W字のアステリズム
昔の自分を捨てるため、三重県渡鹿野島に一人でやってきた。その島に存在した湖畔の民宿で、ある女子高生に出会った。それは遡ること十年程前のことである。その子は当時十七歳で非行を繰り返し、家出状態となっていた。名前はアンといって、援助交際、売春、パパ活とお金になることや快楽のためなら何でもやる子であった。一見してヤンチャな女の子といった感じではなくて、今どきの、心に闇を抱えており、何を考えているかよくわからない子という風であった。補導された度に、親からは、「せめて高校ぐらいは出て」と泣きながら言われてきたが、「今度ばかりは……」と何回同じことを言われたか数知れない。それぐらいその子はずいぶんと荒れていたらしい……。家を出るまでは京都で親と暮らしていたのだが、非行を繰り返す中で、親に勘当され、里親に育てられることになった。それがきっかけとなり、こちらにあるフリースクールで学ぶことになり、この民宿でアルバイトをすることになったわけである。渡鹿野島に来てからは、荒れていた性格も落ち着き始め、アルバイトの仕事もそつなくこなすようになった。
僕は岸本卓也というアラサーの売れない絵描きである。夢を実現させるために……というのは口実で生計を立てるために、この民宿で住み込みのアルバイトをしていた。なかなか芽が出ずに、絵描きも惰性的になり始めていた。どうせ自分になんて存在しようがしまいがどうでもいい存在だと人生を半ば諦めかけていた。そんな中、同じアルバイトの同僚でもあり、アンとは仲良くなり、しまいにはヌードモデルにまでなってもらえるようになった。こんないつ落ちぶれても構わない売れない僕に付き合ってくれて本当に感謝しかなかった。デッサンをしている最中、アンは豊満な胸を突き出し、少し恥じらった顔をしていた。女子高生でも発育がよく、形の良いふっくらとした胸のラインだった。しかし、よく見れば少し歪んだ楕円形でもあった。普段は黒色のストレートロングヘアで綺麗な顔立ちをしているのに、緊張している顔が何ともそそられた。
彼女が十八歳になるまでは彼女の耽美な裸姿やいやらしい水着姿を想像しながら、自分の薄汚れた右手を使い、自慰行為をすることで我慢するしかなかった。彼女とは民宿先でほぼ毎日生活が一緒だったので、我慢できなくなったときは、肌がピチピチした彼女を頭でイメージさせながら性処理の対象としていた。少し頭がおかしいのではないかと自分でも認識はしていた。
一緒に暮らすうちに彼女も僕には好意を持つようになった。というよりかは、ずっと年上の男性である僕に一種の憧れを抱いているような感じであった。
彼女が十八歳になれば、法律的には問われないだろうとは思い、それまで首を長くして待っていた。十八歳に達したことを本人に確認してからは、気兼ねなく存分にセックスを楽しむことができた。
アンは最近、十八歳になったばかりで、すっかり成人となったので、アンのヌードを描いた日は、必ずと言っていいほどお決まりのパターンでセックスをした。アンは裸の状態だったので、思うに自然な流れだったのである。もちろん彼女の同意も得ていた。決して不同意性犯罪ではないのである。彼女はまだまだ若く、貪欲で全く抵抗する気配はなかった。むしろ性に対して好奇心旺盛で楽しんでいるようにも見えた。ずっと年上である僕はそれを止めてあげる気持ちはなく、むしろ彼女のいいなりになっているように感じられた。
本当に彼女は肉食系女子の塊なんだなと感じた。自分としてもこの若い女性のエキスを味わうのは喜ばしいことであるし、体の関係を持つことに関しても、お互いベクトルが同じだったため、否定する理由などどこにも存在しえなかった。
「岸本さん、来て……」
これが彼女の欲しがっているサインである。
アンはまだ高校生なので、華奢な体つきではあったが、贅沢な胸を持ち合わせていた。そのおっぱいを揺らしながら、彼女の濃厚な唾液たっぷりの舌使いで僕の肉棒を一生懸命にねっとり濡らしてくれた。その肉棒に目掛けて、彼女は自身のデリケートゾーンに存在する、花びら状で湿り気のある唇をセクシーに挿入しようとしてきた。
「え⁉どうするつもり?いいの?」
「ピル飲んだし……今日は大丈夫やで……」
僕はその積極性に必死で応えてあげようとして、彼女のたわわな胸の中心にあるピンク色の乳首を指先でゆっくりゆっくりもてあそびながら、自分の腰を前後に動かし始めた。それに負けじと彼女の方も僕の動かし方とは若干遅れて、まるで裏拍を取るようなリズムで嫌らしく動かした。どうやら、彼女は自分のご自慢の乳首が性感帯のようだった。最初は指先だけであったが、そのうちに僕のオーガズムが促進し、アドレナリンの分泌が高まったところで、舌先で「チュパチュパ」と綿密に彼女の乳頭にしゃぶりついた。
「あー、アンのおっぱい最高だ、あー、最高だ」
「いじわる……」
関西弁のイントネーションで、彼女の言葉を聞くことで、余計に性欲をそそられてしまい、すっかり尖がってしまった僕の舌先で、「ペロペロ」と彼女の乳房を完全に舐め回してあげた。
すると、彼女は最高潮に達したようで、艶やかな声が漏れた。
「もう溶けちゃいそう……」
体を通して愛を語り合う端々で快感を覚える度に彼女はこの言葉を発した。さすが援助交際、売春、パパ活をしていただけに、男を悦ばせるポイントはきちんと押さえていた。正常位を通して、アンの体を征服できているんだという支配欲を満たすのと同時に、普段は敬語で真面目に話す彼女のアクメ顔を真上からまじまじと眺めることができるのが、究極のエクスタシーを感じずにはいられなかった。豊乳をモミモミしながら、ピストン運動の最終段階に差し掛かった瞬間、
「あーん、ダメー気持ちいい……もうイっちゃうー」
彼女の良がり声とベッドの「ギシギシ」と軋む音が激しさを増していった。
「出していい?あー出していい?あーイくよーほんとにイくよー」
パンパンに勃起した彼女の乳首をいじりながら、激しく腰を動かした。
「出して!出して!あー早く出して!濃いの一杯ちょうだーい!」
「ああ……イぐぅぅぅ、イぐぅぅぅ、一緒にイこう、あーイぐぅぅぅー」
彼女につられて、僕の方も我慢できずにクライマックスシーンで思わず声を上げてしまった。まるでアダルトビデオに出演する男優にでもなったような感覚で、正常位におけるフィニッシュを果たした。
正常位に関しては、僕はかなり自信を持っていたため、彼女をふんだんに悦ばせてあげられたのではないかと感じていた。案の定、彼女の方も大変満足した様子で、今回においては、僕の肉棒から放出された白い液体の最後の一ミリまで残さず絞り取ろうと、懇切丁寧にお掃除をしてくれた。
「おちんちん、だーいすき!」
と、子供みたいなことを言って、なかなか僕の肉棒を返してくれなかった。
そんな彼女が一物を弄ぶ様子は、健気で可愛らしく、まるで自分の所有物として取り扱っているようにも見えた。余程の執着心があるように感じられ、その姿がまさに大胆でセクシーそのものだった。また、なぜだかわからないが、僕は愛おしさのようなものも込みあげてきた。
全ての工程が終了した後も、しばらく二人の男女はベッドの上でだらだらと数字の六十九に近い形となって体を重ねていた。
「芸術はセックスだ!」
「はあ?何言ってんの?」
「セックスは最高の美だよ。描いてみたい」
「全、然、意味わからへん」
「つ、ま、り、ヌードモデルのアンは最高だってこと」
「たぶん褒められてるんやろうけど、やっぱ意味わからへんわ」
アンに芸術とは如何なるものかを説き伏せながら楽しい会話をした。
年を重ねていくにつれて、自分の体は老いていく……。そのせいもあってか、僕は年下の女性が好みで、特に一回りも二回りも年下の女性の体に憧れていた。要するに、若い子のエキスが欲しかったのである。中年に差し掛かったしがない絵描きの男性が若い女の子との合体を実現できたわけである。若い女体は柔肌でムチムチした心持ちであった。しかし、自分の若い頃は、成人と言えば、二十歳以上だったので、性行為が終了した後は、いつも少しばかり罪悪感に苛まれた。ただ、セックスを何回か繰り返していくうちに、次第にその気持ちも薄まり、慣れてはいった。
「年上のおばさんなんかに興味ない。いつも上から目線で見られるだけ」
