第2話
「この北緯38度線を境に上朝鮮と下朝鮮に分かれてるのね」
「北朝鮮を上朝鮮て呼ぶんは100歩譲って許すとしてもや。韓国を下朝鮮って呼ぶんのは止めときや。死ぬで」
彼女は名乗った。「富岳というの」と、日曜日の午後の、夕日の反射するオルゴール箱の中のような一室で、全裸で、自分の下の名を明かした。
それまで、俺にとっての彼女は、必要欠くべからざるモノの大半が欠落した存在だった。常識、社会性、身分。もっと踏み込んだことを言えば、人は皆、ある人にとって知り合いか他人かのどちらかであるはずなのに、俺にとってのこの女は、知り合いと他人とのどちらでもなかった。どちらかであるためのプロセスを、すっかり飛ばしてしまった。唯一、これまでに俺が知りえた、知り合いでも他人でもない人間は誰かというなら、それは他ならぬ俺自身だった。だから、俺はこの狭いアパートの中で、富岳という女の裸体を見るともなしに見、富岳という女と、話すともなしに話すとき、自分自身と出会っているような気がするのである。
「ブルータス、お前もか!」
「俺はロミオでもブルータスでもないねん」
近所の、スーパー以外の何者かたろうという努力を、とうの昔に放棄したスーパーで、富岳と一緒に買い物をしているとき、俺のスマホが鳴った。田舎の母親からの決まりきった電話に、都会で暮らす息子からの決まりきった返事を返している様子を、富岳は、虹でも見るような、おかしなテンションで観察しているようだった。「誰?」と訊く富岳は、何も知らない極彩色の小鳥のように見え、その心の奥に、心というものが彼女にあるとすれば、希望の白よりは絶望の黒が少しだけ滲んで見えるような気がした。俺が「母ちゃんや」と答えると、彼女は「あなたに母親がいたの?」と返した。今のところ、母親以外の親から生まれてきた人間を俺は知らない。
その日「お前には母親はいないのか」と、訊くことは出来なかったが、訊いたところで、彼女は小鳥のように飛び去って行くだけだ、ということが、まるで自分のことのようにわかった。
「クララの馬鹿!もう知らない!」
「俺がクララだとしても馬鹿とは何やねん」
自室の窓を開けてみた。
豪雨が、黒々としたアスファルトを叩きつける騒音が、夜の闇と、人の営みの煌々とした明かりとの間で、飛沫と共に炸裂しているのがわかる。1台の黒いセダンが、血のようなテールランプの軌跡と、排ガスの臭気とを残して俺の眼下を過ぎ去っていった。絵に描くのも憚られる、都会の夜だ。
缶ビールを提げてきた、人生に早くも疲れ始めた同僚が「そろそろ」と言って帰ってから、もう1時間が立つ。富岳には事前に、どこかへ遊びに行ってこいと、いくらかの金を渡しておいたのだが、今になって思えば、遊びに行った後は帰ってこい、と言いつけておかなかったのが、軽率との誹りを免れぬ浅慮だったかも知れない。どのみち、この大雨では、一人では帰ってこれまい。俺は、彼女がどこにいるのか全く見当つかなかったが、とりあえず車を出し、最寄りの駅に行ってみることにした。




