第四章 続・番外編:砂漠の海と釣りと神
──あらすじ──
砂漠の果てにたどり着いた青く透き通る海を前に、ルミナスたちは大はしゃぎ!
釣って、泳いで、食べて──
瘴気も魔獣も忘れ、ひとときの“夏”を満喫する少女たち。
その中でルミナスが出会ったのは、懐かしいあの味で――?
ルミナスたちは、荷馬車に特注の水着を積み込み、はやる気持ちを抑えながら目的地へと向かっていた。
その一方、ルミナスはレシェナに頼んで、スピナから頑丈でかなり長い糸を調達してもらっていた。
「ルミナス……その糸で何してるの?」
フェリスが不思議そうに、ルミナスの手元を覗き込む。
「これ? 釣り竿を作ってるの」
ルミナスは筒のような棒に糸を通し、レシェナから借りた糸巻き機で即席のリールを仕立てていた。
「釣り竿……って、まさか海の魔獣を釣ろうって考えてる?」
フェリスがじとっとした視線を送ると、ルミナスはにこっと微笑んで答えた。
「そうだけど?」
「……あんた、どこまで食い意地張ってるのよ……」
「フェリスも食べてみたらわかるよぉ~。釣れたてのお魚は、めっちゃ美味しいんだから!」
「ふーん……」
半信半疑のままフェリスが応じると、前方からセシリアの声が響く。
「ルミナス様、フェリス。見てください……! 海です!」
慌てて二人が馬車の窓から顔を出す。
「うおぉぉぉ!!! すごい! めっちゃ青くて透き通ってるぅぅぅ!!」
「海なんて初めて見たけど……こんなに広いのね!」
視界いっぱいに広がる海は、空を映すように青く透き通り、どこまでも続いていた。
「ルミナス様、ここで停車いたします」
ケルベロス部隊が浜辺で馬車を止め、ルミナスたちは嬉々として外へ飛び出す。
「ひゃほぉぉぉ~!! 海だぁぁぁ!!」
──だだっ!
勢いよく走り出そうとするルミナスに、フェリスがツッコミを入れる。
「ちょっと! 水着! 着るんじゃないの!?」
「あっ!!」
──着替え中──
「よぉしっ!! 今度こそ入るぞ~!!」
水着に着替えたルミナスたちは、海へ向かって駆け出した。
だが、海に足を踏み入れようとした瞬間、ルミナスの脚がぴたりと止まる。
「あれは……!!」
波間から突き出す大きなヒレ。遠くの水面を、いくつもの影がうようよと動き回っていた。
「なんですかね……あれ。黒くて、やけに素早い……」
セシリアが目を細めて言うと、隣のフェリスが続けた。
「いや……ちょっと青く光ってない?」
──ザッパァァァッ!!
“それ”は突然、水面から勢いよく飛び出し、大きな飛沫を上げて再び海中へと潜っていった。
「──っ!!」
「ちょっ……なに今の!? 魔獣!? 完全に化け物じゃない!!」
その姿と動きに、セシリアとフェリスは揃って身を引き、警戒の色を浮かべる。
しかし、ルミナスだけは違った。
その目を輝かせ、まるで子どものような笑顔を浮かべて浅瀬へと駆け出していく。
「ちょ、ちょっと! 危ないからやめなさいってば──!」
「イルカだぁぁぁぁぁぁ!!!!」
浜辺に響き渡るルミナスの叫び。
波打ち際で手を振る彼女に、二人は唖然として問いかけた。
「な、なに……ルミナス、あれを知ってるの!?」
「魔獣ではないのですか?」
ルミナスは嬉しそうに首を振って言った。
「あれはイルカだよ! イルカは人間を襲わない、優しい生き物なんだ!」
そう言って、改めて海全体を見渡した彼女は、はっとして顔を上げる。
「瘴気が……一切ない……もしかして……」
くるりと振り返ったルミナスは、信じられないものを見るような顔で言った。