年上の女性に対してはこのような固定概念があり、「年上の女性」と聞くだけで嫌気がさした。また、肉体的にも若くてピチピチした肌が大好きで、生物学的において「若い雌を狙う」という雄の本能には逆らうことができなかった。
僕とアンの性の波長が合う日は必ずと言っていいほどセックスを楽しんでいた。それはお互いの傷を舐め合っているような感覚でもあった。
秋の夜空が一番好きだった。昔から星座を覚えるのが趣味で、小学生の頃は星座早見盤を使って夜空と照らし合わせた。中でも、カシオペヤ座が好きで、初めて発見した瞬間は物凄く感動した。その後、この星を見る度になぜWの形なんだろうといつも思っていた。神様がそうしたのかあるいは自然の原理なのか、知りたくなり、自分で調べたことがあった。この星座のモチーフとされたのは、古代ギリシアの伝承に登場するエチオペア王ケーペウスの妃で、王女アンドロメダ―の母親とされるカッシオペイアである。
神話によれば、カッシオペイアは海のニュムペーのネーレーイスより美しいと自惚れたことで反感を買い、ポセイドーンはエチオピアに海の怪物ケートスを遣わし、災害を引き起こさせた。困り果てたエチオピア王ケーペウスが神託を立てたところ、災害を止めるにはアンドロメダーを生贄としてケートスに捧げなければならないという神託が下り、ケーペウスはその神託に従ってアンドロメダーを生贄に出したが、たまたま通りがかった勇者ペルセウスによってケートスは倒され、アンドロメダ―は救い出された。その後、ペルセウスとアンドロメダ―、ケーペウス、カッシオペイアは天に上げられ星座とされたが、玉座に座った姿で天に上げられたカッシオペイアは、彼女の不敬ゆえに頭を下にして天を回転させられているとのことである。
三個の二等星と二個の三等星が、ラテン文字のWの形に並ぶ姿で知られ、このW字のアステリズムは、天の北極を探すための指極星として用いられる。東はきりん座、北西をケフェウス座、南西をとかげ座、南をアンドロメダ座、南東をペルセウス座に囲まれており、北半球では秋の星座とされ、ほぼ年中観望することができる。
民宿は九階建てで屋上に上がれば、キラキラ輝く無数に広がる星を見ることができた。星をぼーっと見ていると、自分の存在がミジンコのように小さくてほぼ価値がないように感じてきた。
「あ、いけない。そんなこと考えちゃいけない」
携帯用のお絵描きセットからクレヨンと色鉛筆を取り出し、今夜も頭上に輝いている碇星を描き出した。
「こんな日がいつまで続くんだろうか……」
と、一人呟いた……。
そんな単調でもあり平和だった日々を壊すような形で、雷を伴う嵐が吹きすさぶ夜が突然訪れた。深夜二時頃の出来事であった。もちろんのごとく、その日はアンをデッサンしていたのでつい先程まで、アンとの性行為を楽しんでいた。それも順調に終わり、少し休憩している矢先だった。僕は、少し酔いたい気分になり、一人で酒を楽しんでいたのだ。
「うぎゃあぁぁぁぁぁぁ……」
一瞬にして断末魔のような声が響き渡った。まさかこの民宿でこのような経験をしたことはなかったので、自分自身も大変驚くことほかになかった。恐ろしい殺人事件が起きてしまった……。
民宿別棟二階にある自分の寝室から外へ飛び出して本棟へ大急ぎで向かった。途中、渡らなければならない本棟と別棟をつなぐ長い外廊下で包丁を持った血塗れの女性が佇んでいた。稲光が「ゴロゴロ」と鳴り響き、一瞬辺りが見えた。なんとそれは紛れもなくアンの姿だったのだ……。
「アン、どうして?」
「…………」
一瞬目が合ったが、アンは不気味な笑みを浮かべて、そのまま暗闇を利用しながらひっきりなしに走り去ってしまった。
「あなたは昨夜の事件で何か知っていることはありますか?」
深夜とはいえ、すでに島中が大騒ぎとなり、警察やマスコミが出動することになった。その後、警察や地元の人たちが、大勢で島中の捜索を行ったが、アンを見つけることはできず、為す術がなかった。
殺されたのは、民宿の主人だった。話を聞くところによると、アンはその主人とも関係を持っていたようで、お金をたかっていたらしい。やはり、こんな偏狭の土地に来てから落ち着いたとは言え、昔の素行はそう容易く変えられないものなのかなと感じていた。それにその主人も金や女にだらしなくてとんでもない奴だった。自分も何度騙されたかわからない。アンの気持ちがわからなくもなかった。しかし、殺人は殺人……逃げたとなれば、罪は重いだろう……。偏狭の湖畔民宿殺人事件として取り扱われたのだが、容疑者であるアンは逃亡したまま捕まることはなく、そのまま行方知れずとなり、事件は未解決状態のままだった。月日だけが過ぎていき、その後、アンの姿を見ることはなかった。
思い出したくもないあの事件から季節は過ぎ、十年程月日は流れていった。昔のことも遠い記憶となり、すっかり忘れていく。今の自分はまだ完全に売れているとまではいかないが、あの渡鹿野島に住んでいた頃とは違い、東京で小さな事務所を持つことができていた。
慌てて仕事に行く準備をした。
「行ってきます……」
当然返事もない部屋を後にして男は毎朝出勤する。
どう見ても世間で言えば中年の男性に値する。白髪もずいぶんと増えてきた。新人の頃は出世だの、高給取りだの、この会社で一番になってやる。そんな気持ちを持ちながら人一番にやる気に満ち溢れていたもんだ。ただ、今はどうだ。このすり減った靴、頼りない地味なスーツを身に纏い、とぼとぼと歩いている。あの頃の気持ちはどこへ行ってしまったんだろう。歩きながら耳元で小さな無邪気な天使が囁く。
「あの頃のエネルギッシュな自分はどこへ行ったの?」
しかし、そのむなしい声もただただ聞かないふりをして、僕はただバス停まで歩いていく。
バス停に並んでいる人は毎日同じ顔ぶれだ。背の高い帽子を被った僕より少し年のとったおじさん、僕と同じで地味なスーツを着た小柄なメガネの男の人、なぜかわからないがスーパーの袋を持ったおばさん、オタクみたいな恰好の青年……。みんなどことなく暗い顔をしている。
「こんなはずじゃなかったのに……」
僕と同じように、呟いているようにも見える。彼らの列に並ぶことで僕も同じ仲間になってただ同じ時間にやってくるバスを待つばかり……。
バスがやってきた。ただ取りつかれたようにバスに乗り込む。最寄り駅までただ揺られながら……。
「もう夏だな……」
暑くなってきたが、まだ夏とは言えない暖かい風に吹かれながら地味な色をしたスーツ姿の男性はただ職場へと歩いて行った。
また新しい一年が始まろうとしていた。僕自身も何か始めなければいけない気持ちが強くなり、最近はマッチングアプリにハマるようになった。いわゆる恋人募集中ってやつだ。そうは言うものの、昨今のマッチングアプリというものは全くとんでもないものだなと感じている。アプリを使用している人のほとんどがいわゆる「ヤリモク」や「ワンナイトラブ」を目当てにしているらしい。そもそも同時並行に複数人と付き合えるというから、目も当てられない。そういうわけで、マッチングアプリのシステムそのものに疑問を感じている。交際という言葉の響きがだんだん薄れてきているのではないかと思うくらいである。
僕は年下の女性が好みで、マッチングアプリでも年下の女性としか会おうとは思わなかった。
「年上のおばさんなんかに興味ない。いつも上から目線で見られるだけ」
年上の女性に対してはこのような固定概念があり、「年上の女性」と聞くだけで嫌気がさした。また、肉体的にも若くてピチピチした肌が大好きで、生物学的において「若い雌を狙う」という雄の本能には逆らうことができなかった。
最近、「サトウセイラ」という女性とマッチングした。年齢は二十四歳らしい。早速、次の日曜日、初デートということになった。電話口からして先方の印象というのは、声が若い感じで、まだまだ学生気分が抜けていないピチピチした女の子といった姿を容易に想像することができた。わかりやすく言えば、まだまだ恋愛したいという強い願望を持つ肉食系女子のように感じた。僕はまた「まさか」の展開を期待していた。「ヤリモク」は便利である。その場限りでの関係となるので、後腐れがなくて丁度良い。
