第五章 第6話:真実は一匹の蜘蛛から子へ。
──あらすじ──
かつて王宮を追われた母の過去と、一匹の魔獣が繋いだ“魂の糸”。
エンヴェラ工房で語られる真実は、レシェナの運命を大きく動かしていく。
母の意志を継ぎ、いま──新たな物語が始まる。
──エンヴェラ工房
カチ、カチと鳴る時計の針が静寂の空気を切り裂いていた。
午後三時を告げる鐘が、工房の壁に重く響き渡る。
──ゴーン…… ゴーン…… ゴーン……
ミレティアは椅子に腰掛けたまま、目の前に立つ少女をじっと見つめていた。
レシェナもまた、真剣な眼差しでその視線を受け止めている。
「さて、どこから話せばいいことやら……」
鐘の音が鳴り終わった頃、ミレティアはようやく口を開いた。
だが、その言葉を遮るように、レシェナが一歩踏み込む。
「ミレティおばさん……どうして……どうして私たちの前から、いなくなったの……?」
それはずっと胸の奥にしまっていた疑問だった。
ザハールで暮らしていた両親は、ある日突然この世を去った。
その直後、何かを察したかのように現れたミレティアは、
遺された姉妹の世話係となった。
ともに過ごし、教え、支え――それは確かに“家族”のような時間だった。
しかし、レシェナが一人で月糸の家を切り盛りできるようになった頃、
ミレティアは何も言わず、風のように姿を消したのだった。
ミレティアはふっと優しく微笑み、静かに言葉を返す。
「それはね、レシェナ……あなたが、もう立派な職人になったからよ」
一見優しさに満ちたその言葉に、レシェナはわずかに眉をひそめる。
そして、静かに首を振った。
「──答えになってないよ」
ミレティアの瞳がわずかに揺れる。
「私はね、レシェナがちゃんと一人前の職人になるまで、見届けたかったの。
それはね……あなたのお母さん、ルネリアの夢だったから」
「お母さんの……?」
レシェナが問い返すと、ミレティアは遠い目をして微笑む。
「あの子はね、子どもができたら、一緒に綺麗なドレスを作ったり、
お人形を作ったりするんだって……よくそんな夢を話していたのを思い出すわ」
その声は懐かしさと、切なさに満ちていた。
「急に出ていったことは、本当にごめんなさい。
でもね……私も、もうそんなに長くはないの。これ以上、あなたたちに迷惑はかけられないと思ったのよ……」
だが、その言葉にレシェナは首を横に振った。
その表情には、まっすぐな想いが込められていた。
「そんなことないよ……! ミレティおばさんがいてくれたから、私、ここまでやってこれたんだよ……?」
その横で黙って聞いていたバルゴが、そっとミレティアの肩に手を置く。
「ばあさん……こんな奇跡、滅多にねぇんだぞ?
どうせばあさんのことだから、全部墓場まで持っていくつもりだったんだろ?
悪いが俺はごめんだ。ばあさんが言わねぇなら、俺が代わりに話すからな」
ミレティアは小さく息を吐き、一拍置いてから、ゆっくりと頷いた。
「わかったわ……。レシェナ? これから話すのは、
あなたのお母さん──ルネリア・モルヴァが、なぜザハールに行くことになったのか。……その理由を、全部話すわ」
レシェナは背筋を伸ばし、目を細め、深く静かに頷いた。
──それは、二十年以上前のこと。
「私の娘──ルネリア・モルヴァは、王宮に仕える服飾技師だったの。
あの頃のバルゴ、あなたは王宮技師局の責任者だったわね?」
ミレティアがそう問いかけると、黙って聞いていたバルゴが懐かしむように頷いた。
「ああ、当時の俺は兵士の武具を作っていてな。ルネリアも一緒に、現場で武具の性能検証なんかをやってた。
確かあれは、野外訓練場でのテストの時だったか……」
「そう。あの子は、そこで出会ってしまったのよ。
魔獣──“アラクニエ”とね」
「……っ!」
ミレティアがその名を低く呟いた瞬間、場の空気が一変する。
レシェナたちの脳裏に、スピナの姿がよぎった。
「魔獣アラクニエ……。ルネリアは、その子に《スピナ》と名付けたわ」
ミレティアはレシェナの方を見て、穏やかに微笑む。
「そうね、あなたの大切なパートナーよ」
それは、スピナがただの“害獣”ではないことを示す、慈しみに満ちた微笑みだった。
「スピナは最初、ひどい怪我をしていたの。あの子が家に連れてきたときは、そりゃあ驚いたわよ……。
でも、薬草や食事を与えて看病していたら、すっかり元気になって、あの子によく懐いてねぇ……」
懐かしそうに語るその声に反応するように、レシェナの髪の中で小さな動きがあった。
──ぴょんっ!
