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……312回目

 空が壊れていた。


 青空に走る亀裂は雷の名残でも魔法の暴走でもなく、世界そのものが内側から耐えきれなくなり、無理に引き裂かれているように見えた。王都を覆っていた防壁はすでに意味を失い、崩れ落ちる塔の石片は重力を忘れたかのように宙に留まり、炎は音を失ったまま揺らめいている。


 終わりは、いつも静かだ。


 怒号も悲鳴も、すでに遠い。

 残っているのは、避けられない結末だけだった。


 瓦礫を踏み越えながら、俺は一人の少女へ向かっていた。

 何度繰り返しても、この場面だけは変わらない。


 金色の髪は血に濡れ、白いローブは裂け、黒い槍が胸を貫いている。

 それでも、碧い瞳だけはまだ俺を捉えていた。


「……レ……」


 名を呼ぼうとして、声が途切れる。


 その瞬間、時間が歪んだ。


 血が宙に留まり、崩れかけた建物の破片が動きを止め、世界の崩壊だけが音のない圧力となって周囲を満たす。何度見ても、この光景には慣れない。だが、驚きもしなかった。


 間に合わないと、分かっているからだ。


 それでも足は止まらない。

 意味がないと理解していても、彼女のもとへ辿り着き、崩れ落ちる身体を支えてしまう。


 頬に触れた指先は、ひどく冷たかった。


「大丈夫だ」


 嘘だと分かっている。

 それでも、その言葉に彼女の瞳がわずかに安らぐ。


 次の瞬間、空の亀裂が限界を超えた。


 光が裏返り、色彩が反転し、王都も、人も、痛みも、すべてが白に呑み込まれていく。


 その直前――


 胸の奥、心臓よりも少し深い位置に、冷えた空白が生まれた。


 痛みではない。

 何かが刺さった感覚でもない。


 ただ、本来そこにあったはずの何かが抜け落ち、そのまま戻らないという確信だけが、静かに固定される。温度を失った欠落が、身体の内側に残り続ける。


 俺は目を閉じる。


「……312回目」


 意識が、落ちた。



 目を覚ましたとき、鼻腔に入り込んだのは木の匂いだった。


 粗末な天井。藁の寝床。

 窓から差し込む朝の光と、遠くで鳴く鳥の声。


 何事もなかったかのような朝。


 身体を起こす。

 手足は動く。傷も血の痕もない。


 それでも、胸の奥の空白だけは消えていなかった。


 戻ったのだと理解する。


 理由は分からない。条件も掴めていない。ただ、この欠落が存在している限り、俺は同じ始点へ引き戻される。それだけは、経験として確かだった。


 窓の外では、村人たちがいつも通りに動いている。畑へ向かう男、井戸端で笑う女、駆け回る子どもたち。何も知らない朝。


 ここを故郷だと思ったことはない。

 それでも、始まりはいつもこの村だった。


「レイン兄ちゃん!」


 少年が手を振る。


「おはよう」


 名を呼ぶと、少年は満足げに走り去る。変わらない光景。その安定が、かえって胸の空白を際立たせる。


 井戸のそばに、少女が立っていた。


 金髪。碧眼。

 水桶を抱え、少し不器用に笑っている。


 今日、彼女はこの村を発つ。

 王立魔導学院の入学試験を受けるために。


 初対面のはずなのに、その立ち姿には覚えがあった。何度も見てきた。何度も、失ってきた。


 胸の奥の空白が、わずかに存在を主張する。


 ――ここからだ。


 俺は歩み寄る。


「おはようございます」


 彼女は驚いたように振り向き、すぐに柔らかく笑った。


「おはようございます。私はアリシアといいます。王立魔導学院の入学試験を受けに、王都へ向かっていて……」


 やはり、そうなる。


 学院。

 そこへ向かう流れだけは、何度繰り返しても崩れにくい。


 俺は少し考える素振りをしてから、口を開いた。


「王都へ行くなら、俺も行く」


「え……?」


「道は同じだ。……どうせ、行くつもりだった」


 なぜそう言い切れるのか、自分でも分からない。ただ、王都へ向かわない未来を選ぶと、胸の奥の空白が、決まって広がる。


 アリシアは一瞬戸惑い、それから小さく頷いた。


「ありがとうございます。心強いです」


 その笑顔を見たとき、胸の奥に残る欠落が、ほんのわずかだけ遠のいた。


 理由は分からない。

 だが――


 ここから先へ進むなら、

 この道しか残っていない。


 俺は胸の空白を抱えたまま、彼女と並んで歩き出した。


 王都へ。

 学院へ。


 また、同じ場所へ辿り着くために。


 あるいは――

 今度こそ、辿り着くために。


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