選ばないという選択
村を発ってからしばらく、道は穏やかだった。
朝露を残した草原を抜け、踏み固められた街道を歩く。荷馬車の轍が連なり、行き交う旅人の数も少なくない。王都へ向かう道は、いつもこうして人の気配が絶えない。
それでも俺は、油断しない。
理由は説明できないが、
油断した瞬間に、世界がずれることだけは、身体が覚えている。
胸の奥の空白は、今のところ静かだった。
冷え切ってはいるが、広がる気配はない。
――まだ、大丈夫だ。
その判断に、根拠はない。
だが、今まで生き延びてきた感覚が、そう告げていた。
⸻
「レインさんは、王都で何をされるんですか?」
歩きながら、アリシアが尋ねてくる。
遠慮がちだが、ずっと気になっていたらしい声音だった。
「決めていない」
嘘ではない。
王都に行く。学院に入る。
そこまでは分かっている。
だが、その先――
どう生きるかについては、いつも曖昧なままだ。
「私は……試験に落ちたら、どうしようかと考えていて」
彼女は少し困ったように笑う。
「魔力も、特別多いわけじゃないですし」
胸の奥が、わずかに反応する。
広がりはしない。
だが、冷えが濃くなる。
――その不安を、放っておく未来は、だいたいろくなことにならない。
「大丈夫だ」
また、同じ言葉を使っていると自覚する。
「……根拠は?」
「ない」
彼女は一瞬驚き、それから小さく笑った。
「正直ですね」
正直でなければ、辿り着けない。
それだけのことだ。
⸻
街道を進むうち、前方が騒がしくなった。
馬車が一台、道を塞ぐ形で止まっている。
車輪が外れ、積み荷が傾き、商人らしき男が頭を抱えていた。
「……困ってますね」
アリシアが足を止める。
その光景を見た瞬間、
胸の奥に、いくつもの記憶が重なった。
助けたこともある。
助けなかったこともある。
時間をかけて修理を手伝い、
感謝され、食事を振る舞われ、
そして――その先で、取り返しのつかないズレが起きたこともある。
理由は分からない。
因果がどう繋がっているのかも理解できない。
ただ一つ分かっているのは、
ここで立ち止まると、王都への到着が遅れる
という事実だけだった。
「行くぞ」
短く告げて、歩き出す。
「え? でも……」
「誰かは助けるだろう。
今じゃなくても」
冷たい言い方だと分かっている。
それでも、選ばなければならない。
アリシアは一瞬迷い、
それから何も言わずに、俺の隣を歩き出した。
胸の奥の空白が、わずかに重くなる。
――正しいかどうかは、分からない。
だが、
間違いではない未来を、選んだ感触はあった。
⸻
昼過ぎ、道は森へと続いていく。
街道沿いとはいえ、木々が視界を遮り、風の流れが変わる。
空気が、少しだけ澱む。
足を踏み入れた瞬間、分かった。
「下がって」
言葉が、考える前に口を突いて出る。
次の瞬間、茂みが裂けた。
魔物。
獣型。二体――いや、三体。
一瞬、胸の奥の空白が揺れる。
数が、違う。
今までの感覚より、一体多い。
だが、世界が壊れるほどではない。
――まだ、修正できる。
剣を抜く。
身体が自然に動いた。
どこに立てばいいか、どの距離が危険か、考える必要がない。
一体目を斬る。
二体目の突進をかわす。
背後から迫る三体目に、わずかな遅れ。
その瞬間、視界の端でアリシアが息を呑むのが見えた。
胸の奥の空白が、はっきりと存在を主張する。
――同じ形を、増やすな。
一歩、踏み込む。
剣が届き、魔物は崩れ落ちた。
森に、静寂が戻る。
⸻
「……すごい」
アリシアが、呆然と呟く。
「どうして……そんなに迷いなく……」
「分からない」
そう答えるしかなかった。
未来を見ているわけじゃない。
ただ、選んではいけない行動だけが、分かる。
それ以上の説明は、できなかった。
剣を収め、周囲を確認する。
胸の奥の空白は、増えていない。
――まだ、許されている。
⸻
夕方、森を抜けると、遠くに王都の外壁が見え始めた。
白い石の城壁が、夕陽を反射して輝いている。
その光景を目にした瞬間、
胸の奥の空白が、わずかに落ち着いた。
完全に消えることはない。
だが、広がることもない。
「……不思議ですね」
アリシアが、ぽつりと言う。
「王都が見えたら、急に安心して」
「……俺もだ」
理由は分からない。
ただ、
この場所の内側に入ると、世界は崩れにくい。
それだけは、何度も確かめてきた感覚だった。
俺は歩きながら、心の中で数える。
312回目。
今回は、
まだ、何も失っていない。
それだけで、十分だった。