『きぃぃぃぃ!!』
スピナが飛び出し、ミレティアの肩にひょいと乗る。
「あんた……! そうかい……覚えててくれたのかい……」
ミレティアの肩の上で、スピナは嬉しそうにくるくると回り続けた。
その光景を見ながら、ミレティアは再び話を続ける。
「ある日、ルネリアは気づいたのよ。スピナの張った巣に……魂が引っ付いてるって」
その言葉に、レシェナは自分の目に軽く手を当てながら呟いた。
「……魂視」
「そう。モルヴァの血を引く黒髪の女には、代々魂を見る力が備わっている。
あの子は、その力でスピナの糸の異常に気づいてしまったの」
ミレティアの表情が、少しずつ真剣さを帯びていく。
「スピナの糸は、魂の残滓を織り込める糸だったのよ。普通じゃありえない、記憶や感情を宿す──まるで魂の導線。
それに触れると、過去の思念が甦る。そして衣に織り込めば、一時的に“力”や“感覚”が伝わる……」
「……!」
「ルネリアはその糸を“糸魂”と名づけて、研究を始めたわ。
やがて彼女は、それを戦闘裝束へと応用したの。名を──《フルドレスギア》」
その名を口にしたとき、ミレティアの声はどこか震えていた。
「魂を織り込んだその装束は、使用者の身体能力や経験、時には“意志”すらも憑依させる……まるで生きているような代物だったの」
最初は希望に満ちていた。
魔族に対抗する切り札として、期待と夢が込められていた。
「でも……やがて異変が起きたの。糸に込められた魂が暴れだしたのよ。
怒り、憎しみ、執念──負の感情に支配された魂が、装束を通して着た者の心を歪め始めたの」
ミレティアの口調が、苦しみに変わる。
「ルネリアはすぐに危険性に気づいて、装備の運用中止を訴えたわ。
でもね……王宮の大臣たちは、それを無視した。
“試作だろうが構わん。運用して成果を出せ”と、兵士たちに無理やり着せてしまったの」
そして、悲劇は起きた。
「兵士は、暴走した。
同僚を、民を、手当たり次第に襲って……何人も命を落としたの」
場の空気が、冷たく張り詰める。
工房の隅、光の届かぬ壁に背を預けるように立つバルゴが、重く沈黙を守っていた。
かつて王宮技師だった男の顔には、懺悔にも似た苦悩が滲んでいた。
「……俺は、王宮技師局の責任者として何度も言ったんだ。“安全確認は済んでいない”って。
ルネリアも同意していた。だから量産は止まり、開発も白紙になったはずだったんだ……」
それでも事件は起きてしまった。
血塗られた広場。狂った裝束。叫びながら襲いかかる兵士。
その凄惨な情景が、今も目に焼きついて離れない。
「暴走を止めようと、俺も現場に駆けつけた。けど……その時には、もう遅かった……」
バルゴは拳を強く握りしめ、悔しさを噛みしめるように言葉を続ける。
「そして……事件の責任を、奴らは全部ルネリアに押しつけやがったんだ……!
