第四章 第16話:奴隷紋は今もそこに
──あらすじ──
因縁の男と対峙するセシリア。
過去の呪縛が再び牙を剥くなか、交錯する怒りと想いが交差する。
それは、“家族”の名を懸けた戦いの始まりだった──。
──ザハール砂漠・隠れアジト オークション会場
フェリスが駆け抜けていった扉を追おうと、セシリアが一歩踏み出したそのとき。
反対側の扉が、ギィ……と鈍い音を立ててゆっくりと開いた。
「な、なんの騒ぎだよおい……」
「あ、兄貴……まさかあの女たちじゃ……」
現れたのは──
ルミナスを攫った張本人、ナリ兄弟だった。
「……あっ」
「……あっ」
ぴたりと動きを止めた二人に、セシリアが鋭い視線を向ける。
その目は、ゴミに群がる蠅を見るように冷ややかだった。
「………」
「ひぃああああっ!!!!」
「兄貴っ!!逃げやしょう──!」
──ヒュンッ! ヒュンッ! ヒュンッ! ヒュンッ!
放たれた水のナイフが、正確無比な軌道で飛翔し、ナリ兄弟の両腕と脚を壁と扉に突き刺した。
「逃げられると思って?」
セシリアの言葉は、氷よりも冷たかった。
「あなたたち……ルミナス様をどこへ連れていったのか、答えなさい」
「ひぃぃぃぃ!!」
兄のダイが慌てて震える指をフェリスが入っていった扉の方へ向けた。
「あ、あっちの倉庫の方に牢屋がありやすっ! あのガキ……いえっ! お嬢様はそちらに──!」
弟のショウも必死で首を縦に振る。
(フェリスが向かった先……それなら……)
セシリアは一拍置き、さらに問いを重ねた。
「──バルネスの居場所を教えなさい。ここにいるのでしょう?」
ナリ兄弟は、一瞬呆けた顔で見つめ返した。
「へ……? は、はい!? バルネスの旦那ですか!? そ、それなら今さっき、会ってきたばかりで──」
「案内なさい」
睨みを利かせて告げると、二人は蒼白になりながら何度も頷いた。
「ひぃぃぃぃ!! は、はいぃぃぃ!!」
水のナイフが消え、解放された二人はセシリアの視線を恐れるようにちらちらと伺いながら、開けた扉の方へと歩き出した。
「ダ、ダイの兄貴……あの女、めっちゃ怖ぇよ……」
「さ、逆らわねぇ方が身のためだぞショウ……」
ひそひそ声で話す兄弟に、セシリアは振り返らずに言い放った。
「静かに案内しなさい。次、余計なことを話したら──舌を斬り落とします」
「は、はひっ……!」
兄弟はそれきり口を閉ざし、急ぎ足で奥へと進む。
やがて、下りの階段へと差し掛かったところで、ダイが立ち止まり、小声で振り返る。
「あ、ここの階段を降りて真っ直ぐ行った、大きい扉の先が……バルネスの旦那の部屋です……」
「……案内、ご苦労さま」
──ベチンッ!!
「へぶっ……!?」「ぎゃっ……!?」
セシリアは水で作った魔力強化の氷塊を放ち、二人の後頭部を軽く叩いて気絶させた。
「《アクア・バインド》」
呪文とともに発生した水の鎖が、兄弟の手足をしっかりと拘束する。
「バルネスを捕らえたら、あなたたちもバザール国の監獄に突き出しますから」
そう静かに告げると、セシリアは一人、階段を降り始めた。
──向かう先には、あの男がいる。
心に刻まれた、消えぬ痕跡の主──バルネスが。
セシリアは静かに階段を下り、ひとつの重厚な扉の前で立ち止まった。
──キィィィ……
ゆっくりと扉を押し開けると、中には赤いマントを羽織った中年太りの男が背を向けて、何かに話しかけていた。
「──はい。ええ、そうです。寄生水は失敗に終わりました。……ええ、では代わりに“瘴果の実”を……ええ、それではまた──」
その言葉に、セシリアの眉がぴくりと動く。
彼女は無言のまま室内に入り、静かに語りかけた。
「──ずいぶんと熱心に話していたようですが、その内容、詳しくお聞きしてもよろしいですか? バルネス・グロスヴァルト辺境伯」
「……っ!! お、お前は……!! セシリア・ローゼリッタ……!」
「お久しぶりです。覚えていてくださって光栄ですわ」
声は冷静。しかしその瞳には、抑えきれぬ怒りと憎しみが燃えていた。
「それで……どういうことですか? なぜあなたが寄生水について知っているのです? それに、“瘴果の実”とは一体……?」
だがバルネスは、セシリアの問いに答えることなく、にやりと不気味に笑った。
「まさかお前から来てくれるとはな……くっくっく……」
その態度に、セシリアは無数の水のナイフを周囲に纏わせ、鋭く言い放つ。
「話を逸らさないでください。正直に話さなければ──この刃があなたの身体を貫きますけど、文句はありませんね?」
しかし、バルネスは両手を広げて挑発するように答えた。
「くっくっく……やってみろよ。お前に、それができるならな?」
「……いいでしょう。お望み通りに──」
セシリアが水刃を放とうと、手を突き出しかけた、その瞬間。
──ピタッ……
「……!? な……か、身体が……う、動かなっ……!?」
全身が凍りついたように動かず、水のナイフも音を立てて消えていった。
「おいおい……どうした? 撃たないのか?」
バルネスは悠然と歩み寄り、セシリアの目の前でぴたりと止まると──
──バチンッ!