「もしかして、魔獣……いないかも……!!」
「──!!」
セシリアとフェリスは、その衝撃的な一言に言葉を失った。
ルミナスは海を見渡しながら、ぽつりとつぶやく。
「もしかすると……海水自体に清めの効果があって、瘴気がここまで届いてないのかも……」
その推測に、セシリアが静かに反応する。
「と、なりますと……これは世紀の大発見です。なぜ今まで、誰も気づかなかったのでしょう……」
「気づかなかったも何も……」
呆れたようにフェリスが肩をすくめて言う。
「ここ、グルザームの縄張りだったじゃない。普通の人間なんて立ち入れないわよ……。来る途中、何体の魔獣に襲われたと思ってるの……?」
フェリスは思い出しただけで身震いし、鳥肌を立たせる。
だが、そんな二人のやり取りをよそに、ルミナスはにこっと笑って手を振った。
「じゃあ、今は安全ってことだね! おーい、みんなー! 早くこっちおいでー! 冷たくて気持ちいいよー!」
魔族の脅威も、瘴気の不安も、この瞬間ばかりはどこかへ消え去っていた。
ルミナスたちは、童心に帰ったように海へと駆け出し、波と戯れる。
「えいっ!」
ルミナスが手で海水をすくって、近づいてきたフェリスにかける。
──バシャッ!!
「ちょっ……! 冷たっ!! このぉっ!」
──バシャバシャッ!!
フェリスも負けじと水をかけ返すが――
──ごぽぽぽっ……
──どしゃあぁぁぁ!!!
突然、大量の水がフェリスを包み込んだ。
「……っ」
──ぽたっ……ぽたっ……
頭からずぶ濡れになったフェリスが、無言で目を細めて振り返る。
そこには、精霊の力で海水をまとめ、正確無比に命中させたセシリアの姿があった。
「ふふ……水に関しては、負けませんよ?」
「なによそれぇ……!」
セシリアは涼しげに微笑みながら、ルミナスに声をかける。
「ルミナス様、新しい技を覚えました。少し深い場所まで、一緒に来ていただけますか?」
「なになに? 新しい技ってなにー?」
キラキラした目でセシリアを見るルミナスに、彼女はゆっくりと手を上げた。
「精霊の力を使って……このように――」
すると、セシリアの足元に水が集まり、彼女はそのまま海面に立ち上がった。
「うわっ、すごっ!? え、なにそれ!? 氷のスケートみたい!」
セシリアは海面の上を滑るように移動して見せる。
「はっ……待てよ……」
目を輝かせたルミナスが、急に何かを思いついたように、手振り身振りでセシリアに何やら説明を始める。
──浜辺
「あいつら……楽しそうね……」
少し離れた場所で身体を乾かしていたフェリスが、ぽかんと口を開けて二人を見つめていた。
「……っ!? はっ……!?!」
突然、フェリスは立ち上がる。
──ザザザザザァァァァン!!
「おーーーい! フェリスぅー!!」
海の向こうから、波に乗って手を振るルミナスの声が届いた。
その姿を見て、フェリスは絶句する。
「あ、あれ……波に……乗ってる!? セシリアの背中にくっついて……え? えぇぇ!?」
セシリアは精霊術で海面を滑りながら、後ろに張りつくルミナスの存在に意識を集中していた。
「ル、ルミナス様……あまり、くっつかれますと、その……背中が……」
「え? もう少しくっついた方がいいの?」
──むにゅっ……
いつもより布面積の少ない水着から、ルミナスの柔らかな感触がダイレクトにセシリアの背中へと伝わる。
「はぅっ……!? いえ、その、あの……ル、ルミナス様の……む、む……あ、あぁっ……」
──ザパアァァァン!!
