第94話 人生の意味 城之崎光哉の場合
午後の最後の講義が終わる。
ざわめきと共に学生たちが教室から溢れ出ていく中俺は一人、重い足取りで席を立った。
とぼとぼと無気力でキャンパスを歩く。
あれから数日探し回った、それでも結局芝浦を見つけられなかった。
俺は芝浦の職場の場所は知らなかった。
だが能田や敷島にも連絡して以前会った場所から、恐らく職場の近くだと思われる場所も探した。
あいつが好きだと言っていた古着屋や二人でたまに行った定食屋、そしてあいつの家の近辺。
思い当たる場所は全て探した。
鷲那には……聞けなかった。
今の鷲那を芝浦が頼るとは、到底思えなかったのだ。
はあ。
鉛のように重い溜め息を吐きながら歩いていると、視界の先に見知った後ろ姿を見つける。
金田教授だ。
やはり先日見かけた時と変わらず、その背中は一回りも二回りも小さくなったように見える。
だがこちらを向いた瞬間のぎらぎらとした眼光だけが、何かに取り憑かれたような異様な生命力を放っていた。
また、痩せたのではないか?
その頬は、前よりもこけているように見える。
そう思っていると、金田教授がこちらに気付いた。
少し、気まずいな。
俺のこんな腑抜けた顔を見られたくはないし、正直に言えばあの雰囲気の教授が恐ろしいというのもある。
そう思ったのだがこちらに歩み寄って来た金田教授の雰囲気は、以前の威厳がありながらもどこか柔らかいものに戻った気がした。
「城之崎君、ここにいたのか」
「教授、ご無沙汰しておりました……私をお探しだったのですか?」
俺がそう質問すると教授は、
「もちろん、そうだが……」
と頷き、少し不思議そうに俺の顔を見た。
「まさか、君は何も聞いていないのか?」
「え……?」
俺にはまるで心当たりが無い、何のことだかさっぱりわからなかった。
俺の困惑した表情を見て金田教授は、
「そうか……」
と何かを納得したように頷いた。
「それなら私の研究室に来なさい、良い珈琲豆が手に入ってね」
教授はそう言って、穏やかに微笑んだ。
古書と珈琲の香りが混じり合った、静かな空間。
金田教授の研究室にお邪魔するのは、初めてだった。
壁一面を埋め尽くす専門書は、まるで知の要塞だ。
教授は手動のミルで、ゆっくりと豆を挽いている。
カリカリという、心地よい音が部屋に響いた。
「……教授、少しお痩せになられましたか?」
俺は少し考えてから、そう質問した。
「そうだな、近頃食欲が湧かなくてね」
教授は手を止めずに答える。
「暫くお休みされると伺っていたのですが、もう大丈夫なのでしょうか?」
その言葉に、豆を挽く音がぴたりと止まった。
しまった、踏み込みすぎたか。
俺が内心で焦っていると、教授は再びゆっくりとミルを回し始めた。
「……休もうと思ったんだが、却って辛くなってしまってね」
どういう事だろう。
俺が考えていると、教授はまるで天気の話でもするかのように静かに言った。
「息子が、自殺してね」
俺は思わず息を呑んだ。
空気が、凍りついたようだった。
「私は何十年も前に離婚しているんだ。……離婚理由は私が研究ばかりしていて、家の事を顧みなかったからだ。息子は元妻が引き取ったんだ。その元妻が先日病死して、息子も後を追うように自殺したんだよ」
教授は淡々と、事実だけを語る。
その声に、感情の色はなかった。
俺は何も言う事が出来ない、どんな言葉もここでは無力に思えた。
「まあ離婚後も息子や元妻とは、時折会っては居たんだ。不思議と結婚していた時より、気軽に話せた気がしていた。その二人が立て続けに居なくなって暫く休もうと思ったんだ、だが……」
教授は挽き終わった豆をフィルターに移し、細口のポットからゆっくりと円を描くようにお湯を注ぐ。
ふわりと、一層豊かな香りが立ち上った。
「何もしないのも、全く落ち着かなかった。いや、と言うより私は長年……家庭を蔑ろにして研究に没頭していたのだ。私には研究しかない、でなければ私の人生は、一体何だったのかと思ったんだ」
そうか。
だからこそ、あの鬼気迫るような異様な迫力を纏っていたのか。
俺は妙に、納得してしまった。
「どうぞ」
教授が俺の前に、純白の珈琲カップを置く。
豊かな香りが、ふわりと鼻腔をくすぐった。
隣に置かれたミルクを入れる。
「頂きます」
そう言って一口、味わう。
苦味と酸味の奥にある、深いコクが舌に広がった。
「……美味しいです」
素直にそう思ったので、そのまま教授に伝えた。
「口に合ったなら何よりだよ」
教授は柔らかく微笑んだ。
コンコン、と静かにドアがノックされる。
「教授、ご到着されました」
助手の方の声だろうか。
教授は、
「お通ししてくれ」
そう答えた。
え!?
来客なら邪魔になる。
俺は慌てて立ち上がる。
「すみません! 珈琲を残してしまいましたが、失礼します!」
「いや」
教授は、俺を制するように言った。
「この客人は、君に会いに来たんだよ」