初めての顔合わせとして、新宿のアルタ前を集合場所としていた。五分ほどだろうか遅れて彼女はやってきた。亜麻色のストレートロングヘアで綺麗な顔立ちをしていた。新緑の季節に合わせたのか彼女の服装はまだ学生を思わさせられるTシャツにショートパンツ姿であった。Tシャツからは紫色の下着が若干透けており、それがルーズな恰好に仕立て上げていた。しかし、それとは逆にキラキラと両耳に輝く真珠のイヤリング、首元の花レックス、指先の真っ赤なマニキュアが妖艶な色気を放っていた。なんともアンバランスな組み合わせであった。「さすがに大都会東京。色々な女の子がいるもんだな……」と思いながら、そのまま駅の近くにある小綺麗な喫茶店に入ることにした。
「今日こそはいける!」
自分は確信していた。
軽く挨拶を交わしてから、お互い自己紹介をする運びとなった。
「サトウセイラさんはまだお若いですよね?なぜマッチングアプリを使っているのですか?男狙いですか?」
彼女の少し気怠そうな恰好からしても、グイグイいけそうな感じがしたので、「攻め」の姿勢で質問をした。
「私が小さい頃に両親が離婚して、父親のことをあまり覚えていないんです。だから、年上の男性……特に一回りも二回りも年上の男性に憧れるんです」
「へえー。そうなんですねー」
と、相槌をしながら、早くこの女性を自分のものにしたいという気持ちしか頭になかった。
喫茶店で小一時間ほど会話した後、念願の愛を語り合うホテルへ直行することとなった。彼女もかなり乗り気で男に飢えているような雰囲気を醸し出していた。性欲に関しても、自分よりも遥かに凌駕するのではないかと思えるぐらいであった。
JR新宿駅西口徒歩五分ほどにある、向かった先のホテルは昔懐かしく、ロマンが溢れ、クラシカルでなおかつ昭和レトロな雰囲気を漂わせていた。僕たちがホテルの受付で手続きをしていたところ、ロビーでは男性二人が手をつなぎ合ってイチャイチャしていた。LGBTを中心とした性の多様性が広がり始めて久しいが、まさかこの場所で見届けることになろうとは思ってもいなかった。
そのまま「愛の巣」という名の部屋へ辿り着いた。中へ入ると、星空天井に回転ベッドとお洒落な内観デザインとなっていた。一呼吸置く間もなく、彼女が物欲しそうな目で見つめてきたので、早速お互いディープなキスを交わし、抱き合いながら、ガラス張りのバスルームの壁に彼女をそおっと押し付けた。そのうち、僕は彼女の豊満な胸を揉みながら、「綺麗だね」と耳元で連呼した。彼女は決して嫌がる風ではなく、積極的に喘ぎ声を上げた。「サトウセイラ」は自分が身に付けていた洋服を脱ぎ出した。
「岸本さん、私の下着を順番に脱がしていってください。お願い……」
と、誘惑してきた。
僕は彼女の眩しい紫色のランジェリーを一枚ずつエロティックなムードを出しながら、脱がせていった。その過程で僕は様々な想像力が掻き立てられ、頭がぶっ飛んでしまうほどの性的興奮を覚えた。
下着を全て脱がした後、彼女は本来の動物の姿へと変貌を遂げていた。彼女は「来て」と自分の手を差し出し、回転ベッドの方まで僕を誘った。本能的にというべきか快楽的にというべきか、彼女は僕のズボンとパンツをゆっくり脱がしていった。脱がし方は大変手慣れたものだった。そのまま僕の一物を右手で握り、口一杯に頬張った。舌使いがなんともエロティックだった。その様子を見る限りでは、今までに数多くの男たちを悦ばせてきたのではないかと思わせるほど上手なものであった。そして、いつの間にか彼女はラブホテルに備え付けてあったコンドームを僕の肉棒に装着していた。おそらく自身の避妊のためかと思われる。
彼女が本気になるものだから、僕の方も「好きだよ、好きだよ」と耳元で連呼しながら、若くて耽美な女体を貪りつくした。彼女を激しく抱く度に、愛くるしい声が部屋中に鳴り響いた。僕はその度に快感を覚え、ある種の「やる気」を出させられることとなった。
性行為における全ての工程が終了した後、それぞれの力を十分に出し切ったため、男女は完全に疲れ果てていた。しばらく時間が過ぎると、乱れたベッドの上で二人の会話が始まった。
「セイラ、今日はほんとによかったよ……」
僕は彼女の髪を撫でながら、自然と下の名前で呼んでいた。
「私もよかった……もし岸本さんさえよろしければ、また会ってくれませんか?体だけの付き合いでも構わないので、会ってくれませんか?」
「いいですよ……。でも、そもそもマッチングアプリというものは婚活のために使用し、結婚へとつながる男性を探すものではないかと思うのですが……」
彼女の予想だにしなかった言葉で最初使っていた敬語のままで返答してしまった。
マッチングアプリを使い出した頃は、自分にとって女性とは体だけの付き合いでも全然構わない。むしろ、若くて可愛らしい女性と肉体関係でつながれる可能性も秘めているのだから、それ以上望むものはないと思っていた。しかし、彼女からあっさり体だけの関係でもいいと言われてしまうものだから、僕は逆に拍子抜けしてしまった。
マッチングアプリを使い出して慣れてきた頃には、「女性」という生き物に対して真剣に考えるようになった。少し使い方を改めるようにしていった。それと同時に自分が知らないところで、適齢期を過ぎた本気感のある婚活女性やセフレを求める女性がたくさんいることも知ることができた。
しばらくマッチングアプリを使用するのは控えていた。しかし、一ケ月ほど過ぎた頃、「サトウセイラ」の方から電話があった。
「岸本さん……また会ってくれませんか?」
「はい!」
僕は二つ返事で承諾した。この女性と会えば、最後までゴールインできる、男女において快感を覚える最高潮の運動をすることができると勝手に思い込んでいた。
JR池袋駅東口から徒歩三分ほど歩いた先にあるファミリーレストランで待ち合わせをした後、そのままホテルへ直行することとなった。本日の彼女の服装は花柄のスカートを履き、青いワンピースを着ていた。それが何とも僕の中ではエロティシズムを感じずにはいられなかった。やはり、自分が想像していたとおりに物事が運んでいった。
JR池袋駅西口の路地裏にあるホテルは西洋式のお城みたいな建物であった。
「今夜は彼女を僕だけのお姫様にしてやろう」
と、内心そう思っていた。
ホテルの部屋に入るなり、突然彼女は僕のズボンとパンツを脱がし、尺八を始め出した。彼女からの積極的なアプローチだった。どうやら尺八はとっておきの必殺技らしい。僕は「もうどうにでもなれ」というような心持ちで彼女にされるがままになっていた。
僕の方もずっと攻められているわけにもいかず、五本の指全てで彼女のデリケートゾーンをショーツの上から優しくフェザータッチをすることで感謝の気持ちを伝えた。おそらく倍返しのお礼になっていたに違いない。
前戯の際中に今度は彼女自らが下着を脱ぎ出した。赤いブラジャーから人間社会に「こんにちは」とでも言っているように姿を現した、たわわな胸の中心にまるで光り輝くともとれるピンク色の乳首を自分の舌先でゆっくりゆっくり舐め回した。彼女のアヘ顔を見る度に、僕は性に貪欲過ぎて、一種の狡猾さのようなものを感じてしまった。そして、次第には桃色の突起物に圧力をかけていき、甘噛みをした。それに応じて、彼女は最高潮に達した模様で、
「もう溶けちゃいそう……」
と、彼女から声が漏れた。
その「もう溶けちゃいそう」という言葉がなぜだか僕にとっては、この上ない快感の源となり、それがきっかけとなったのか、自分は人間ではなく、さらに言えば、もはや繁殖戦略を持つ哺乳類でもない、単なる性行動を快楽的に求める究極のアニマルだと思えるような心持ちだった。
古生代デボン紀になると、脊椎動物では、魚類から両生類に進化した。それまでの海の生活から、新しい生活の拠点を移そうと確かな重力を感じながら陸上へその一歩を踏み出したのである。ひれから変化した手足を持つ両性類のイクチオステガは、時には水辺をはうこともできたと考えられている。僕はこのイクチオステガにでもなったかのように、いわば「セイラ」という名の水辺をはうように彼女の体全体を完全に覆い被さっていった。その間、「セイラ」はモデル人形のように動くことはなかった。
その後は自分でも何をしていたのか覚えていないぐらい激しく体を前後に動かしていた。まるで公園にでも行ってシーソーで遊んでいるような感覚であった。
前回結ばれた時と同様に性行為における全ての工程が終了した後、それぞれの力を十二分に発揮し合ったため、男女二人は完全に息が上がっていた。けれども、お互い満足しており、恍惚感に浸っていた。