セシリアは集中力が切れ、ルミナスと一緒に海へと落下した。
「ぷはっ!! あはははっ!!」
顔を出したルミナスは、楽しそうに笑いながらセシリアに手を差し出す。
「ありがと!セシリア! めっちゃ楽しかった!!」
「申し訳……いえ、ありがとうございましたっ……!」
なぜか感謝の言葉を返すセシリア。そのまま二人は浜辺に戻り、休憩していたフェリスの元へと歩いていった。
しばらくの休憩の後、今度はセシリアとフェリスがサーフィンに挑戦する番となる。
「準備はよろしいですか、フェリス?」
「え、えぇ……。いつでもどうぞ……!」
──ザザアァァァァン!!!
「きゃ、きゃああああっ!!」
──ガシッ!!
波に乗った瞬間、フェリスはあまりの速度に悲鳴を上げ、思わずセシリアにしがみついた。
しかし次の瞬間――
「──!!」
セシリアの目が、ぐわっと大きく見開かれる。
背中に感じたのは、明らかにルミナスとは違う、圧倒的な“弾力”。
「い、いやぁぁぁっ……!」
──ぎゅうぅぅぅ!!
──ぶにゅぅぅぅ!!
「………!」
──ザザアァァァァン!!!
「う、うわぁぁぁっ!!」
──ぎゅうぅぅぅ!!
──むにぃぃぃ……!!
「………っ!!」
(……水風船?)
あまりの衝撃に、セシリアは内心で謎の比喩を浮かべていた。
一方そのころ――
「……忍耐」
黒いレンズのメガネをかけたルミナスが、一人岩の上に立ち、真剣な顔で釣り糸を垂らしていた。
──ザザアァァン……
波音だけが静かに響く中、ルミナスは自作の釣り竿を両手で握り、じっと海を見つめる。
──ぐぐっ……!
「──っ!」
竿に反応が出た。だが、ルミナスは動かない。
「……まだ……焦るな……今じゃない……」
──ぐぐっ……!!
──ピンッ!!
「いまぁぁぁっ!!」
タイミングを見計らい、一気に竿を引き上げる。
糸の先では、逃げようとする大物が力強く暴れていた。
「生きが良いじゃない……!! そうこなくっちゃぁっ!!」
──ザパァッ!!
海面を割って現れた魚が、大きく跳ねる。
──びちびちっ!!
釣り上げたのは、立派なヒラメのような魚だった。
「これは……ヒラメ? カレイ? まあどっちでもいいや! 獲ったどぉぉぉぉ!!」
ルミナスは釣った魚を掲げて、雄叫びをあげる。
その様子を見ていたフェリスが、疲れた顔で岩の上に顔を出した。
──ひょこっ
「あんた、何やってんのよ」
フェリスが岩の上から顔をのぞかせると、ルミナスは満面の笑顔で振り返った。
「あっ、フェリス!! 見て見て!! 釣れたよっ!!」
ルミナスは嬉しそうに、手にした魚をフェリスの目の前に突き出す。
「うわっ!? な、なにそれ!! き、きもちわるっ……!!」
思わず飛び退くフェリス。
海に縁のない彼女にとって、魚を目にするのはほぼ初めての経験だった。
「フェリスも釣りやってみる? めっちゃ楽しいよ~!」
そう言うと、ルミナスはスペアで持ってきていた手作りの釣り竿を差し出した。
「……まあ、暇だしやってみてもいいけど。で? どうやんの?」
竿を受け取ったフェリスに、ルミナスはにこにこしながら手順を説明し始めた。
「まずね、この針に魚が食いつくエサをつけます」
細く尖った針を指さしながら、にこやかに解説するルミナス。
「へぇ……で、そのエサってのは?」
「これですっ!」
ルミナスはお弁当箱くらいの小箱を取り出し、フェリスの目の前で開けてみせた。
──ぱかっ。
「ぎっ……」
「ぎゃあぁぁぁぁぁっ!!!??」
箱の中身を見た瞬間、フェリスは全力で後ろへ飛びのいた。
