第二章 第2話:奴隷と罪
──あらすじ──
過去に深い傷を抱えたセシリアと向き合い、
ルミナスは静かに手を差し伸べる。
差し出されたその手は、
彼女の心の奥に眠る罪の意識すらも、そっと溶かしていく。
「私が……家族を殺したんです」
セシリアは、そう呟いた。
一瞬、時間が止まったようだった。
ルミナスはその言葉の重さを受け止めながら、
真剣な面持ちで静かに問いかけた。
「無理に話さなくてもいい……けど、よかったら、聞かせてくれないかな。」
セシリアは震える唇を噛みしめ、しばらく目を伏せたまま黙っていた。
そして、やがて……過去を語り始めた。
「私は──エルディナ王国の北西にある、ローゼリッタ家の長女として生まれました。
家は子爵家で、父と母、そして兄と共に、ささやかではありますが穏やかな日々を送っておりました。
けれど、ある日。
西方の辺境を治めるバルネス・グロスヴァルト辺境伯から、私に婚姻の申し出が届いたのです。
――遠い日の記憶が、静かに胸の奥から浮かび上がる。
エルディナ王国北西、豊かな緑に囲まれた小領地。
そこにあったローゼリッタ家は、子爵とはいえ小さな領土を治める貴族だった。
父と母は穏やかで、兄は誰より優しく、日々は慎ましくも幸福に満ちていた。
だが、あの日を境に、すべては音を立てて崩れていった。
──バルネス・グロスヴァルト辺境伯から、私への婚姻の申し出が届いたのは、そんな穏やかな春の終わりだった。
「セシリア嬢を、我が嫡子に迎えたい」
冷たく響くその使者の声に、私は言葉を失った。
バルネス家は王国西方最大の軍閥を率いる名門。その申し出を断るということが、
何を意味するのかなど、愚かでない私にはすぐに分かった。
家族に迷惑をかけるわけにはいかない。そう思い、私は──婚姻を承諾した。
けれど。
「無理をするな、セシリア」
「お前の幸せを犠牲にしてまで、家を守る必要などない」
父も、母も、私の表情からすべてを見抜いていた。
そして静かに、優しく、背中を押してくれたのだ。
私の幸せを願って。
だから私は、意を決して、バルネス辺境伯の元を訪れた。
──だが、彼は怒りを隠さなかった。
「婚姻を、断るだと……? 小娘が、誰に物を言っているつもりだ」
「よかろう。ローゼリッタ家の愚かさ、しかと見届けてやろう」
その瞳に浮かぶ執念深い憎悪に、私は言い知れぬ不安を覚えた。
その数日後、悪夢のような報せが届く。
──ローゼリッタ家が、魔族との内通者であると告発されたのだ。
証拠とされたのは、我が家の書庫で“発見”されたという一通の文書。
魔王との通信記録など、見覚えなどあるはずもない捏造された文だった。
父と母は、必死に無実を訴えた。だが、誰も耳を貸さなかった。
速やかに“公開裁判”が行われ、父と母には死刑が言い渡された。
兄は国外追放。
そして私は──告発者であるバルネス辺境伯の所有する奴隷として、その身柄を引き渡された。
生まれて初めて、家族と引き離されたあの日。
兄の背中が、遠ざかる魔馬車の影の中で見えなくなった時、私はようやく気づいた。
あの日から、私のすべてが終わったのだと。
──その後バルネス辺境伯の屋敷で、私は“奴隷”として日々を送っていました。
名目上は、雑用や家事をこなすだけ。
使用人たちと同じような仕事をし、同じ空間で過ごす。
けれど、奴隷とは──所有者の命に逆らえず、報酬も、権利も、存在の自由すら持たぬ者。
そして私には、使用人たちのような日常すら、与えられませんでした。
ある日、バルネス辺境伯に命じられて地下室へと連れて行かれました。
そこで始まったのは、“罰”と称された拷問。
鞭。殴打。暴力。
最初は耐えられたものの、それは徐々に、確実に、常軌を逸していきました。
──最終的には、左目を……奪われました。
それでも私は、すべてを受け入れようと思ったのです。
これが報いだと、思い込もうとしていたのです。
自分が婚姻を拒んだせいで、両親は処刑され、兄は追放され……
私は、私自身の判断の甘さで、家族を滅ぼしたのです。
だからこれは当然の罰。
どれほどの痛みにも耐える。それが“償い”だと……自分に言い聞かせていました。
──けれど。
ある日、地下へ食事を運んできた一人の使用人が、私の前にそっと跪きました。
そして、錠前を外しながら静かに言ったのです。
「……もう、いいんですよ。セシリア様。あなたは、十分に……耐えられました」
その瞬間、私の中で何かが崩れました。
私は、逃げました。逃げてしまいました。
自らの罪を償わないまま
──飲まず、食わずで、走り続けました。
それでもまだ、自分の罪から逃げたと感じていました。
どこにも行く宛てなどなく、息も絶え絶えで、地に崩れ落ちたそのとき──
──あなた様に、救われたのです。
セシリアは語り終えたあともしばらく沈黙していた。
顔を伏せたまま、絞り出すように呟く。
「……私は、恩を返すなどと、軽々しく言いました。けれど……過去を思い出すたびに、自分の手が、どれだけ汚れているかを思い知らされます」
膝の上で握った手は細かく震えている。言葉の端々ににじむのは、過ちではなく、“自分は生きていてはならない”という強い自己否定だった。
「家族を……私が殺したのです。私の決断が、あの人たちの命を奪いました。