俺には……何も守れなかった……。あの時、俺にできたのは、ばあさんとイレーナを匿うことだけだった……」
当時、国王の命令すら無視した評議会の暴走。
未完成の技術を勝手に運用し、民に被害をもたらしながらも、全てを一人の女性に背負わせた。
そして、その名は烙印を押される。
「ルネリア・モルヴァ。服に悪魔を宿らせた“魔女”として、反逆者に仕立て上げられた。
……極刑、死刑を言い渡されたのよ」
ミレティアの目に、うっすらと涙が浮かぶ。
「でもね、そんな中で、まだ若かったヴェルクス殿下だけが──
王宮でただ一人、あの子を庇ってくれたのよ」
そのときの彼の言葉は、今でも忘れられない。
──『技術に危険性はある。だが、未来を閉ざすべきではない』
暴徒と化した民衆を押しとどめ、評議会と渡り合い、ルネリアの命を救うために奔走した。
その結果、下された裁定は“技術の封印”と“国外への移住勧告”。
それでも、生きて出られたのは──彼の尽力あってのことだった。
「……ルネリアは、それを受け入れたわ。
自分の意志で王都を離れ、南のザハールへと向かったの」
バルゴが、深く拳を握りしめたまま、静かに語る。
「殿下だけは、最後までルネリア……いや、モルヴァ一族を守ろうとしてくれた。
だからこそ、俺は職を辞めたんだ。もう王宮にはいられないと思った」
「殿下が守ろうとしたものを、今度は俺が守る。
そう決めて──俺はイレーナと結婚して、この“エンヴェラ工房”を立ち上げたんだよ。
いつでもルネリアが、戻ってこられるようにな……」
──だが、数年後。
魂の繋がりが、突然“途切れた”。
「だけどね……現実は、そう甘くはなかったの。
ルネリアと確かに繋がっていた魂の糸が、ある日……ぷつんと、切れたのよ」
ミレティアはそっと胸元に手を当てながら、静かに言葉を紡いだ。
「きっと……スピナの糸が教えてくれたのね。
あの時、私は悟ったの。──娘は、もうこの世にはいないって」
レシェナは胸に手を当て、小さく息を呑んだ。
その事実を、言葉にされるだけで、胸の奥がひりつく。
「私は一目散にザハールへ向かったわ。魂の繋がりが途切れた場所を辿って……
そして見つけたの。あの家で、残されていたあなたと、まだ赤子だったシェレーヌを──」
ミレティアは遠い過去を思い出すように、目を細めて微笑んだ。
「そうさね、それがもう十数年前になるかしら……」
それからレシェナは成長し、月糸の家を継ぎ、母の意思を背負って歩み出した。
「私はね、モルヴァの名を捨てた。
ただ一人の職人として、静かに余生を生きていくつもりだったのよ。
──でも、まさかこうして、また巡り会えるなんてね……」
ミレティアはゆっくりとレシェナを見つめ、その視線をふと横へ向ける。
そこには、白銀の衣を纏う少女──ルミナスの姿があった。
リコルナイトの光が、衣の縁をかすかに照らしている。
「……あの子の“技術”が、どうなったのか……完成したのか……
私にはもう、確かめる術はないと思っていたけど──」
ミレティアはルミナスの衣に目を凝らした。
そこに感じたのは、かつて未完成だったフルドレスギアの面影。
だがそれは、あまりにも洗練され、穏やかで、美しかった。
(……まさか……あの子の娘が……完成させていたなんてね……)
その横で、バルゴもまた目を細めながら呟く。
「……女神の嬢ちゃんが纏っている衣装を見てな。
最初はまさかと思ったが……またあの“光”を見る日が来るとはな」
彼の目に宿るのは、かつての職人としての誇り、そして悔いと感謝。
「穏やかで、美しく──けれど決して折れない芯を持った、“技術”の光だ。
そこに宿っているのは……罪でも、憎しみでもない。
これはきっと、彼女が……“赦し”を纏ってくれたようなもんだ」
バルゴの視線が、まっすぐにレシェナへと注がれる。
まるで、かつて失われたものを、今ふたたび取り戻すように。
「ありがとう……レシェナ。
そして……君の“母親”に……心から、すまなかった……」
彼は拳を緩め、震える指先で目元を拭うことなく、その場に深く頭を下げた。
ミレティアとバルゴの想いを全て受け止めて、レシェナはそっと口を開いた。
「……あたし、お母さんのこと……やっぱり誇りに思うよ。
罪とか失敗じゃない。あたしにとっては、未来を繋ごうとした“勇気”だったんだって……今なら、そう思えるの」
そう言って、レシェナは首元に手を伸ばし、宝石のついたネックレスをそっと外す。
「見て……? これは、リコルナイト。ザハールで採れた鉱石よ。
その第一発見者は──お母さんなの」