中にいたのは、ナメクジともミミズとも形容しがたい、クネクネとうごめく虫の群れだった。
「む、む、む、虫っ!! 虫ッ!! 無理無理無理無理ぃぃぃ!!」
全身に鳥肌を立てて、フェリスが絶叫する。
しかし、ルミナスは構わずに実演を続けた。
「でね、この針に、こうやってつけて……」
「ひぃぃぃっ!! や、やめてぇぇぇっ!!」
「……で、こうなったら完成っ!」
そう言って、ルミナスは微笑みながら針のついた仕掛けと、エサ箱をフェリスの前に差し出した。
「はいっ!」
「“はいっ!”じゃないわよっ!! 無理よっ!! 触れないってばっ!!」
フェリスが本気で拒否したため、ルミナスは仕方なく自分で彼女の仕掛けも作ってあげた。
「えぇ~……ここも釣りの醍醐味なのになぁ……」
不満そうに口を尖らせつつも、ルミナスは手早く餌付けを終え、明るく言った。
「はい、できたよー!」
そんな中、ルミナスがふとひらめいたように顔を輝かせる。
「あっ、そうだ! せっかくだからさ、どっちが大きい獲物を釣れるか勝負しようよ!」
その提案に、フェリスもにやりと笑って立ち上がる。
「ふんっ、面白そうじゃない。いいわ、その勝負、受けて立ってあげる!」
こうして、ルミナスとフェリスの釣り勝負が幕を開けたのだった。
──数分後──
ルミナスは自作の釣り竿を大きく振りかぶり、思いきり遠くへ投げていた。
そのまま竿を持ったまま、静かに待つこと数分――
──ぐぐぐ……
「ん……?」
──ぐぐぐぐっ……!!
竿が大きくしなり、ルミナスの手元に重みが伝わってくる。
「あっ!! きたっ!!」
ルミナスの声に、休んでいたフェリスがぱっと振り返る。
「は!? あんた、早くない!? 投げてからまだ数分でしょ!?」
フェリスが慌ててルミナスのもとに駆け寄り、糸の先を目で追う。
「あ、あんた……どこまで投げたのよ……!」
釣り糸は、まるで水平線の向こうまで続いているかのように遥か遠くまで伸びていた。
「絶対に大物釣るんだって思ったら……ちょっと力入りすぎちゃって……」
──ぐぐぐぐぐっ!!!
竿は今にも折れそうなほどしなり、ルミナスの両腕に激しい負荷がかかる。
「ちょ、ちょっと! ルミナス! これ、かなりヤバいやつなんじゃないの!?」
「かもね……!! でも、引きがめっちゃ強いから……期待していいかも……!!」
ルミナスは腕に力を込め、糸巻き機で慎重に、しかし確実に巻き上げていく。
「……見えた!」
巻き始めて約五分、ようやく海面の奥から巨大な魚影が近づいてくるのが見えた。
フェリスが岩から海中を覗き、思わず声を上げる。
「ル、ルミナスっ!! とんでもない大きさよ!? あんなの、どうやって引き上げるつもりなのよっ!?」
「……任せて。ちゃんと、考えはあるから」
そう言うと、ルミナスは竿をフェリスの前に差し出す。
「フェリス、一旦代わってくれる?」
「え、ええっ! わかったわ!」
フェリスが竿を受け取った瞬間――
──グンッ!!
「!? おっ……もっ、のぉぉっ!!?」
フェリスの体が、まるで獲物に引き込まれるかのようにグイッと前へ引っ張られる。
「フェリス! 耐えて! 私が決めるから!!」
「な、なにする気よぉ!? 早くしてってばっ!!」
コクンと頷いたルミナスは、一気に前方へ走り出し――
──ドポォォォンッ!!
勢いよく岩場から、海へダイブした。
「は……!?」
──ドガッ! バキッ! ボゴッ!!
海中から何かを叩きつけるような音と、水柱が上がる。
──ザパァァァァンッ!!!
