第93話 女性達 城之崎光哉の場合
「なるほどねー」
咲良は腕を組んで、静かに相槌を打った。
俺は昨日のテーマパークでの出来事の全て――鷲那との再会と結末。
そしてその痛みを芝浦にぶつけてしまった一部始終をぽつり、ぽつりと話していた。
「一つだけ聞きたいんだけど」
「なんだ?」
咲良は軽く息を吐いてから続ける。
「芝浦君が気持ちがわかるって言った時、理由は聞いたの?」
「理由?」
芝浦は何故俺の気持ちがわかると思ったのだろうか。
「いや……わかる筈が無いと、頭から決めて掛かっていた」
「そっか」
話し終えると、咲良はやおら立ち上がった。
そして俺に向かって、手振りをする。
「ほら、光哉も立って」
にこやかな表情と穏やかなその口調に、俺はなんだろうと思いながらもゆっくりと立ち上がった。
その瞬間、唐突に胸倉を掴まれた。
「え……?」
ぐい、と強い力で引き寄せられる。
目の前で、咲良が大きく手を振り被った。
――ビンタされる。
俺は咄嗟に目を伏せる。
されても仕方ない。
それだけの事を、俺はしたのだから。
ゴッ!
鈍い音。
しかし衝撃が来たのは、頬ではなかった。
顎。
強烈な一撃が俺の顎を捉え、脳内に火花が散る。
視界が真っ白に染まった。
「私ね、芝浦君って理由もなしにそんな事言わないと思うんだよね」
咲良がいつもと変わらない声音でそう言った。
俺は床に倒れ込み、しばらくの間動くことさえできなかった。
じんじんと痺れるような痛みが、顎から頭全体へと広がっていく。
「そんな事もわかんない?光哉の方がわかってると思ってたんだけど?」
少しずつ視界が晴れ、俺は漸く上体を起こせた。
顎を擦りながら上を見ると、握り拳を作ったままの咲良が荒い息をしながら俺を静かに見下ろしていた。
……グーかよ。
そう思ったが、咲良のあまりにも真剣な眼差しを見て何も言えなくなった。
やがて咲良はふっと表情を緩め、いつものように笑って言った。
「目は覚めた?」
「……お陰様でな、三途の川も見学できたよ」
俺が皮肉を返すと咲良は、
「良かったじゃん、生まれ変われて」
そう言ってけらけらと笑った。
そしてゆっくりと、俺の前にしゃがみ込む。
「私ね、ずっと好きな人がいるの」
咲良は俺の目をまっすぐ見つめる。
「その人って、他の人の事なんか全然興味無い様に見えるんだよ。だけどちゃんと周りを見てて、誰かが傷付くような事が無いように動ける優しい人」
その手が、そっと俺の頬に触れてきた。
「だからね、また生まれ変わって私の好きな光哉に戻ってよ」
「咲良……」
俺がその名を呟くと咲良は、
「ほら、わかったらやる事あるでしょ? 早く立って」
と、俺の腕を引いた。
俺は頷くと、部屋を後にする。
部屋を出た後、閉まりかけたドアの隙間から聞こえてしまった。
「……私って、馬鹿だなー」
か細い声で呟く、咲良の独り言が。
咲良にとって俺と芝浦の仲が拗れる事は、何ら不都合は無い。
ややもすると、好機と捉える事もではないか。
放っておく事だって、心の傷に付け入る事だって出来た筈なのに。
俺は胸に刺さった小さな棘に気づかないふりをする。
「咲良、ごめんな」
心の中で詫び、玄関のドアを開けたのだった。
とにかく、会って謝らなければ。
その一心で俺は、芝浦の家に向かって我武者羅に走った。
雨上がりの湿った空気が肺を満たし、心臓が痛いほど脈打つ。
やがて、見慣れたアパートの前に着く。
チャイムを鳴らすが、返事はない。
ドアノブを回しても、鍵がかかっている。
もしや居留守をされているのか?
……いや、居留守を使っている訳でも無さそうだ。
部屋の窓は暗く、人の気配がしない。
どうしたものか。
俺は自分のポケットからスマホを取り出し、芝浦の名前をタップしようとして……指が止まる。
今電話して、あいつは出てくれるだろうか。
いやそれ以前に、俺は何を言えばいい?
途方に暮れて、その場に立ち尽くす。
その時だった。
まさにその手に持った俺のスマホが、不意に震えた。
画面を見ると、『母さん』と表示されていた。
電話に出ると、明るい声が聞こえてくる。
『もしもし光哉? 実は仕事でね、取引先の方からすごく良いお肉を頂いたの。けれど私一人では食べ切れないから、送ってあげるわ。咲良ちゃんや芝浦君と、一緒に食べて』
母さんの悪意のない、優しい言葉。
それに俺は、返事が出来ない。
『 光哉?聞いているの?』
不思議そうな母さんの声に、俺はようやく絞り出すように言った。
「ありがとう」
少しの間を置いて母さんは質問した。
「……光哉、芝浦君に電話代われる?」
恐らく母さんは、分かっていて聞いている。
「芝浦は、自分の家に戻ったんだ」
「そう、何かあったの?」
俺は言葉を選んで、
「いや、俺が一方的に悪いんだ。芝浦に八つ当たりした挙句、俺の気持ちが分かる訳ないと言って罵声を浴びせたんだ」
答えられる部分だけ答えた。
それを聞いた母さんの返答は、意外なものだった。
「それはそうね」
「え?今……なんて?」
思わず聞き返した。
「それはそうねと言ったのよ。畢竟人間は他人の気持ちなんて、完全に理解することなんてできないでしょう?」
元も子もない事を言うものだと思った。
「……でもね」
母さんは更に続けた。
「それは光哉も同じでしょう?」
「……」
答える事が出来ない、本当にその通りだったから。
「いい?光哉。」
優しい声音だった。
「知らなかったから仕方が無いと言う人も居るけれど、知らなくても取り返しの付かない事も沢山有るのよ。無知は免罪符ではないの」
その言葉が痛かった。
「そう言えば光哉、以前大学に金田教授と言う尊敬している方がいらっしゃるって言っていたわよね?」
「え?ああ言った、けど?」
急に話が変わって驚く、急になんだろう。
「そう、分かったわ」
俺は思わず首を傾げる。
「そ、そう?」
「人が人に好かれる為、嫌われない為に出来る事なんて……ベストを尽くす事位なのよ」
話がまた戻ったのか?
今日の母さんが言う事は、いつも以上に何回だ。
「取り敢えずお肉は送っておくわ、それじゃあ頑張りなさいね」
電話が切られる。
無機質な切断音だけが、虚しく響いていた。