しばらくすると、今度は彼女の方から声をかけてきた。
「今日の岸本さん、ほんとによかった、気持ちよかった……」
「ありがとう。僕もよかった」
ぼそっと返答した。
一瞬無言状態が続いたが、すぐさま彼女が話を切り出した。
「岸本さんって若い女性が好きなんですか?」
急に核心をついていることを言われて、ぎくっとした。
「そんなことないよ」
そのようにとってつけた返答しかできなかった。
「私もいつかは年をとって、いずれはおばさんになります……そうなっても私を愛してくれますか?」
急に彼女から本気とも思えるような質問をされた。
「もちろん……セイラは可愛いしさ……どんな男性も放っておかない魅力があるよ……」
答えに迷った挙句に出た返答であった。
「そうかな……」
彼女は半ば納得してなさそうにも見えたが、そう呟いた。
「以前、私は年上の男性に憧れるとお伝えしましたが、これは本当の気持ちなんです。イケオジが大好きなんです……」
「イケオジ……」
「すいません、岸本さんがいわゆるオジサンってわけじゃないんです……傷つきましたか?すいません……でも、本当に私は年上の男性が好きなんです」
「…………」
「今度は、岸本さんと激しいプレーがしてみたいです。例えばSMクラブみたいな……」
その言葉を聞いた途端、僕はある種の恐怖心を覚えることとなった。この女性はいわゆる「やべえ」部類の女性ではないかと思えて仕方がなかった。
「んー、そういう趣味は僕にはないかな……」
と、軽く流すような感じで返答した。
「岸本さんってそういうの好きそうに見えますけど……。間違ってます?」
「……。セイラにとって、僕はどんな風に映っている?ロリコン好きのおじさん?それか激しいSMプレー好きの変態やろうとか?」
と、聞き返した。
「変態だなんて思ってませんよ」
少し笑みを浮かべながら、彼女は答えた。その瞬間にも彼女の声のトーンからは、一種のエロティシズムが感じられ、この調子で何人もの男たちを誘惑してきたのだろうなと垣間見ることができた。身バレのリスクを最小限に留められるだけでなく、自分の身を守ることにもつながるので、マッチングアプリ上では偽名を使うことが一般的である。もしかして、マッチングアプリを最大限に利用して、僕以外の男性とも会い、こんな風に性生活を楽しんでいるのではないかとも思えてきた。
その後、「機会があればまた会おう」と約束し、「サトウセイラ」とは夜のネオン街で別れた。そのまま一人でJR板橋駅の小ぢんまりとしたラーメン屋に入り、炒飯定食を注文した。ラーメンを食べながら、考えることはただ一つだった。「このまま「サトウセイラ」との関係を続けるべきか否かを。別に悪い子でもない……。むしろ、話しやすいし、若くてスタイルもいい。捨てるにはもったいない女性でもある。ただ、思考が若干ぶっ飛んでいるな……。特に性に関する考え方が行き過ぎており、極端に性欲が強い……」そんな風に考え始めるようになった。結果的には、「もう少し様子を見よう」という決断に至り、しばらく自分から連絡するのはやめて放置していた。
一ケ月ほど過ぎた頃、また「サトウセイラ」の方から電話があった。今回の彼女からのアプローチで気づいたことは、彼女の誘いには周期性があるとわかってきた。なぜいつも「一ケ月後」なのだろう……。この周期性に疑問を持ち始めた。
僕は彼女が他の男性と会っていないかどうか気になり出した。折角こうしてマッチングアプリを使用して会っているわけであるし、逆に彼女を自分だけのものにしたいという気持ちが強くなっていった。マッチングアプリというものが「ヤリモク」や「ワンナイトラブ」を目当てに使われていたり、同時並行に複数人と付き合えるシステム自体も十分理解している。ただ、「サトウセイラ」の「もう溶けちゃいそう」という言葉が僕の頭の中で反芻し、それがいつのまにか「彼女を自分一人で独占したい」という強い気持ちへと変わっていった。自分も彼女と出会い、会話を楽しんでいるうちに性に関する変な思考が侵食されているようなそんな感覚に陥った。
今回で彼女と会うのは三回目である。初対面で体の関係へと持っていけたので、「もちろん今回もいける」と想像はしていた。
二回目の時と同じ池袋駅から徒歩三分ほど歩いたところにあるファミリーレストランで待ち合わせをした。今回に関しては、いきなりホテルに直行するのではなく、ファミレスで彼女のことをもっと深く知ろうと試みた。体の関係は持ったが、彼女の素性はまだ知らないことだらけであった。
「あまりセイラ自身に関して聞けてないことが多いんだよね?どこに住んでいるの?職業は?」
「今日の岸本さん怖い……。なんかまるで警察から尋問を受けてるみたいになってます……」
「ごめん、ごめん。そうだね……。ついつい……。僕はセイラのことをもっと知りたいんだ……。もしよかったら、もう少しセイラのこと教えてくれないかな?」
「…………」
「たしかに個人情報だしね……無理は言わないよ」
すると、一呼吸置いてから彼女は重たい口を開いた。
「実は私……ほぼ無名に近い女優だったんです……。それもセクシー関係の……」
「…………」
しばらく沈黙状態が続いたが、気を取り直して僕は話を続けた。
「なるほど!そういうことか!全てがつながった。どうりで夜の営みも上手なわけだ!男が悦びそうなポイントをしっかりと押さえてたしね!もしかしてSOD専属の?」
思わず声を上げてしまった。
「恥ずかしいです……。それは秘密にしておおきます……。元セクシー女優と聞いて、私のこと嫌いになりましたか?」
「いやいや、そんなことないよ。まあーちょっと驚いたけどね」
「セクシー女優って聞けば無類の男と遊びまくっているっていうイメージが強いので……。私はただ仕事でやっていただけなので……」
「今はもうしてないんだよね?」
「ちょっと色々あって……。事務所から出禁くらってしまって……。実質的には解雇されたようなものです。それでも、過去にそういうことをしていたと聞けば、嫌がる男性も多いのかなと思っちゃったりして……」
「どちらかと言えば僕は職業とかで女性を判断したり、偏見な目で見るタイプではないので……。でもどうして一ヶ月おきに連絡してきたの?」
「実は月に一度、寝たきりの母親のところへ帰省していたんです。お金もないし様子を見に行っていたんです。実家は京都府宇治市にあります。もう少し具体的に言えば……えーと、あ、そうそう、少し歩けば、有名な平等院鳳凰堂があります」
内心ではこの話が少し出来過ぎたものではないかとも思ったが、もしこれが本当なのであれば、この「サトウセイラ」という女性が非常に愛おしく感じられた。
「そうだったんだね。大変だったんだね。なんか人を疑うような聞き方をしてごめんね。えーと……サトウセイラってのは芸名なの?それとも偽名?」
「いえ、改名したんです。でも、大丈夫です、心配しないでください」
「実は……岸本さんには他にも前もって言っておかなければならないことがあるんです」
「え?何?」
「なかなか恥ずかしくて言えないのですが……」
「え?何々?教えて?」
「実は私……アンです……覚えていますか?」
「……。え?え?え?」
「ほら、渡鹿野島でお世話になった……」
「……。どういうこと?意味がわからない」
「どう説明すればいいんでしょうか?突然のことで驚きもしますよね……」
「……。そうだったんだね。今まで色々と大変なことがあったんだろうね」
「…………」
「んじゃ、これからは昔のようにアンって呼んでいいよね?……それに……。昔、民宿の殺人事件ってまだ未解決だったよね?その犯人は……」
「……。私が主人を刺しました。それは事実です」
「じゃあ、ちゃんと警察に説明しないと。なぜ逃げるの?」
「主人を刺した瞬間は、頭が真っ白になってしまって、当時の自分の身寄りからしても、仮にきちんと説明したところで疑われる……だから逃げようと判断しました。どちらにしても、あのときのことはもう思い出したくないんです!だから、あの日から生まれ変わろうと心に決めたんです!それで顔もこのように整形しました」
「……。そうだったんだね……色々と大変だったんだね。これからも定期的に会わない?アンのこと、心配だからさ……」
「はい……。岸本さんこそ、私のこと嫌いになってませんか?」