「獲ったどぉぉぉぉぉ!!!!!!」
波間から顔を出したルミナスの手には――
三メートルを超える、マグロのような巨大魚が高々と掲げられていた。
「な、なによあれぇぇぇっ!?!? 化け物じゃないの!?!?」
フェリスが絶叫する横で、ルミナスは満面の笑顔。
片手でそのままマグロを引きずるように持ち上げ、ずるずると岩場へと戻ってきた。
「いやぁ~……! まさか本当にこんな大物が釣れるとはねぇ……!」
ドヤ顔で戻ってくるルミナスに、フェリスは言葉を失ったまま、口をぱくぱくと動かしていた。
「いや! でかすぎでしょっ!! な、なによそれっ!! 海って、そんなに大きな生き物いるの!?」
驚きと興奮が入り混じった声をあげるフェリス。
その直後――
──ぐぐっ……
「──!! き、きたわっ!!」
フェリスの釣り竿が若干引っ張られる。
手元に伝わる強い引きに、声が上ずる。
「フェリス!! まだっ!」
隣で様子を見ていたルミナスが叫ぶ。
「完全に針を飲み込むまで、じっと我慢だよ!!」
「っ……!」
緊張しながらもフェリスはコクリと頷き、意識を集中させる。
そして。
──ピンッ!!
「……!! 今よっ!!」
──ぐぐぐぐっ!!!
竿を勢いよく立てて、フェリスが糸を巻き始める。
「はあああああああっ!!」
全力で巻き上げるフェリスの横で、ルミナスが岩の下を覗き込む。
「フェリス!! あともうちょっと!! がんばれっ!!」
──ザパアァァァンッ!!
海面を破って飛び出した“それ”に、フェリスは勝利の声をあげかけた。
「やった……!! 釣れ──」
──ぶしゅぅぅぅぅ!!!
「──っ!?」
顔面に直撃する黒い液体。
一瞬にして視界が真っ黒になり、フェリスはその場に固まる。
「ぷっ……あはははははっ!!」
顔中が墨まみれになったフェリスの姿に、ルミナスは吹き出して笑った。
「………」
フェリスは無言でルミナスを睨み、じわじわと怒気を帯びた目を細める。
「さいっあく!! なによこいつっ!!」
フェリスの釣り上げたのは、茶色い体に長い足を持つ――イカのような生き物だった。
「うーん……たぶん、それイカ、だと思う」
「イカ……? コイツが……?」
釣り針を外そうと、ルミナスが手を伸ばした、その瞬間――
──ぶしゅぅぅぅぅ!!!
「──っ!?」
今度はルミナスの顔に、勢いよく黒い液体が噴きかかる。
「ぶっ……!!」
墨まみれのルミナスに、フェリスが容赦なく笑いかける。
「あははははっ!! 見た!? あんた、人のこと笑うからよっ! 完全にバチ当たったじゃないっ!」
しかし。
「………」
ルミナスの動きが、ピタリと止まった。
まるで凍りついたように黙りこくるその様子に、フェリスは眉をひそめる。
「えっ……ちょっと、怒った? 本気で?」
不安になって声をかけるフェリス。
「ねぇってば……あんた、そんなに怒るタチだったっけ……?」
だが、次にルミナスが発したのは――
「……ゆだ……」
「……え? なに? 今なんて?」
ルミナスは静かに、だが確信を持って言い放つ。
「──醤油だ……!!」
「……しょうゆ?」
ぽかんとするフェリスをよそに、ルミナスは目を見開いて叫んだ。
「このイカの墨……味が、醤油だよこれっ!!」
そう言って、顔に付いた墨を指でぬぐい、そのままぺろりと舐める。
「ちょっ……!! なにやってんの!? 汚いでしょ!? やめなさいよぉっ!!」
ドン引きするフェリスの声も届かず、ルミナスは感動のまま空を見上げた。