手のひらに揺れるその宝石が、工房の光を受けてやわらかく輝く。
「このリコルナイトは、遺体で発見されたお母さんが──最後まで握りしめていたもの。
それを、私が加工したの……母の手から、娘の手へと繋がるように」
そう言って、レシェナはネックレスをミレティアに手渡した。
「こ、これは……!」
「うん。お母さん、きっと……“答え”を見つけてたんだよ」
ミレティアはそのネックレスを両手で大切に包み込み、
ゆっくりと瞳を伏せる。
「ルネリア……ここにいたんだね……。
ごめんね……何も……何もしてあげられなくて……」
その言葉とともに、ぽたりとこぼれ落ちた涙が、リコルナイトに触れた。
──その瞬間。
宝石が、淡く──やさしく、光を放った。
それはまるで、ミレティアの想いに応えるかのように。
娘を想い、母を想う心が、リコルナイトの中で再び繋がれたようだった。
──しばらくして。
ミレティアは涙を拭い、落ち着いた表情でレシェナに問いかけた。
「そういえば、気になってはいたんだけど……シェレーヌは一緒じゃないのね。
もしかして、まだ月糸の家に?」
何気ないその問いかけに、レシェナの表情がわずかに強張った。
「あっ……それは……」
静かにその場に佇んでいたルミナスが、一歩前に出て事情を説明しようとする。
──スッ……
しかし、それを制するようにレシェナが手を差し出した。
そしてルミナスに、そっと頷いてみせる。
「シェレーヌは、今……月糸の家を出て、あたしとは別の道を進んでいるの」
その言葉に、ミレティアは一瞬だけ目を細め、レシェナの顔をじっと見つめた。
何かを察した様子だったが、深くは追及しなかった。
「そう……なんだね」
そして、ふっと微笑んで言う。
「でも、きっとまた会える。その時は、一緒に暮らそうね……ミレティア“お祖母ちゃん”」
レシェナの声には、希望と優しさが込められていた。
ミレティアは静かに頷き、椅子から立ち上がると、そっとレシェナを抱きしめた。
それを見ていたルミナスたちも、ほっこりと頷き合う。
「うぅぅぅ……!! 私、こういうのほんっとに弱いのよぉぉぉ……!」
フェリスは顔をくしゃくしゃにして、ポロポロと涙を流していた。
「ほら、フェリス。これで鼻かみな?」
ルミナスはにこっと笑って、そっとハンカチを差し出す。
「うん……ありがと……」
その様子を見ていたミーナが、おそるおそるといった様子で声を上げた。
「えーっと……レシェナ……お姉ちゃん、で……いいんだよね?」
その問いに、レシェナはくすっと笑い、やさしく答える。
「ふふっ……妹が一人、増えたわね」
ぱぁっとミーナの表情が明るくなり、勢いよくレシェナに抱きついた。
レシェナも驚きながらも、その温もりをしっかりと受け止めた。
そして──
ミレティアが手をパンッと叩く。
「さて……それなら、やることはひとつさね」
その言葉に、バルゴが目を見開いた。
「お、おい、ばあさん……まさか……!」
彼の問いに、ミレティアはにっと笑って宣言する。
「ルネリアが叶えられなかった夢……今なら、叶えてあげられるわ。
“古着屋”はもうおしまい。これからは“フルギア”──エルディナ支店を開店するわよ」
ルミナスたちは一斉に目を見開く。
バルゴは呆れたように笑い、肩をすくめた。
「そして私は、もう引退だわさ。……代わりに」
ミレティアの視線が、まっすぐにレシェナへと向けられる。
「レシェナ。あんたが今日から“フルギア”店の店主だ……!!」
「え、ええええええっ!?!?」
レシェナは目を丸くし、口をぽかんと開けたまま固まった。
「大丈夫よ。もう昔みたいな輩は、すべて殿下が追い払ってくれたからね。
あんたのやりたいこと、私のお店を使って思いきりやんなさい。
きっと、ルネリアもそれを望んでるからさ……」
そう言って、ミレティアはそっと手を伸ばし、
先ほど受け取ったリコルナイトのネックレスを、レシェナの首にかけてあげた。
ネックレスは淡い光を帯びながら、レシェナの胸元で静かに輝いていた。
まるで、「進め」と背中を押してくれるように──
「……ありがとう、お母さん……」
レシェナは胸元に手を当てて、やさしくネックレスを握りしめた。
そして、ミレイユから託された髪飾りをそっと髪に飾り、顔を上げる。
「──わかりました。
お母さんが望んだ未来を、今度は私が……必ず、叶えてみせます!」
その言葉は、誰にも負けない強さと、深い想いに満ちていた。
こうしてレシェナは、新しい歩みを始める。
《フルギア》店の店主として──新たな伝説を紡ぐ、第一歩を。