「全然平気だよ。僕は民宿に住んでいた頃は世の中を斜めに見ていて、ほぼ世捨て人状態になっていたんだ。そこで、アンが現れたことで気持ちが次第に豊かになった。アンとの出会いが心の拠り所となり、もう一度人生をやり直せるかもって思えるようになったんだ。それに、今日はアンのこと、少し聞けて本当によかった。なんか一歩前進したって感じがする。ありがとう」
「……。岸本さん、それで今日はホテルに行かないんですか?昔からセックスは大好きなんです」
「お、おう。いいよ。行こう!」
本当にこの女性は肉食系女子の塊なんだなと思いながらも、快諾した。
ホテルの部屋に入るなり、いきなりアンが抱き着いてきたが、そっと押し返し、まずは久々にアンにヌードモデルになってもらうことにした。アンのデッサンはほぼ十年ぶりだった。顎先は細くなり、目が二重まぶたになっていたので、顔の輪郭を描きながら、アンの顔はまるで別人になったものだと感じていた。しかし、顔を整形しても、よくよく見てみると昔の面影はやはり残っていた。昔の顔を知る者からすれば、より大人で魅力的な女性へ変貌を遂げていた。そもそも自分としてもこの若い女性のエキスを味わうのは喜ばしいことであるし、体の関係を持つことに関しても、お互いベクトルが同じだったため、否定する理由などどこにも存在しえなかった。
デッサンが終わった後はお決まりのパターンだった。
彼女の濃厚な唾液でねっとり濡らしてくれた僕の肉棒に目掛けて、彼女は自身のデリケートゾーンに存在する、花びら状で湿り気のある唇をセクシーに挿入しようとしてきた。その仕草は昔と全く変わっていなかった。
「え⁉いいの?」
「今日はかなり発情してる……」
僕の方も昔と同じようにその積極性に必死で応えてあげようとして、彼女のたわわな胸の中心にあるピンク色の乳首を指先でゆっくりゆっくりもてあそびながら、自分の腰を前後に動かし始めた。それに負けじと彼女の方も僕の動かし方とは若干遅れて、まるで裏拍を取るようなリズムで嫌らしく動かした。どうやら、彼女は自分のご自慢の乳首が性感帯のようだった。最初は指先だけであったが、そのうちに僕のオーガズムが促進し、アドレナリンの分泌が高まったところで、舌先で「チュパチュパ」と綿密に彼女の乳頭にしゃぶりついた。
彼女もずっと攻められているのは嫌なようで、
「おちんちん、だーいすき!」
と、子供みたいなことを言って、なかなか僕の肉棒に纏わりついてきた。その仕草に関しても、昔と全く変わっていなかった。女優時代に、このような言葉を頻繁に使っていたのだろか。だとすれば、世の男性たちが悦ぶのも無理はない。
今夜は、「サトウセイラ」の正体がアンであるとわかった嬉しさもあり、一段と彼女を淫らに抱くことができたと実感した。
全ての工程が終了した後も、しばらく二人の男女はベッドの上でだらだらと数字の六十九に近い形となって体を重ねていた。僕は一歩踏み出して彼女にこれまでの経緯や結婚の是非について聞いてみたくなった。
「アン?関西弁はやめたの?」
「東京に来てからは、自然と標準語を使うようになりました」
「なるほどね。そういや、どうしてアンはマッチングアプリを始めたの?結婚したくなったの?」
「……。それよりも……今度、岸本さんと激しいプレーがしてみたいです」
「またそれですか……。話を逸らさないで。こちらも質問しているんだから、まずは僕の質問に答えてほしいな」
「……。岸本さん、ちょっとしつこいです!ちょっと人を馬鹿にしたような発言になってますよ!私だって簡単には答えられないこともあるんですから!」
彼女はちょっと怒ったような調子で、今までに見せたとのないような感じだった。
「ごめん……。ちょっと言い過ぎたね……」
「……。実は私には結婚まで決まりかけていた人がいたんです……。でも、土壇場になってフラれてしまったんです」
「……。もしよかったら理由を聞いてもいい?」
「それは……。えーと、単刀直入に言えば、私の性癖にあるんです」
「もしかして、SMプレーが原因だったりとかではないよね?」
僕はまさかそんなことが原因ではないだろうと思い、笑いを隠しながら聞いてみたが、案外間違えでもなさそうだった。
「…………」
「え!ほんとにそれが原因なの?」
「ほら!また人を馬鹿にしたような発言して!」
「ごめん、ごめん。何があったか、これ以上詳しくは聞かないけど、色々と大変だったんだね?」
「…………」
その後、彼女は一度も目を合わせようとはせず、何も話してくれなかった。一気に冷えきった空気が流れてしまったので、今日はそのまま別れる方が良いと判断した。
あの日以来、一ケ月が過ぎたが、アンから連絡は来なかった。しばらく、彼女からの連絡が途絶えてしまった。
「どうしたのだろう?前、本人が言いたくないようなところまで色々と質問したせいからかな……」
僕の方から何度も彼女に電話してみたが、つながらないみたいで、思うに着信拒否されているようだった。しつこいぐらいに一日に十回は彼女に電話してみたのだが、電話には出てくれなかった。
月曜日が祝日で三連休となったため、それを利用して、約十年ぶりに三重県渡鹿野島に行くことにした。もちろん、事件以来あの民宿に訪れることはなかったのだが、急に心が駆り立てられた。もしかしてアンがそこにいるかもしれないというわずかな可能性を抱きながら……。
伊勢志摩国立公園内に浮かぶ三重県志摩市の渡鹿野島は漁業と観光業が主な産業で、周囲約七キロ、約百八十人余りが暮らす小さな島はかつて「売春島」と呼ばれた。江戸時代には船が立ち寄る「風待ちの島」として船乗り相手の遊郭が栄えた。昭和の終わりから平成の初めにかけては週刊誌などで「売春島」として取り上げられ、今もSNSでの書き込みも多い。実際、女性を紹介したとされる飲食店宿泊施設、女性たちが暮らしたとされるマンションやアパートなどの建物が廃墟のように島内に残っている。「売春島」と呼ばれた頃のイメージが根強く残っており、長年、風評に苦しめられてきた島ではあるが、最近は、島のイメージを変えるため、渡鹿野島がハートの形に見えることから、地元住民は「ハートアイランド」と名付け、対岸から渡し船で約五分と伊勢志摩観光の島にと力を入れている。今は男性よりも女性の宿泊が多く、近くにテーマパーク「志摩スペイン村」があることから家族連れも増えている。今や渡鹿野島は的矢湾に浮かぶ小島で、小さな砂浜のパールビーチや太平洋を臨む渡鹿野園地などリゾートが楽しめる島となっているのだ。ただ、観光の島として認知されるにはまだまだ時間がかかりそうだ。地元としては島内に放置されている廃虚となった建物の撤去など、負のイメージから脱却するための模索は続いている。
金曜日、午前の仕事が終わると名古屋駅行きの山陽新幹線に乗り込んだ。のぞみ号なら東京駅から名古屋駅まで約二時間で到着する。そこから近鉄特急で近鉄鵜方駅まで行き、三重交通バスを利用して、渡鹿野渡船場で下車する。そこから渡船に乗ること三分くらいで渡鹿野島に到着する。その交通手段で約半日を費やした。
島に到着すると、十年も経てば、景色は少し変わっていた。噂には聞いていたが、昔の風俗島という負のイメージから脱却しようともがいている地元住民の様子が伺えた。真っ先に、昔住み込みで働いていた民宿へ向かった。少し乾いた風を感じながら、民宿までほぼ一本道の坂を歩いていると不意に声をかけられた。
「もしかして……岸本さんか?」
「え?」
「やっぱり、そうやないか。随分と久しぶりやなあ、どうしてたんやあ」
「政さん?……あー。ほんとうにお久しぶりです!元気でしたか?まだ島にいたんですね!」
当時自分が働いていた民宿の使用人だった政さんだった。当時に比べれば、腰も曲がり、身長も縮んでいるかのように見えた。
「わしは、あんたみたいに他に取り柄がないもんやから、ずっとこの島にいてこの仕事を続けていたんやわ」
「そうだったんですか……。でも島の雰囲気もだいぶと変わりましたね」
「せやなあ。ほら、この島は昔から売春島って言われてたからなあ。でも此処の所、昔みたいに風待ちの船乗りというのは滅多に見られないなあ。それに、あの事件以来、アンちゃんの姿も……なあ。あれ?でも……。ん?五年くらい前かな……あんたを訪ねてきた女性がいたな……」
「え?誰ですか?僕が知っている人ですか?アンですか?」
「いやいや、顔は全然違うかったなあ。アンちゃんではなかったなあ」
