心太、過去を見る 前編
視界が赤い。
至る所から火の手が上がっている。
焼ける匂いが、肺の奥に張り付いている。
これは記憶が呼び覚まされているのか。
……あぁ、そうだった。
両親と住んでいた家は全焼した。
そして、両親は助からなかったんだ……。
引き取られた叔母さんから、何度も聞かされた話だ。
婆ちゃんが病気で死んだ後、両親もいなくなってしまった。
その火災がまさに起きている家の中に。
今、俺は立っている。
いや、違う。
立って“見ている”。
視線の先。
床に、小さな子供が倒れている。
煤で汚れた顔。
浅い呼吸を繰り返して、上下する胸。
ピクリとも動かない子供が一人。
「……誰だ、あれ」
分かっているのに、分からないフリをした。
思い出したくないのかもしれない。
でも、すぐに、思い出してしまう。
「……俺だ」
そうだ。
幼い頃の、俺。
無力で泣き虫で。
ん?
その倒れている俺のすぐ横に。
黒い“何か”が、立っていた。
人の形をしている。
だが、人ではない。
揺らぐ影。
濃密な魔力。火災よるものとは異質な黒煙を放出している。
―――ファウストだ。
(……まだ、生きているな)
低い声が響く。
それは耳で聞いているのではなく―――
“頭の中に直接流れ込んでくる声”だった。
(魂が……剥き出しだ)
(ここまで無防備とは……愚かな子供よ)
「……っ!」
聞こえる。
ファウストの“思考”が、そのまま。
(だが……我には好機。誰にも縛られていない魂……回収すれば、我の力はさらに―――)
「やめろ……!」
思わず叫ぶ。だが、声は届かない。
俺はただの“観測者”だ。
ファウストが、ゆっくりと手を伸ばす。
(ほんの一撫ででいい。魂の核に触れれば―――)
その指先が、幼い俺の胸に触れた。
―――ゾッ。
「……あ……?」
倒れている俺の体が、ピクンとわずかに震えた。
呼吸が一瞬、止まる。
(取った)
その瞬間―――音が鳴った。
―――カラン……コロン……
鈴の音。
そして、あの下駄の音。
空気が、また変わった。
「……なに?」
ファウストの動きが止まる。
次の瞬間、ファウストのその手が“弾かれた”。
「っ!?」
見えない何かに、叩き落とされた。
そして。
叩き落としたその人は、ファウストに言った。
「……やめな」
低く、静かな声。
振り返る。
そこに立っていたのは―――
「婆ちゃん……!」
だが、今までとは違う。
目が、違った。
優しさの奥に、底の見えない“何か”があった。
孫でなかったら、恐ろしいと感じたはずだ。
「契約もせずに魂に触るたぁ……いい度胸してるじゃないか、悪魔」
怒りを露わに婆ちゃんが言った。
ファウストが、わずかに距離を取る。
「……貴様、何者だ」
「ふん。分からないかい? ただの年寄りだよ」
即答。
だが、その一言で空気がミシリと音を立てて軋む。
「―――嘘だな」
ファウストの声が、低くなる。
祖母は答えず、ゆっくりとしゃがみ込む。
幼い俺の胸に手を当てる。
「……やってくれたねぇ。この悪魔めが」
小さく、ため息。
「心太(この子)の魂に傷を入れちまいやがった……」
「なに……?」
ファウストの目が揺れる。
(あり得ん……ほんの接触だぞ? なぜ傷が―――)
「” そんなはずは無い” と言いたげだねぇ。でも、事実だよ」
祖母が、淡々と言う。
「人の魂はねぇ、乱暴に扱うもんじゃないんだ」
その時だった。
―――ギィィィ……
今度は空間が、裂けた。
そこから。
冷たい気配が流れ出す。
悍ましく、立っているのもやっと―――。
それは“死”そのもの。
現れたのは―――黒衣の存在。
「規約違反」
無機質な女の声。
出て来たのは、怖いぐらい美しい女性。
だが、絶対的な冷たさを、全身から放っている。
「契約未成立の魂への干渉を確認。対象、悪魔個体―――排除対象に指定」
「っ……死神か!」
ファウストが舌打ちする。
「ちっ、面倒な……!」
黒い刃が、振り下ろされる。
切り裂く刃はファウストへと向かって。
―――ギンッ!!
ファウスト。
これを受け止める。
だが―――。
「ぐっ……!」
受け止めきれなかった。
斬撃の余波はファウストの横腹を裂いた。
そこに亀裂を作った。
だが、それは空虚で。
(魂に直接……だと!?)
さらに死神の追撃。
「小癪……!」
ファウストが。
開いた右手を顔の高さまで上げる。
そして、何かを握り潰すような仕草をする。
すると。
死神の足元。
その空間が歪んだ。
―――ギン。
バランスを崩しながら放った死神の一撃は、ファウストの横をすり抜けた。
「ヤメロ……! 俺に当たるだろ!」
両者の戦闘に巻き込まれる形で、幼い俺の体もビクリと跳ねる。
「……あぁ、もう、まったく! この子助けるのに”こんな方法”しか思いつかないなんてねぇ!」
婆ちゃんが舌打ちして、懐から何かを取り出す。
針。
そして、煌々と光った糸。
合わせたそれを、ファウストの横っ腹にかすめた。
「……繋ぐしかないか」
その言葉に、ファウストが目を見開く。
「待て―――!」
「うるさい! 黙ってな」
祖母の目が、鋭く光る。
「これは“うちのやり方”だ」
針が、光る。
それが―――幼い俺の胸へ。
そのまま俺とファウストとの間。
空間を婆ちゃんは“縫った”。
「なっ……!」
見えた。
ファウストの裂けた腹から、覗かせている“何か”。
そして、もう片方。
俺の胸の辺りでぼんやりと光る、小さなヒビが入った眩い”何か”。
それは魂だ。
祖母は、迷いなく。
その二つを―――縫い合わせた。
「―――繋いだよ」
瞬間。
パンと、光が、弾けた。
「がっ……!!」
ファウストが膝をつく。
(なに、だ……これは……あの子供から……流れてくる……これは……感情、恐怖……? 違う……これは―――)
ファウストの息が、乱れる。
そして。
幼い俺の体が―――。
「……っ、は……!」
息を、吹き返した。
その様子を見計らった祖母が、小さく息を吐く。
「……応急処置だよ」
その時。
空間が、裂けた。
裂けた中は真っ暗な闇。
そこから現れた。
圧倒的な重圧。
存在そのものが、その場にいる全てを握る。
男の姿をした、そんな者が現れた。
シンプルな黒のスーツ。
白いワイシャツに黒のネクタイ。
黒く長い髪。
キッパリとした美形。眉目秀麗。
年齢が……全く分からない。
その姿を見たファウストが、音が聞こえてきそうなほど、ガタガタと身体を震わせた。
そして―――。
誰もが知るその名を、ファウストは告げた。
「サタン様――――――!!」




