第84話 悪夢の国 城之崎光哉の場合
あれから数日が過ぎた。
俺の平穏な日常は芝浦山手という男によって今、完全に蹂躙されつつある。
事あるごとに、まるで挨拶かのように『好きだ』と言ってくる。
ソファで本を読んでいれば当然のように隣に座り、肩を寄せてくる。
そのパーソナルスペースを無視した、距離感の近さ。
そして何の前触れもなく、料理をしている俺の背中に普通にハグしてくる。
もはやボディタッチ等という、生易しいレベルではない。
何より一番の問題なのは、そんなことをされても満更でもない俺自身だ。
抵抗しようと思えばできるはずなのに、気付けばこいつの体温に不覚にも安らぎすら覚えている。
完全に、ペースを乱されている。
そして今日、俺は……。
「城之崎、お待たせー!」
思考を遮るように芝浦が、人懐っこい犬のように駆け寄ってくる。
その頭にはねずみの大きな黒い耳を模した、なんともファンシーなヘアバンド。
両手には同じく、そのねずみを模した形の甘い香りを漂わせるワッフルを持っている。
そうだ。
俺は今日なぜか芝浦と夢と魔法の王国、某テーマパークに来ていた。
「ほら城之崎! 冷めないうちに、食べよう!」
そう言って芝浦はワッフルの一つを、俺の口元へと差し出してきた。
「あーん」
「いやいや、待て待て!」
俺は慌てて手で制止する。
「自分で食べる」
「え?」
すると芝浦は、心底傷ついたというようにきゅっと眉を下げた。
そして不安そうな目で、こちらをじっと見つめてくる。
「ごめん、そんなに嫌だった?」
……ずるいだろう、その顔は。
所謂上目遣いをしてくる。
こいつの方が背が高いのに、なぜその角度から俺を見るのか。
どう考えても計算ずくだ。
わかっている。
こいつは自分がどうすれば俺が断れなくなるのかを、完全に理解しているのだ。
俺は観念して、短く息を吐いた。
「……早くしろ」
そう言って、不承不承口を開ける。
すると芝浦は、ぱっと花が咲いたように笑った。
「はい、あーん」
口の中に焼きたての生地の香ばしさと、メープルシロップの強烈な甘さが広がる。
「美味しい?」
期待に満ちた子犬のような目で聞いてくる。
「……悪くない」
俺はぶっきらぼうにそう答えると、
「もういいだろう」
と言って芝浦の手から自分の分のワッフルをひったくった。
そして大きな口で、わざとらしく齧り付く。
「あはは、恥ずかしがっちゃって」
隣で芝浦が、本当に嬉しそうに笑っている。
本当に調子が狂う。
その後も俺は終始、芝浦に振り回され続けた。
あちこちのアトラクションを、一見するとその場の思いつきで回っているように見える。
しかし実際は時間を指定できるプレミアアクセスや、待ち時間を短縮できるプライオリティパスを駆使して非常に効率的なルートで回っていく。
忌々しい待ち時間もほとんどなかった。
普段のあいつからは想像もつかない、用意周到さだ。
プレミアアクセスって有料だよな、今日のためにかなりのお金を貯めていたらしい。
だが。
次に芝浦が、目を輝かせながら俺の手を引いていこうとしたアトラクション。
その丘の上にそびえ立つ禍々しい洋館が目に入った瞬間、俺は今日初めて本気の抵抗を示した。
「待て」
俺はその場に踏みとどまり、断固として動かない。
目の前には999人の幽霊がいるという、あの洋館。
全く、冗談ではない。
「どうしたんだよ? 城之崎」
不思議そうに芝浦が振り返る。
俺は真剣に、こいつの説得を試みた。
「『君子危うきに近寄らず』という、言葉がある」
「うん?」
「幽霊の存在等と言う物は、どう考えても非科学的だ。だがその存在の有無を完璧に証明することは不可能、つまりその存在を完全に否定することもまたできない」
俺はまるで講義でもするかのように、熱弁を振う。
「存在を否定できない以上、我々はそれを『存在するかもしれないもの』として扱わなければならない。そして存在するかもしれない危機に、あえて自分から近づくのは君子の行いではない」
俺の完璧な論理に、芝浦は一瞬呆気に取られていた。
やがて芝浦は何かを理解したように深く、深く頷いた。
「そうか……分かったよ」
「分かってくれたか!」
俺は、ほっと胸を撫で下ろした。
良かった、話せばわかるものだな。
だが。
「分かった、よーく分かったよ!」
芝浦はにぱっと、太陽のように笑った。
「はあ!?」
「大丈夫だって、僕がついてるから!」
そう言うと芝浦は俺の抵抗などお構いなしに、ずるずるとその洋館へと俺を引きずっていくのだった。
「おい! 話を聞け!」
「何が分かったんだよ!」
「俺は怖がりなのではなくて、論理的に危機を回避しているだけだ!」
「というか、力が強すぎるだろ! ふざけるな!」
「やめろ、芝浦! やめろお!」
悲痛な叫びがパーク内に大きく響き渡る。
だがそれも陽気な音楽の中に虚しく、虚しく消えていった。




