第86話 演じる者を前に 城之崎光哉の場合
財布を無くしたと気づいた瞬間から芝浦は、明確に落ち込んでいた。
あれだけ自信満々で俺を振り回していた姿はどこへやら。
今はしょんぼりと肩を落とし、まるで捨てられた子犬のようだ。
「行った場所を一つずつ、思い出してみろ」
俺はそう言って、二人で来た道を辿ることにした。
救護室には無かった。
通って来た道をゆっくりと、記憶を頼りに戻っていく。
そして最後に辿り着いたのは、あの極めて不愉快な洋館だった。
芝浦の不安げな様子に気づいた若い男性の係員が、静かに近づいてくる。
係員はやや幽玄な声色を含ませながら、優しく微笑んで一礼した。
随分と雰囲気を大切にしているらしい。
「何やら……この館の亡霊たちにちょっとしたイタズラを仕掛けられたのかもしれませんね、どうなさいましたか?」
芝浦はそれどころでは無いと言わんばかりに答える。
「すみません、一時間ほど前にここで黒い二つ折りの財布を落としたみたいなんです。」
しかし係員はそれでも真剣な眼差しで頷きながら、
「それはそれは……大変でしたね、お財布というのは魂と同じくらい大切なものですから。」
金は命より重いって事か?
係員は素早くインカムを飛ばす。
「ただいま私たちの仲間――失礼、“館の案内人たち”が館内を確認いたしましたところ……」
係員は数秒の間を置く、焦らしてやるなよと思いながら様子を伺う。
すると確認が取れたことを示すように、安心の微笑を再び浮かべる。
係員は明るい口調で、
「お客様のお財布はすでに、パーク内のメインストリート・ハウスにて大切に保管されております。ご無事で何よりでございます」
と答えた。
「ほんとうですか!?良かった!」
芝浦が安堵の溜め息を漏らすと、係員は地図を手渡しながら、
「はい、こちらがその場所です。ワールドバザール入口、左手側にございます。中でキャストにお名前と落とし物の内容をお伝えください。」
と案内する。
そして更に続ける。
「お財布もまるでお客様の後を追うように、亡霊たちの手を借りて館をあとにしたようです。そして今、元の持ち主を待っております」
最後に、やや物語調の口調で優雅に一礼した。
「どうかこれに懲りずに本日も魔法に満ちた一日を、心ゆくまでお楽しみくださいませ。……くれぐれも、館の999人の住人にはご用心を。」
係員と言うより最早役者だな、いや……だから『キャスト』なのかと俺は感心していた。
「よかったな」
俺たちはレストランで、少し遅い昼食をとっていた。
「うん……城之崎、マジでありがとう」
財布がその手に戻って、心底ほっとした様子の芝浦を見ている。
これで俺もようやく、肩の力を抜くことができた。
注文したのはカレー。
ハンバーグとチキン、そして茹で玉子が乗ったボリュームのある物だった。
運ばれてきたカレーを見て俺は、何よりその茹で卵に驚いた。
半分に切られた黄身が、あのねずみを模した特徴的な形になっているのだ。
果たして、どうやって作っているのだろうか?
そんなどうでもいいことを首を傾げながら、カレーと玉子を口に運ぶ。
半熟でとろとろの黄身が、スパイシーなカレーと絡んで本当に美味い。
夢中で食べていると、不意に芝浦が申し訳なさそうに言った。
「ごめん城之崎、余計な時間を取らせて」
「それを言うなら、俺の方だ」
俺はスプーンを置いて、彼に向き直る。
「気絶してお前に迷惑を掛けた。何より財布を無くしたのだって、場所を考えると俺が気絶したせいだと考えるのが自然だ」
俺がそう言って頭を下げようとすると、芝浦が慌ててそれを制した。
「いやそれだってそもそも、怖がる城之崎を無理矢理連れて行った僕が……」
「待て」
俺は芝浦の言葉を、ぴしゃりと遮った。
「俺は!断じて!怖がってなどいない!」
不意に唐突な間が訪れた。
「あははわかった、わかったよ!」
芝浦は、楽しそうに笑っていた。
いやこいつは、本当にわかっているのだろうか?
俺が釈然としない気持ちでいると芝浦は、
「美味しかったね?」
とあっさり話題を変えてきた。
「まあ、そうだな」
俺がそう答えると芝浦は、子供のような目で聞いてきた。
「ねえ、デザート食べたくない?」
近くのアイスクリームを売っている露店を指差していた。
そして結局俺たちは、アイスクリームを食べながら次のアトラクションに向かって歩いていた。
ワッフルコーンに乗った、二段重ねのアイス。
カレーの後ということもあって、その甘さが口の中に際立つ。
まあ悪くない。
ただ量を考えると、少し急がないと溶けてしまいそうだ。
俺は少しだけ、早めに食べ進める。
ふと、視線を感じた。
隣を歩く芝浦が、じっと俺の顔を見ている。
「……なんだ?」
俺の質問にこいつは何も答えなかった。
すると唐突に俺の口元を親指で、すっと拭った。
「え……」
咄嗟の事で、まるで反応出来なかった。
「ん、アイスついてた」
そう言って芝浦は、事も無げに笑う。
そして次の瞬間。
なんら躊躇なくその親指を、自らの口へとゆっくりと運んだ。
ちろりと芝浦の舌が俺の食べ残したアイスを、そして彼自身の指を舐めとる。
俺はその一連の光景をただ、固まって見ていることしかできなかった。
俺の視線に気付いた芝浦が少しだけ照れくさそうに、
「一度やってみたかったんだよね、これ」
そう言って微笑んだ。
俺はアイスが溶けて自分の指を伝っている事も、気が付いていなかった。