「ありがとう、異世界……!! まさか、こんなところで“しょうゆ”に出会えるなんて……!」
彼女の中で、今――確かに“食”の革命が起きていた。
目を見開いたまま感動に震えるルミナスに、浜辺のほうから声が届いた。
「ルミナス様! フェリス! 昼食にしましょう!」
セシリアの呼びかけに、釣り勝負どころではなくなった二人は、顔を洗い、それぞれが釣り上げた魚を抱えて浜辺へと戻っていった。
「……ルミナス様。その……そちらの生き物は?」
並べられた巨大魚を見て、セシリアが少し眉をひそめる。
「マグロとヒラメだよ!! ……たぶん!」
「私のは……イカ、だったかしら……」
ルミナスとフェリスは誇らしげに釣果をセシリアの前に差し出す。
「それで……これらは、本当に食べられるのでしょうか?」
やや疑わしげなセシリアの問いに、ルミナスは腰に手を当て、満面の笑顔で応じる。
「もちろんっ!!」
だが、フェリスは露骨に眉をひそめた。
「……やっぱりこれ、食べる気で釣ってたのね……?」
「そうだよっ!! しかもお刺身! これはもう、生で食べるしかないって!」
「……生で……?」
ルミナスのその一言に、セシリアとフェリスは一斉に釣った魚へと視線を落とし、ゆっくりと首をかしげる。
「ルミナス様……流石に、この見た目で生食は……少々無謀では?」
「ねぇ、あんた本気で言ってるの……?」
フェリスも心底呆れたように尋ねるが、ルミナスはまったく怯まない。
「お願いっ! 騙されたと思って! セシリア、捌いてくれない?」
その真剣な眼差しに、セシリアはしばし悩んだ末、静かに頷いた。
「……かしこまりました。では、教えていただいた通りに」
──捌くこと数分──
「……切ってみましたが……本当に食べられるのでしょうか……?」
まな板の上には、綺麗にスライスされた赤身の刺身と、隣には謎の黒い液体――“イカスミ”が小皿に盛られていた。
「これ……生肉とあんまり変わらない見た目じゃない……。しかもこの墨に、つけて食べろって?」
フェリスが不安げな目を向ける中、ルミナスは目を輝かせながら皿をのぞき込む。
「これっ!! これだよっ!! あ〜っ……まさかここで、マグロのお刺身が食べられる日が来るなんて……!」
嬉しさを噛みしめながら、ルミナスは何のためらいもなく、マグロの刺身をイカスミにつけて口に運んだ。
──ぱくっ。
「ほ、本当に食べたわ……」
フェリスがぽつりとつぶやき、セシリアが慎重に尋ねる。
「ルミナス様……お味は、いかがでしょうか?」
「………………」
──ぽろっ……ぽろっ……
次の瞬間、ルミナスの頬を、ぽたぽたと涙が伝って落ちた。
「──!!」
セシリアとフェリスが思わず息をのむ。
ルミナスは感極まった表情で、無言のまま親指をグッと立てる。
涙を流しながら咀嚼を続け、言葉より先にその“旨さ”を全身で伝えていた。
二人はそんなルミナスの姿に圧倒されつつも、徐々に顔を引きつらせ始める。
「……そんなに……?」
セシリアが小さくつぶやき、フェリスは顔をしかめながら刺身を見つめた。
「……そこまでとは……では、私も……一つ」
セシリアがフォークを手に取り、そっと刺身をひと切れすくい上げる。
そのまま隣にあるイカスミ――ルミナスが“醤油”と断言した漆黒の液体にちょんとつけ、静かに口へ運んだ。
──ぱくっ……
「──っ!!」
その瞬間、セシリアの目が見開かれる。
(……なにこれ……口の中で……溶けた!?)
