、名前はどうしましょう」

「男だったら富岳」

「女の子だったら?」

「女でも富岳だ」

「真面目に考えて頂戴……いえ、真面目に考えてそれなのね」


 その女の身籠った女児は、母親の慈しみを一身に浴び、腹の中で日増しに大きくなった。とかく仕事に忙殺されがちな父親は、この世の意味と価値とを、その腹の膨らみに託すことを覚え、束の間、幸せを享受した。そして母親にとっては既に、自らの肉体の中に発生した別の肉体というものが、彼女の意味の全てになり、価値の全てになっていた。他の何者が自らを脅かそうと、ダイヤモンドの精神を保持して戦うことができると感じ、それと同時に、既にこの戦いを勝ち抜いた過去現在の全ての母親たちへの尊敬が、自然に湧いて出てきたのだった。

 妊娠から7か月程経過した、3月の夜のことだった。星空を眺めようと庭に出た彼女は、どういう訳か全く星が出ていないことに気づいた。空気は澄み切り、天上には雲の影すらない、死にたくなる程気持ちの良い夜である。ひょっとしたら、人はこんな夜に死ぬのかも知れない。

「今日は満月だ。明るすぎて星は見えないんじゃないか」

 玄関から、顔を出した夫が声をかけた。それを聞いて「ああ、どおりで」ともらした彼女は、庭先を、ゆっくりと音も無く歩き、夢の如き月光と共に振り注ぐ、彼女だけが知る世の真理というものを身体に纏いながら、振り返って言った。

「ほら、あそこ。屋根に隠れて見えなかったの。凄い満月」

「どれ、独り占めは日本人のすることじゃない。俺にも見せろ」

 ほら、あそこ、と、彼女は満月を指さした。そしてその瞬間、腹の中の娘が始まってもいない人生を終え、胎児の見た心地よい夢が彼女の脳に伝播したのと同時に、富岳と名付けられるはずだった女の母親は、ゆっくりと、祈るように倒れ伏した。

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