「っ……!!」
──ドサッ!
勢いよく頬を打ち据えた。だがセシリアはすぐに立ち上がり、反撃のハイキックを放とうとする。
──ピタッ……
「なっ……なんで……!? また……!?」
しかし再び、身体が制止されたように動かない。
「ハーッハッハッハッハ!!」
高笑いを響かせながら、バルネスはセシリアの脚を掴み、そのまま壁へと叩きつける。
──ガシッ!!
──バンッ!!
「ぐっ……うっ……!」
苦痛に呻くセシリアを見下ろしながら、バルネスは首から下げていたネックレスを取り出した。
それは紫色に妖しく輝く魔石の首飾りだった。
「残念だったな、セシリア。お前は──この俺には、一切、手を出すことができんのだ」
魔石が煌めいた瞬間──
──ジュウゥゥ……!!
「あつっ……!! ぐっ……!! ああああああっ……!!」
肩に焼けつくような痛みが走り、そこにはかつて消えたはずの奴隷紋が浮かび上がっていた。
「な……んで……!? ルミナス様に……消してもらったはず……」
セシリアは痛みに呻きながら、地に膝をつく。
「フン、まだわからんか。お前に施した奴隷紋は“呪い”だ。
この古代魔石がある限り、お前は私に一本の髪すら傷つけることができん」
バルネスはセシリアの髪を掴み、無理やり顔を上げさせる。
「ぐっ……ああああっ……!!」
「精霊の血を引く少女、セシリア。お前の家族を消し、お前を奴隷にするまで、どれほど苦労したか……!」
──バゴッ!
「ぐっ……!!」
「俺の計画を台無しにしやがって……!」
──ドゴッ!
「うっ……!!」
容赦ない拳が、顔や腹に叩き込まれ、セシリアの身体が崩れ落ちる。
──ドサッ……
「…………っ」
バルネスは引き出しから不気味に瘴気を放つ紫の果実を取り出す。
「これが何かわかるか? くく……《瘴果の実》──“魔族の素”さ」
「……!? それは……」
「ひと口かじれば、たちまち魔族に変貌する。ザル=ガナス様が残した“神の奇跡”だよ」
セシリアの顔色が変わる。
バルネスは得意げに語り続けた。
「俺はな……ザリオス様と取引してるのさ。
どうせ人間なんざ、いずれ滅ぶ……だったら魔族側に就いて、生き残ったほうが賢いってもんだ」
「俺は奴隷にこの実を食わせて、魔族化させて提供してきた。
強力な個体を作るためにな。グブリンキングも、オルグ・フルネスも──俺の奴隷だったさ。“元”はな」
「……っ!」
「調教は面倒だったが、仕方ねぇ。恨みと苦痛で心を塗り潰さなきゃ、不完全な魔族にしかならねぇからな」
「……この……ゲスが……!!」
セシリアは歯を食いしばりながら、バルネスを睨みつけた。
だがバルネスは歩み寄り、さらに言葉を重ねる。
「精霊の子孫がローゼリッタ家とは、驚きだったぜ。
しかも異常なまでの魔力量を持つ、お前が……!」
──ダダンッ!!
──ガシッ!!