「身なりはどんな感じでしたか?」
「小奇麗にはしてはったよ。なんやら東京で女優業?……をしてるって言うてはったな」
一瞬、アンのことではないかなとぴんと来た。アンはすでに整形しているし……。でも、まさかなと思い直した。
「民宿の中、見ていくか?懐かしいやろ?」
「はい、お願いします」
一部内装工事で改築はされていたが、見た目はそんなに変わっていなかった。昔のままだった。本棟と別棟をつなぐ長い外廊下も残っていた。今の主人は、個人経営ではなく、オーナー経営に変わっていた。民宿の所有者や経営者の共同出資により、民宿運営会社を設立することで、民宿運営を委託する方式である。つまり、政さんは使用人ではなく、今は従業員ということになる。
「岸本さん、どうや?明日の天王祭、行かへんか?」
天王祭とは、毎年七月下旬の土日に行われる渡鹿野最大の祭りで、悪いものや災厄を島から追い払うために、神輿を担ぎ練り歩く歴史ある行事である。本通りで行われる練り合いは、神輿を鎮座させる人と、それを止める人の衝突となり、渡鹿野島全体が熱く盛り上がる。
昔を思い出しながら、黙り込んでいると、
「祭りの掛け声や雰囲気、背景で打ち上げられる花火は迫力満点やで!」
と、政さんがさらに付け加えた。
「そうですね、行く予定で考えておきます」
と、差し障りのない返事をしておいた。
その日の夜、天王祭に行ってみた。たしかに祭りは活気に満ち溢れていた。男たちがみこしを担いで島中を練り歩き、海上から打ち上げられる花火や踊りなど盛大に繰り広げられていた。島の老若男女を問わず全員が一体となって思いっきり祭りを楽しんでいた。
「岸本さんかあ?」
一人の女性に声をかけられた。
「…………」
少し間が空いたが、昔を思い出しながらよく見てみると、渡鹿野旅館組合の繁子さんだった。十年も経てば、髪は黒ではなく、真っ白になっていた。僕が住み込みで働き出した頃、繁子さんから旅館業とは何たるかをみっちり仕込んでもらった。
「区長さんが会いたがってたで。いや、今はもう元区長さんか」
「懐かしいなあ。今どうしてるんですか?」
「もう隠居生活しとるわ。今は島の地域おこし協力スタッフとしてボランティアの仕事をしているはずやわ。事務所すぐそこやし、案内するで」
「ありがとうございます」
事務所に着くと、元区長は温かく出迎えてくれた。
「岸本さんか!久しぶりやな!どうしてたんや?急に島からいなくなってしもうたし、みんな心配してたんやで」
元区長は近藤孝雄さんと言って、当時自分が相当ひもじい生活をしていたことが目に余り、いつも心配してくれていた。かなりのお金を貸してくれたこともあった。
「すいません……その節は大変お世話になりました」
「まあ、無理もないわ。あんな事件あったしなあ。もう十年前ぐらい経つかなあ。あれっきりアンちゃんも姿現さへんし、全くどうしてんねやろ?全く迷宮入りやわ」
「……。犯人って結局のところ……アンだった……」
「どうなんやろか。ただ、警察はそう判断してるやろな。あの事件以来、おまえさん、かなり落ち込んでしまって、島から出て行ってしまったのはそれが原因ちゃうかってみんな噂しとったんやわ」
「ご心配をおかけしてすいませんでした」
「いやいや。あー、せや、おまえさんに伝えなあかんこと思い出したわ。そーいや、五年程前になるかな、おまえさんを訪ねてやってきた女性がおったで。岸本さんの知り合いやなんか言うてたわ」
先日、政さんも同じようなことを言ってたなあと思った。
「え?誰ですか?もしかしてアン?」
「いんや、顔は全然違うかったなあ」
「身なりはどんな感じでしたか?」
「あんま覚えてないけど、小奇麗にはしてはったで。何やら東京で女優業をしてる言うてたわ」
「それで何と?」
「おまえさん、とっくに島から出て行ってしもうてたし、もう島にはおらへんと伝えたわ」
おそらくアンではないかなと思った。というよりアンであってほしいと願った。
「…………。ありがとうございます。大変参考になりました」
「いやいや。今日も泊まっていくんやろ?」
「はい。昔働いていた民宿に泊まるつもりです」
「そうか、そうか。また何かあったら言うてくれ。いつでも待ってるで」
「ありがとうございます」
公言通り、今夜は自分の古巣である民宿に泊まることにした。記憶を辿りながら自分が住んでいた別棟二階にある部屋へ進んでいった。宿泊客も自分を含めて二、三人とのことで、少し寂しさを漂わせていた。おそらく天王祭が終わってしまったためであろう。民宿の中とはいえ、夜の景色は昼間と違って少し違うように感じられた。本棟と別棟をつなぐ長い外廊下は、薄気味悪く仄暗い影に囲まれていた。昔の情景を脳裏に浮かべながら、その廊下を少し歩いてみた。アンが不気味な笑みを浮かべて、暗闇を走り去っていく姿を思い出した。じっと廊下を眺めていると、一瞬小さな人影が見えたように感じた。
「ん?何だろう?誰かいますか?」
声をかけたが、音沙汰なしだった。
部屋に入るなり、床についた。昔の、民宿生活の記憶が蘇ってきた。
「やはりアンが……。明日、東京に帰ろう」
あれこれ思いを巡らせている間に、眠り込んでしまった。
何時間過ぎただろう……突然夜中に目が覚めた。何やら胸騒ぎがしたからだ。すると、何やら物音がしたと思い、そちらへ目を向けると、少女が小さな包丁を右手に持ち、「スタスタスタ」と寝室に入ってきた。僕の枕元まで来て、そのまま何もすることなく、僕の顔をまじまじと眺めているだけだった。一瞬何をしているのだろうと思ったが、急に昔の記憶が走馬灯のように蘇ってきた。これは正直まずい状況なのである。しかし、金縛りになっていて、体が自由にならなかった。仕方なくありったけの声を上げて、悪態をついた。
「あっち行け!お前なんか嫌いだ!向こうへ行け!気持ち悪い!」
そう言いながら、自分はなんて大人げないんだろうとも感じてしまった。
しかし、少女は向こうに行くことなく、ぬーっと余計に顔を近づけてきたのだ。影があり、よく見えなかったが、よく見ると、整形前のアンの顔だった……。
「そんなことって……」
恐怖のあまりそのまま意識を失ってしまった……。
外界が明るくなるに伴い寝室内が明るくなるような漸増光による目が覚めた。
「幻か……あれは一体何だったんだろう……」
早朝、みんなに別れを告げ、島を去ることにした。わざわざ政さんがお見送りしてくれた。
「岸本さん、また何かの折に立ち寄ってくれ。いつでも歓迎や。それに言いにくいんやど、わしにはアンは何か理由があってのことちゃうんかと今でも思ってるんや。岸本さん、どうかアンちゃんの力になったってほしい。頼れるのはあんただけやと思う」
別れ際にそう言われた。僕自身も政さんと同じ気持ちではあった。
帰りの船で、宗谷たけしさんと一緒になった。この人は、今は渡鹿野旅館組合に所属しているが、昔は、僕と同じ民宿で働いていた、ずっと年配の男性である。先日の天王祭でも少しお話する機会があり、色々と昔のことを教えてくれたのだった。当時の主人のこともよく知っている数少ない人物でもある。
「岸本さん、奇遇やね。もう東京へ帰りはるんか?」
僕が宗谷さんに気付いていなかったこともあり、向こうから声をかけてきた。
「宗谷さんも乗っていらっしゃったのですね」
「繁子さんから話は聞いたで。何やらアンちゃんを探しているとかどうとかこうとか……」
僕はアンを探しに渡鹿野島に来たとは一言も言ってないのに、どうやら島の関係者にはそのように伝わっていて、何もかもお見通しのようだった。さすがに島の情報網はすごいなと感心させられるのと同時に少し恐怖心を覚えた。
「いやいや……まあー昔が懐かしくなって来たってのが大きな理由ですよ」
「そうかい。それで岸本さん、何か情報は得られたんか?」
「いえ……」
「そうかい。そういや、昔の事件、覚えているか?」
「ええ。はっきりと。今でも夢にうなされるぐらいです」
「そうかい。俺はなあ、アンちゃんって子がどうも怖いんや」
「と言いますと?」
「んー。実はな、俺は見てしまったんや」
「何をですか?」
「昔の嫌味な主人覚えとるやろ?あいつの部屋にアンちゃんが入っていくところをや。夜が更ける頃やしな、怪しいなあ思ったんや」
「それで?」