そんな私が……ルミナス様のようなお方の傍に立つことが、許されてよいはずがありません……」
その声は、どこまでも静かで、どこまでも深い絶望に沈んでいた。
ルミナスはただ静かに、彼女を見つめていた。
悲しみや怒りではなく、胸を締めつけられるような、切実な感情が心に渦巻いていた。
(……なんて顔をするの。まるで、自分が“人間じゃない”って言ってるみたいじゃない)
目の前の少女は、誰よりも傷ついて、誰よりも誰かを想って、誰よりも……自分を責めている。
(あなたのせいじゃない。なのに……どうしてそんなにも、自分を罰しようとするの)
気づけばルミナスは、そっと腕を伸ばしていた。
何のためらいもなく、セシリアの細い身体を抱きしめる。
「……あなたのせいじゃない」
それは、優しさというよりも、祈りに近い言葉だった。
「家族を失ったのも、傷ついたのも、理不尽に苦しめられたのも。あなたが望んだことじゃない。あなたが誰かを傷つけたわけじゃない」
セシリアの肩が、震える。
「罪なんて、償わなくていい。あなたは、罰を受けるようなことなんて、していない。むしろ……誰よりも、愛されるべきだった」
涙が溢れそうになるのを堪えながら、ルミナスは言葉を続けた。
「だけど、今のあなたを……私はこのまま放っておけない。だから、提案があります」
ルミナスはそっと腕を離し、微笑んだ。
「セシリア。――私の家族になりませんか?」
それは、迷いも打算もない“選択”だった。
「奴隷でも、罪人でもない。ただの“人間”として。これから一緒に、歩いていけたらって思うの」
セシリアは、言葉を失った。
心の奥で、何かが崩れていく音がした。
これまで、自分を縛っていた鎖が――誰かに許されるはずがないという呪いが――
静かに、音を立てて、砕けていく。
彼女の瞳に映るルミナスの姿は、夕陽の光を背に受け、まるで神話に描かれる本当の“女神”のようだった。
セシリアはその胸にすがるようにして、震える声で嗚咽をこぼした。
「う……あ……あああ……っ……!」
声にならない想いが、涙と共に溢れ出す。
ルミナスの胸の中は、温かかった。
否定されることも、責められることもない。
ただそこには、「いていい」と言ってくれる、優しさがあった。
この時初めて――
セシリアの胸に巣食っていた“罪の意識”が、静かに、そして確かに、消えていった。
ルミナスは、セシリアが泣き終わり落ち着くまで、そっと抱きしめていた。
「……ありがとうございます。ルミナス様、もう……落ち着きましたから」
セシリアが涙を拭いながら顔を上げると、ルミナスは穏やかに微笑み、
彼女の手をそっと握った。
「よし! それじゃあ、ご飯食べに行こっ。お腹、空いたでしょ?」
その明るい声に、セシリアは一瞬ぽかんとした後、かすかに微笑んで頷いた。
ルミナスはセシリアを連れてダイニングへ向かい、席に座らせる。
そして近くの使用人に、夕食を二人分用意するよう頼んだ。
「い、いいのですか……? ルミナス様、私の分など……」
「いいのいいの! セシリアはもう私の家族なんだから!」
その言葉に、セシリアは胸を押さえ、こみ上げる想いをぐっと飲み込む。
やがて、使用人たちが丁寧に配膳を済ませていく。
「……!? ル、ルミナス様!? この料理は一体……!?」
セシリアは目を丸くし、信じられないといった表情で並べられた料理を見つめた。
それもそのはず。彼女がこれまで口にしてきたのは、蒸した芋や、小麦を水で固めた質素な食事ばかりだった。
「それに、この……香ばしい匂いの料理は、なんですか……!?」
セシリアが指さしたのは、肉厚でジューシーに焼かれたステーキ。
「あ、それ? ステーキだよ! 魔獣肉の」
「ま……! 魔獣肉!? これを……お食べになるのですか!?」
ルミナスは、またかという表情で肩をすくめる。
「そうそう。最近ね、魔獣肉は無害って証明されたの。今頃はもう、王様が飲食OKにするよう手配してるはずよ」
言われてもなお不安げな表情を浮かべるセシリアだったが、ルミナスの言葉を信じ、恐る恐る口へと運んだ。
「い……いただきます……」
小さく囁いて一口含んだ瞬間、その目が見開かれる。
「……! お、美味しい……!」
その反応に、ルミナスは満足げに頷いた。
しばらくして、セシリアがふと疑問を口にする。
「それにしても……これだけの食材、一体どこから……?」
ルミナスはふふんと胸を張る。
「ふふーん! 実はね、私こう見えて畑で野菜育ててるの!」
(ま、最近やっと発芽したばっかなんだけど……)
「明日、セシリアも一緒に畑を見に行こうよ! きっと驚くと思うよ!」
セシリアは目を輝かせ、にこりと微笑む。
「はい……! ぜひご一緒させてください!」
こうして、セシリア・ローゼリッタという“家族”が、新たにルミナス邸に住むこととなったのだった。
※“魔馬車”とは、王宮魔道士や貴族階級の魔術師が行使できる馬の幻影を魔力で、
創り出しそれを車体に付け走らせる高等魔法技術。
馬の姿は魔力によって形作られ、
馬のように走り、音も蹄の音を模して再現される。
ルミナス邸にも魔馬車用の車体はあるが、
普段ルミナスは走りながら移動しているので、魔馬車がある事自体気づいてない。