「精霊の力を持ってるなんてよ……!!」
「──!!」
セシリアが抵抗する間もなく、バルネスは彼女を押し倒し、顔を無理やり手で押さえつけた。
紫の瘴果の実が、じわじわとセシリアの口元へと近づいていく──
「神アルヴィリスの使いだか何だか知らねぇが……あのルミナスとかいう女……何度も俺の邪魔を……!」
「だが……お前が魔族に変わったとき、あの女はどんな顔を見せるだろうなぁ……!!」
「は……離せっ……!!」
一方その頃、フェリスは──。
セシリアとは逆方向へと足を向け、オークション会場の裏手を一人で進んでいた。
「……なんか、倉庫みたいな場所に出たっぽいわね」
近くに掛かっていたランタンを手に取り、静かに扉を開けて中を覗き込む。
「ルミナス~……どこにいるの~……」
──ドサッ。
「……っ!?」
奥の方で何かが倒れる音がして、フェリスは素早く姿勢を低くした。
耳を扉に近づけ、剣の柄に手をかけて身構える。
──バンッ!
「……よしっ、これで起動はできないはず。あとは鍵だけ……!」
聞こえてきた声に、フェリスの目が見開かれる。
「……ルミナス!?」
「え?」
──バンッ!!
勢いよく扉を開いたフェリスの目に、見慣れた白髪の少女と目が合った。
「フェリス!!」
「ルミナス!! ……って、そっちの人たちは……?」
再会を喜ぶフェリス。しかし、ルミナスの背後にいた数人の女性に気づいて目を丸くする。
「この人たち、ザハールで捕まって、私と同じように連れてこられたみたい」
ミレイユたちがぺこりと一礼する。
「そうだったのね。じゃあ一緒に……って、ちょっとあんた、その首輪なに!?」
ルミナスの首元に巻かれた黒い魔導具を見て、フェリスが声を上げる。
「これ、奴隷に使う魔道具なんだって。今、解除するための鍵を探してたところ」
牢の男から得た情報を手短に説明すると、ルミナスは続ける。
「で、その鍵なんだけど──バルネスってやつが持ってるらしいの」
「バルネス・グロスヴァルト……! つまり、このアジトの親玉ってことね!」
名前を聞いた瞬間、ルミナスの目が見開かれ、はっと思い出す。
「バルネス・グロスヴァルト……!? あっ! 思い出した!! セシリアを奴隷にした、あのクソ貴族!!」
「今まさに、セシリアはそいつの執事と戦ってるはずよ! 早く戻って加勢を──!」
だが、ルミナスはミレイユたちの安全を考えて提案する。
「それならフェリスはミレイユ達と一緒に外で待ってて?」
「え……でも」
「私もそのクソ貴族にガツンと一発言ってやりたかったの!」
フェリスが呆れたようにため息をつく。
「はあ~……仕方ないわね。セシリアはこの先の会場にいるわ。私たちはあとから追って外に出るわ、任せたわよ、ルミナス!」
ルミナスはコクンと頷き、かつてない俊敏さでドアから駆け出していった。
「……あの」
残されたミレイユが、不安げにフェリスへ問いかける。
「ルミナスちゃん、大丈夫なんでしょうか……?」
「ん? あぁ、あの子? 今はあんな見た目だけどね……すっごく強いんだから。へーきよ」
──ダダダダッ!!
(ありがとう、フェリス……! セシリア、今行くからね……!)
ルミナスは通路を全速力で駆け抜け、オークション会場の扉を勢いよく開けた。
──バンッ!
「あれ……いない……?」
静まり返ったオークション会場。戦いの痕跡だけが、そこに残されていた。
「セシリア……どこに行ったんだろ……」
辺りを見回し、扉の反対側に傷のついた扉を発見する。
「このナイフの刺し跡……まさか、こっちに行ったってこと……?」
ルミナスは扉を開けて、まっすぐ伸びる通路を走る。
──ダダダッ!
「……! あれは……!」
道の途中で倒れている男たちを見つけ、ルミナスはピタッと足を止める。
「あっ! カーレムのおじさん!!」
そこには、水の鎖に縛られたナリ兄弟が、気を失って横たわっていた。
「この魔法……セシリアのだ!」
そして、階段を見つめ──確信する。
「セシリアは……この先だ!」
階段を駆け下り、奥にある大きな扉へと突き進む。
そして。
──バキバキバキッ!!
──ドォォンッ!!