「それでな、どうなったんか気になったんや。ほら、あいつの部屋、一階にあるから、建物の外側からカーテン越しに中を覗けるやろ?んで、恐る恐る覗いてみたんや、そしたらなんのって、びっくりしてしもうたわ」
「何があったんですか?」
「……岸本さん、アンちゃんのことお気に入りの様子やったし、言いにくいんやどな……」
「全然構いません、教えてください」
「端的に言うとな……裸で愛し合う男女の姿があったってことや。いやいや、お互い愛し合ってはいないんやろうけんど。丁度その日は主人の奥さんも一日留守やったし、それを狙った行動ではないかなと思う。なんか見てはいけないものを見てしまった感じやったわ。まあーでも少し面白味もあり、しばらく様子を見ていたんやけんど、どうもなアンちゃんの方が性に対して貪欲な様子に見えたわ。ほんまにようわからんで、あの子は」
「そうだったんですか」
「ショック受けたやろ?すまんな。でもな、それにもっと驚くことがあったや」
「まだあるんですか?」
「ああ。二人の情事はまだ続きそうだったんで、その後、俺は九階から外廊下までの非常階段を深夜業務の一環で見回りをすることにしたんや。たぶん、その夜の営みを拝見してから一時間ぐらいは経過していたと思うわ。そしたらな、物凄い剣幕で一人の女性が手に何かを持って外廊下から階段を駆け上がって来たんや。すれ違いざまに顔を確認してみたんやけんど、あれはおそらくアンちゃんやったと思う……。俺があまりにも見るもんだから、一瞬立ち止まり、ニヤリと不気味な笑みを浮かべたんや。こちちを見たと思ったら、すぐそのまま階段を駆け上がってしまったんや。でもな、あんな顔したアンちゃんは初めて見たな……。一瞬の出来事やったけんど、なんて言えばいいんやろうかな、二重人格のように感じてしまったわ」
「そうですか……。本当は良い子なはずなんですが……」
「俺な、それも気になって、今丁度降りてきた階段を逆走するような形で、アンちゃんの後を追いかけていったんやけんど、これが足が速いったらなんのって、追いつくのに精一杯や。やっとこさ、屋上で追いついたと思ったらな、その女性、まさに屋上から飛び降りようとしとったんや。だから俺、危なーい!って叫んだんやけんど、そのまま手を広げて飛び降りてしまったんや。あーやってしもた!思って、飛び降りたところまで行って下を見下ろしてみたんやけんど、すでに姿がなかったんや。まあー暗かったせいもあるんやけんどな……すまん、確実なことは言えへん。でもあれ、なんて言うんや……スーパーなんちゃら……」
「スーパーマンですか?じゃないなあ……この場合、スーパーウーマンか……そのまま飛んで行ってしまったということですか?」
「んー。どうやろ。もう姿がどこにもなかったからな……。あんな高い所から飛び降りたら普通死ぬで……。でも黙っていてすまん。もう、何年も前の話やけど、警察にこれを言うと、信じてもらうどころか、あらぬ疑いをかけられると思い、ずっと胸にしまっていたんや。ほんまにすまん」
「いえ、今の情報だけでも、大変助かります。アンの違う一面を知ることができました」
どうやら宗谷さんの言うことは嘘ではなさそうだった。
東京の自宅へ着いたのは月曜日の夕方だった。早速、アンが昔所属していたSOD事務所を訪れてみた。対応してくれたのはアダルトビデオ企画の芸能マネージャーだった。応接室に通されたのだが、しばらく待たされることになった。五分程だろうか、「コンコン」とノック音がした。部屋に入ってくるなり、威圧感を覚えた。極太フレームのサングラスをかけた大柄の男性だった。おそらく三十そこそこの年齢に感じられた。首には蛇のタトゥーが綺麗に入っていた。
「それで、今日はどういうご用件で?」
向こうから話を切り出してきた。
「あのー、昔、アン……じゃなかった、サトウセイラ名義の女優さんって所属していましたか?」
恐る恐る聞いてみた。
「申し訳ないけど、どういうご関係で?」
「行方不明なんです、警察にも許可を得て動いています」
都合のいい嘘をついてしまった。
「そうなのー。んじゃ、仕方ないねえー。今は、個人情報うるさいからねー。あれこれ探られると困るんだよねー」
「すいません……」
「ちょっと待ってよ。今資料持ってくるから」
見かけによらず、弱腰の男性だった。
「…………」
しばらく待っていると、隣の部屋からは声が漏れていた。耳を欹てると、どうやら男性と女性の声のように感じられた。
「あー、おっぱい、もっと寄せて!もっと、もっと!その方が興奮するから!あー、もっと、ヨガって!ヨガって!」
「あーん、ダメー奥まできてるー。すっごーい。あぁダメッ……イっちゃう!気持ちぃとこあたるー。奥、ダメッ。あぁ奥っ……あぁおっきい!あぁおっきい、ああっ……おっきいー」
「はあ、はあ。奥にもっと、あー、奥にもっと、ガンガン突いてあげるね」
「あぁすっごい!全部入ってるー」
「あー。ダメ……先イっちゃう」
「あーん、壊れちゃうー」
「あー、イクよ、イクよ、ほんとうにイクよ」
おそらく、隣の部屋はアダルトビデオの撮影スタジオのようなものだろうと思った。いつも画面の向こう側からでしか、拝見できない様子が、こういった生々しい声を聞くことで、より撮影のリアリティや現場に挑む本気さを実感させられた。それと同時に声を上げげているこの男女は演技なのかそれとも本気なのかどっちなんだろうと素朴な疑問を持ってしまった。快楽のため、いや、ゆくゆくは子孫を残すため、僕たちだってセックスをするし、感じるときは声を上げる。一体プロと素人の境目はどこにあるんだろうと深く考え込んでしまった。
十分程すると、芸能マネージャーが戻ってきた。
「んー、えーと、あ、いたいた。いましたいました。でも、二年前に退社してるね」
「どんな感じの人でしたか?」
「そうだねー。撮影の時は元気なんだけど……。でも、どういったら言いのかなあ、なんかこうふわっとしていてね、何を考えているかよくわからないといった時があるんだよなあ。たまに遠くを見つめるようにぼーっとしていていね。その時はまるで別人だなあと思っちゃったりするよ」
「住所とかは教えてもらえないんですか?」
「さすがにそれは難しいねえー。悪いがそこから先は他を当たってくれますかねえー」
「いえいえ。ありがとうございました」
「あまり、こういう調査は困るんだよねえー。警察にも睨まれるし。今回だけだよ」
SOD事務所を訪れたが、彼女が言ってたように所属はしていたのはたしかであった。
「得られたのはこの情報だけか……」
ぼそっと呟いた。
それから幾日が過ぎて、為す術がなくなっていたある日の休日、彼女からショートメールで「実家に帰ります」とだけ送られてきた。僕からしてみて、そのメッセージは、「もう会いたくないです、探さないでください」と言われているような感じがして、僕もそれ以降は彼女に電話をするのを止めることにした。
彼女からの連絡が途絶えてから、なぜだか心の中が空っぽになってしまった。週の仕事が終わった金曜日の真夜中、僕は一人きり海までドライブに出かけた。無性にこれからのことを一人で考えたくなった。
自分の軽自動車で国道十六号を走り抜き、小さな波止場に着いた。その場所はまさに絶景だった。夜の海は静かで、生温くはあるが、その風に包まれることで、日頃の疲れがどんどん薄れていくように感じがした。見上げると夜空には数えきれないほどの星が輝いており、あまりにもはっきりと見えるので、手を伸ばして握りたくもなった。車を停めて、しばらくぼーっとしていると、この夜空の光を描きたくなった。常備しているお絵描きタブレットを後部座席から取り出し、タッチペンを用いて星の輪郭をフリーハンドで描き出した。
今ならまだ間に合う……彼女がどこかへ行ってしまう前に……。アンを探そう、そう思った。
カシオペヤ座はまるで僕の背中をそっと押してくれているかのようにピカピカ光ってい
た。
一週間の夏季休暇を取り、無謀にもアンを探すために京都へ行くことにした。ショートメールの「実家に帰ります」というのも、正直本当なのかもわからないが、今はそれを信じたい、もしかして、劇的な再会があるかもしれない、そんな短絡的な気持ちを抱きながら、土曜日の夕刻、京都駅行きの山陽新幹線に乗り込んだ。のぞみ号なら東京駅から京都駅まで約二時間十分で到着するため、丁度いい乗車時間だと考えていた。車窓から景色が猛スピードで流れていくのは不自然な環境であり、その景色を眺めていると、自然界ではあり得ないスピードで入ってくる視界情報を処理しないといけないので、自律神経が疲弊してしまうため、あまり見ないように俯いていた。というよりは、今の僕にとって、通り過ぎていく道はもはやどうでもよかった。腕時計を見れば、午後七時九分に京都駅に到着していた。時刻表通りに走っていたのである。しかし、辺りも暗くなり始めており、時間的にもう遅かったので、今日は京都駅前のビジネスホテルに宿泊し、明日にアン探しをすることにした。
