第一章 一日の花を摘め
その昔、"ホラティウス"という詩人がいたらしい。
そして彼はこう綴ったーー 「今を楽しめ」と。
彼は知らなかったのだろうか。
それが、どれほど難しいことかを。
あるいは、知っていてなお、そう綴るしかなかったのだろうか。
✴︎✴︎✴︎
「…チッ。今日も残飯はないのかよ。」
小汚い少年はつぶやいた。
彼の名はランス。
今の彼に残っているのは、その名だけだった。
あれから何年経ったのか、自分が今いくつなのか、
それすらも、もう思い出せない。
最近、声が少し低くなった気がするーー
そう思いながら、今日も夜道を歩いていた。
彼に親はいない。
司祭に殺されたのだ。
いや、司祭は「正しいこと」をしただけ。
彼の両親は、司祭の妻を殺したのだから。
可哀想なランスが知っているのは、それだけだった。
夜が更けると、彼はいつも人目を避けて司祭館の近くへ向かう。
運が良ければ、ゴミ処理場に残飯が捨てられているからだ。
彼が訪れる時、司祭館の二階の窓には、いつもあたたかな光が灯っていた。
ランスはまだ小柄で、その窓の中を覗くことはできない。
それでも、光を見るたび胸の奥が揺れた。
悔しさと悲しさが混じった感情が、下瞼にのぼってくる。
ーーいつか、必ず。
今日の収穫はゼロ。
昨日はライ麦パンが手に入ったから、まだ食いつなげる。
ランスは凍える足の指をこすりながら、路地裏の寝床に戻ろうとした。
その時だった。
いつも見上げていた窓が、音を立てて開いた。
ランスは、思わず焦った足取りで駆け出した。
「待って…!大きな声を出すとお父様にバレちゃう!」
背後から、自分と同じ年頃の少年の声が聞こえたのだ。
ランスはぎょっとして立ち止まる。
「ついに幻聴まで聞こえてきたのか…?
そりゃそうだ、ネズミの食いさしのライ麦パンしか食ってねぇ。
そろそろくたばって当然だ。」
それでも声は止まない。
「君、家はどこ?」
「…何を言ってるんだ?」
ランスは信じられずに振り返った。
司祭に子どもがいるなんて、聞いたことがなかった。
だが、ふと脳裏にあの路地裏の男の話がよみがえる。
――「知ってるか? 司祭様の家には天使がいるんだ。」
その男は煙草をくわえ、自慢げに笑っていた。
「容姿端麗で頭もいい。司祭様は、自分の妻によく似ているって言って、
その天使が汚れないように家に閉じ込めてるって話だ。
馬鹿らしいよなぁ?今この話が、この先の大通りで一番の噂になってる。」
この路地裏にくるのは、ランスを除けば彼くらいだ。
陰気だが、人気がなくて落ち着く場所らしい。
ランスはその話を、目を閉じたまま聞いていた。
ただ夜をやり過ごすための音として。
「天使がいるなら、お前みたいなガキも救ってくれりゃいいのにな」
男は煙を吐きながらそう言った。
――そして今、
その“天使”が、目の前にいた。
「お前、噂の天使か? 俺を迎えにきたってわけか!
いいぜ、天国にはうまいもんいっぱいあんだろ?」
ランスが吐き捨てるように言うと、
少年は怯むこともなく微笑んだ。
「僕、明日本屋さんに行くんだ。だから、家を出れるんだ!」
その声は、どこまでも澄んでいた。
――彼の名はアマル。
ちょうど今日、十一歳の誕生日を迎えた、
司祭の息子だった。
♩この章のイメージソング
小畑貴裕「イザベラの唱」