「セシリアぁぁぁぁっ!!!」
扉を蹴破って飛び込んだ先で、ルミナスの目に飛び込んできたのは──
傷だらけで仰向けに倒れるセシリアと、彼女に覆いかぶさっているバルネスの姿だった。
「な、なんだ!? 貴様ぁ!!」
男の怒鳴り声に構わず、ルミナスは着地と同時に、その顔面へ強烈な蹴りを叩き込んだ。
──ズワァァァッ!!
──バキャッ!!!
「ぎゃっ……!!」
──ドスンッ!
「ぐああッ……! こ、このガキぃ……!! 俺の顔面に蹴りを……!!」
顔を押さえてもがくバルネスに、ルミナスは静かに近づき──その胸ぐらを掴む。
小柄な体でありながらも、驚異的な腕力でバルネスの身体を引きずるように引き寄せた。
「お前か……バルネス・グロスヴァルトってのは……」
「お、お前は……あのバカ兄弟が連れてきた奴隷の子供……!?」
「セシリアをこんな目に合わせて……タダで済むと思うなよ……」
星のように輝いていたルミナスの瞳は、今や隕石のごとく激しく燃えていた。
「ル……ルミナス様……」
セシリアが、か細い声で彼女の名を呼ぶ。
そしてバルネスが、ニヤリと笑い、ルミナスの首輪へと視線を移した。
「くっくっく……調子に乗るなよ、このガキが……!」
──バッ!
ルミナスの手を振り払って立ち上がり、逃げようとするバルネス。しかし、ルミナスの拳が素早く迫る。
──ズワッ!
──バゴッ!!
「ぐあっ!!」
──ドサッ!!
「ぐぅ……! な、なんなんだこのガキの力は……っ!」
腹を押さえてうずくまるバルネス。だがその瞬間、手元のスイッチをカチリと切り替えた。
「調子に乗ってんじゃねぇ!! お前はこれで終わりだ!!」
(……あれは! まさか、起動スイッチ!?)
──ビリビリビリビリッ!!!
「っ……!!」
ルミナスの全身に凄まじい電流が走る。皮膚が焼けるような感覚に、身体が震える。
「ル、ルミナス様!!」
「なに……? このガキが……ルミナス……!?」
見た目が変わっていたことで気づかなかったバルネスは、驚きと共に歓喜の笑みを浮かべる。
「くくっ……これは傑作だ! おいおい、まさか俺が……この女神を手に入れるとはなァ!!」
「この首輪はな、ザハール建国前の遺物だ……容赦ねぇ連中が作った、えげつねぇブツなんだよ……苦しいだろう? 痛いだろう?」
「…………」
ルミナスはうつむき、無言のまま耐えている。
「お前が気を失ったら今度こそセシリア、お前を魔人……いや魔王の幹部級に仕立ててやる!」
その瞬間、ルミナスの肩がピクリと動いた。
「……お前なんかに……!」
「あ?」
黙っていたルミナスが口を開く。
「……お前なんかに……!!」
──ドクンッ、ドクンッ……!
ルミナスの身体から、純白の光が漏れ始める。
「な、なんだと……!? 身体が……大きく……!?」
小さな体が徐々に、元の姿へと戻っていく。服がはじけそうになりながらも、スカートの紐がほどけ、かろうじて収まる。
「お前なんかに、私の家族を……傷つけさせてたまるかあああああああっ!!!!」
──ズワァァァァッ!!!
部屋全体が嵐のような気のうねりに包まれる。
「な、なんだあああああ!!?」
──ピシピシピシッ!!
──バキィィィィン!!
「ば……馬鹿な!? 古代の首輪が……壊れた、だと!?」
「神芽顕現ッ!!」
──ブワアアアアアアッ!!!
ルミナスの背中から、眩い光とともに、純白の翼が二枚──突き抜ける。
天使の羽根が舞い落ちるその中で、ルミナスが右手をかざした。
「……《ルクス・レメディア》」
──ファァァァァァ……ッ!!
「っ……これは……!?」
まばゆい光がセシリアを包み、傷を癒していく。
「私の、大切な家族を……魔族に変えるだなんて……」
ルミナスの瞳が、静かに──しかし烈火のごとくバルネスを睨みつける。
「ふざけんなよ……バルネス・グロスヴァルト……私は、絶対にお前を許さない……!」
それはまさに──天から下された神罰のように。
バルネスの心臓を、鋭く突き刺した。