朝七時に起床し、宿泊プランとして付いていた、有難い朝食を済ましてから、まずは彼女の実家があるという宇治方面へと向かった。JR奈良線宇治駅行き電車の中でも、アンに似た女性の横顔や後ろ姿を見ては、「まさかな、まさかな」と思いながら確認はするが、見間違いの連続であった。駅に着くなり、最初はプラットホームや改札口辺りをウロチョロしていたが、埒が明かないため、平等院鳳凰堂に場所を移すことにした。
鳳凰堂に向かって伸びた赤い橋はいかにも情緒があり、煌びやかな平安の色彩を浮き立たせていた。季節は八月が終わって九月に入っても、地球温暖化の影響でまだまだ暑く、浴衣姿の女性が目立っていた。水玉模様とスミレの花柄が入った浴衣を着て歩く姿を思い浮かべながら、彼女を探してはみるが、自力での人探しは難航した。
しばらく探すのに奮闘していたが、雨が降り始めたことで気持ちが萎えてしまって、僕はJR宇治駅前の抹茶カフェに入ることにした。というのは口実で途方に暮れてしまったのだ。
天気の予想というのは、漁業、農業、商業に携わる、あらゆる人々にとって重要なことである。現代のような科学的な観測に基づく天気予報がない時代には、「観天望気」と言って、自然現象や生物の行動から天気を予想していたと言われている。
「そういや、先程、二羽の夏燕が平等院南門の前を低く飛んでいたな。それが今の雨と関係があるのかな……」
と、昔に祖母から聞いた天気のことわざを思い出しながら独り言を呟いた。
店舗の二階に上がり、狭い窓からは細長く見える宇治川をぼーっと眺めていた。
「もしかしたら、遥か昔、紫式部もこの場所で宇治川を眺めながら、和歌を作りつつ、色々と物思いに耽っていたのだろう」
と、そんな風に思っていた。
観光シーズンという意味においても、この抹茶カフェは、二階から眺めることができる宇治川の景色が大変人気らしく、特に二階の席は知らぬ間に一杯になってしまう。僕は騒がしいところを避けるために、一階の方へ席を移動した。
その時、カランカランと喫茶店のドアベル音が鳴ったため、おそらく誰か入ってきたのだと思った。何か運命的なものを感じつつも、「よもやそんなことはあり得ないだろう」と思いながら、ドアの方に目を向けた。なんと、それはまさに自分が今まで探していたアンの姿だったのである。向こうも僕の姿に気づいたらしく、すぐさま喫茶店から走り出ていってしまった。彼女の目は大きく見開いていた。まさかこんなところにいるはずがない人物を見かけることになったので、大変驚いたに違いない。彼女が出る時は、入ってくる時とは違って、かなり大きな音でカランカランと喫茶店のドアベルが鳴り響いた。周りからすれば、余ほど慌てていたんだなと思わせられる雰囲気だったはずである。
僕も今しがた喫茶店を出たばかりの彼女を追いかけるため無我夢中で外に出た。まだ彼女の後ろ姿が確認できたので、大きな声で力一杯に叫んだ。
「アン!待ってくれ!はあ……はあ……待ってくれ!」
二人の間にはそれなりの距離はあったのだが、やはり、一般的には男性の方が走るのは速いらしく、容易に彼女に追いつくことができた。しかし、本当は、これからの二人における心の距離感を縮めたかったのである。
「はあ……はあ……。やっと追いついた。やっと……追いついた」
「…………」
しばらく無言の状態が続いた。
「アン!ごめん……。もう一度、僕のところへ……戻って来てくれないか?……なんて言ったらいいか、上手く言えないんだけど……、今の僕には君が……必要なんだ……。必要……なんだ……。だから……」
「私は人殺し……。たぶん、岸本さんを不幸にさせる……」
「アン!僕にはちゃんと説明してくれ!一体何があったんだ?」
「…………」
「黙ってちゃわからないよ、アン!」
「あれはれっきとした正当防衛だったんです。あの日の夜、主人がしつこく関係を迫ってきて」
「…………」
渡鹿野旅館組合の宗谷たけしさんが言っていたのとちょっと話が違うなと思った。宗谷さんの話ではアンの方が積極的な様子に見えたと言ってたことを思い出しながらも、どちらが正しいのかわからなくなってしまった。
「……性奴隷にしようとしてきたんです。それに抵抗する形で……」
「そうだったんだね?それなら、警察にちゃんと説明した方が良いと思うよ。逃げてしまっては疑われるに決まっている……」
「今さら……無理よ!」
「仕方がなかったんだろ。ちゃんと説明すれば、正当防衛だって認められるさ」
「もう何年も前の事件を今さら説明したって信じてもらえるかわからない。最近の警察は厳しいと聞くし……。それに顔も整形しているし、名前も変えているし、怪しまれるに決まってる……」
「当時、一緒に住んでいた僕が証人になるさ」
「岸本さんだって、どうせ事件当時は私を疑っていたんでしょ?」
「…………」
たしかにそれまでのアンの素行や生活スタイルを鑑みても、容疑者として疑うしかなかった……。それは事実である。
「ほら!疑ってたんじゃない!」
「なぜ僕が渡鹿野島に来たか、アンは知ってるかい?実は……学生の頃に最愛の人を海で亡くしたんだ。助けられなかったのは自分の責任だと今でも感じている……。それで自暴自棄になって、あの民宿で働くようになったんだ。自分なんてどうしようもない存在だと、絵描きの夢も人生も諦めかけていた時にアンと出会った……。正直楽しかったし、幸せだった。もう一度自分に生きるチャンスをくれているような感じだった。だから……今度は僕が恩返しをしたい」
「でも、私……。母親の様子も気になるし……。一緒になるのは難しいと思う……」
彼女は少し後ずさりをしながら言った。
「大丈夫だよ」
僕は彼女の気持ちを包み込むように優しく言った。
「岸本さん、本気で言ってくれてますか?母親は脳梗塞で重い意識障害が残り、ずっと寝たきりなんです。簡単に言わないでください」
「……。僕が面倒見るから……確信的なことは言えないけど……僕に面倒見させてほしい……。会えば会うほど、知れば知るほど、アンのこと、どんどん好きになっちゃってさ……。そんなアンとだったら一緒にやっていけそうな気がするんだ……。どんなことでも乗り越えていけそうな気がするんだ……。それに、アン、五年前に渡鹿野島に訪れてるね?そうだろ?違うか?」
「…………」
「何かしら思いがあって僕のところへ訪ねてくれたんじゃないのか?僕が住んでいると思って渡鹿野島へ来てくれたんじゃないのか?」
すると、彼女が僕の胸へ力一杯に飛び込んできた。
「アン……。もう二度と君を離したりなんかしないよ、君の……全てを受け入れようと思う……」
「うん」
アンは大粒の涙をこぼしながら頷いた。
男女が抱きしめ合っている瞬間は、言葉なんてものは必要ないのかもしれない、そう思った。
「アン、少しおっぱい小さくなった?」
「何?いいムード出しておきながらそのセリフはないでしょ?」
僕が茶化して言ったつもりだったが、アンは少し不気味な笑みを見せていた。
この美しくて、小さな幸せを掴み出した、儚い男女二人は、粉々になっていたそれぞれの小さな光の破片をつなぎ合わせようと、いつまでも抱きしめ合っていた。僕たちは知らず知らずのうちに瞼を閉じていた。すると、僕と彼女の周りには無限の宇宙が広がっていた。
「夢幻というものは宇宙の晴れ上がりと同じような現象かもしれない。もしかして夢幻の遥か先には生々しい現実世界が待っているのかもしれない」
と、僕はぼそっと呟いた。
このアンとこれからの一生を共にしていく決心を僕は固め出していた。そこで、少し強張った自分の頬を引っ張ってみた。どうやら、今自分がいる世界は夢ではなく、明らかに現実世界であると確認することができた。どう考えてもリアリティ溢れる世界だった。
今、この男女二人の頭上には、美しく、歪んだW字の形をなした、カシオペヤ座が輝いていた。(了)