目を見開いたまま、彼女はもう一切れを手に取る。そして、再びイカスミにつけて口へ。
(……まただ……とろけた……)
「も……もう一枚……」
セシリアの手は止まることを知らず、次から次へと刺身を口に運んでいく。
そう、彼女が食べているのは、マグロの中でも脂の乗った“極上の大トロ”だったのだ。
その光景を見ていたフェリスは、思わず唾を飲み込んだ。
「へ、へぇ〜……そ、そんなに美味しいの……? ふ、ふーん……?」
強がった態度とは裏腹に、目は明らかに“欲しそう”に泳いでいた。
そんなフェリスに、ルミナスがにっこり笑って声をかける。
「早くしないと、セシリアに全部食べられちゃうよ~? この辺がいっちばん美味しいところなんだからっ!」
「~~っ!! くっ……!」
フェリスは拳を震わせ、ついに堪えきれなくなった。
「だあぁぁっ!! 無理っ!! そんなに美味しそうに食べてたんじゃ我慢できないっ!! 私も食べるっ!!」
勢いよく身を乗り出し、セシリアが食べていた大トロの皿に手を伸ばす。
イカスミをつけて──
──ぱくっ!
「っ~~~~~~!!!」
フェリスの身体が、びくんと震えた。
とろける刺身。口の中にじゅわっと広がる脂の旨味。
イカスミの“醤油味”が絶妙な塩気となってそれを引き立てる。
「な、なにこれぇ~……う、うみゃあ……」
言葉にならない感動と美味しさに、フェリスの表情が完全にとろけきっていた。
三人は夢中になって、皿の上の刺身を次々と口に運んでいく。
そしてしばらくすると、セシリアが別の皿を運んできた。
「ルミナス様、こちら。串に刺して焼いたお肉とお野菜もございます。よろしければご一緒にどうぞ」
香ばしい香りが、海風に乗って漂ってくる。
「そうそう! 海といったらバーベキューだよねっ!!」
ルミナスは串焼きを手に取り、かぶりついた。
「フェリスも食べる? セシリアが焼いてくれたよ~?」
「私はいいわっ……! もぐもぐ……い、今はイカ食べてるから……もぐもぐ……」
もはや完全に“刺身の虜”となったフェリスは、ひたすらイカにイカスミをつけては口へ運んでいた。
その様子にルミナスが再び一言。
「フェリス、そのイカ……イカスミつけて、焼いて食べても美味しいよ?」
「な、なんですって!? セシリア! それ、お願い!!」
「ふふっ、かしこまりました」
こうして三人は、たっぷり海で遊び、たっぷり海の幸を味わい――
オレンジ色に染まっていく夕日を背に、ゆっくりと帰り支度を整えていった。
──ザハール海岸・夕暮れ
穏やかな波の音と、橙色に染まる空。
浜辺に停められた荷馬車の中で、フェリスは静かに眠っていた。
「フェリスは……寝ちゃってるね」
ルミナスがそっと覗き込んで、微笑みながらつぶやく。
「ええ。きっと久しぶりに思いきり遊んだせいですね……」
セシリアも柔らかく頷いた。
海と戯れ、笑って、釣って、食べて――
日常の喧騒も瘴気の脅威も、今日だけはすべて忘れて過ごした一日だった。
「セシリア」
「はい?」
「また、いつか……みんなで来ようね。今度はさ、スイカ割りとか、花火とか……できたら、きっと楽しいと思うの」
海風に揺れる銀髪の向こう、夕焼けがゆっくりと沈んでいく。
セシリアはルミナスの横顔を見つめ、小さく微笑んだ。
「……はい。ルミナス様の仰る通り、きっとその時も――楽しく、にぎやかな一日になると思います」
こうして、ルミナスたちは名残惜しさを胸に、ザハール海岸を後にした。
──ザハール自由連邦国・宮殿
「な、なんですかこれは……!? この美味たるものはっ……!!」
豪奢な食堂の奥、グラン王が目を剥きながら声を上げた。
目の前に並べられているのは――マグロの刺身。そして黒々としたイカスミ。
「……マグロ!? イカスミ!? 海で……これを!?」
感動と衝撃が入り混じる中、王は豪快に立ち上がる。
「こうしてはおれん!! 今すぐ、海への経路を開拓せよ!! 交易路も整備だ!!」
こうして――
ザハール自由連邦国は、新たな海の恩恵とともに、漁業という未知の産業へと舵を切ることとなった。
だが、その物語はまた別のお話――。