第82話 やり場のない想い 芝浦山手の場合
愛していた?
あの人が、僕を?
頭が追いつかない。
沈黙を破ったのは小澤先生だった。
「教授……祐希は?」
「ああ、奥の部屋ですやすやと寝ているよ。」
その答えに小澤先生は、どこか安心したように息をついた。
先生は混乱している僕を見て、静かに説明を始めた。
「芝浦くん、紹介するわね。大学教授の金田さん……私の舅、博満さんのお父様よ。」
「え……?」
父……。
でも苗字が。
僕の疑問を察したのか、金田教授が静かに続けた。
「博満の母親とはずいぶん昔に離婚していてね、博満は母親が引き取ったんだ」
「そう、だったんですか……」
僕は頷くのが精一杯だった。
でも聞きたいのは、そんなことじゃなかった。
「なぜ……」
声が、震える。
「なぜオーツさんが僕を愛していたと、そう思うんですか」
すると金田教授は、ちょっと申し訳なさそうに言った。
「すまない、実は私もその『ファイモン』での君と博満のやりとりを見せてもらってね」
「え!?」
顔から、一気に火が出るのがわかった。
ヤバい。
どんなやり取りしてたっけ?
恥ずかしすぎて、思い出したくもない。
「だから博満さんは私との結婚を、ギリギリまで遅らせたんだと思うの」
小澤先生が、ポツリと呟いた。
「博満の母親はね。」
金田教授が、遠い目をして語り始める。
「孫の顔が見たい孫の顔が見たいといつもいつも言っていたんだよ、……親というのは得てして、孫の顔が見たいと思うものだ。女手一つで自分を育ててくれた母親を、博満はむげにはできなかったんだろう」
「それって……」
僕が言いかけるのを、小澤先生が静かなほほ笑みで続ける。
「えぇ、私は愛されていなかったってこと」
先生は本当に静かに、微笑んでいた。
「本当はずっと前からわかってたの、でも祐希がいるから。あの子がいたから、私は頑張れた」
そして、続けた。
「でもあなたを失ったあの人の生きる理由は、お義母さまだったってことなのね。だからお義母さまが亡くなって……生きる理由がなくなってしまったんだと思う」
その言葉で、全てのピースがはまってしまった。
オーツさんは、僕を愛していた。
けどお母さんのために、小澤先生と結婚して子どもを作った。
そしてそのお母さんが亡くなって、生きる意味を失って自殺した。
そういうことなのか?
涙が止まらなかった。
後から後から、熱いものが頬を伝って落ちていく。
「……ヒドい、人ですね」
僕はやっとの思いで、そう言った。
「小澤先生もお子さんも……あまりにも、かわいそうすぎます」
「本当だよ」
金田教授が深く、深く頷いた。
「一回り以上も違う高校生に手を出しておいて、結果的には捨てた。そして妻と子がいながら、母親が死んだら後を追って自殺。……本当にどうしようもないヤツだよ、アイツは」
「えぇ、本当にそうですね」
小澤先生も静かに同意した。
そして彼女は、僕の方に向き直る。
「でもそれだけ、あなたのことが好きだったんでしょうね」
その言葉にまた、涙が溢れた。
僕は気になっていたことを尋ねてみた。
「あの……オーツさんがいなくなった日に、部屋に結婚式の招待状が……。あれ、苗字が大津のままだったんです」
すると小澤先生は、少し驚いたように言った。
「えぇ、最初は大津姓で籍を入れるはずだったの。でも入籍の本当に直前になって博満さんが小澤姓にしてほしいと、そう言い出したのよ」
そして先生は、悲しそうに付け加えた。
「たぶん……『オーツ』という名前を、捨ててしまいたかったのかもしれないわね」
「……そもそもなんで、結婚式の招待状なんて置いていったんでしょうか?」
僕の、ずっと抱えていた疑問。
「……これは私の勝手な推測だが」
答えたのは、金田教授だった。
「もしかしたら、止めてほしかったのかもしれないな」
教授はそう言って、寂しそうに笑った。
「どこまでも、優柔不断なやつだったから。……息子が、本当にすまなかった」
そう言って教授は僕に深く、深く頭を下げた。
芝浦くん。
「芝浦くん」
声がする。
ハッと我に返ると、そこはレストランの個室だった。
目の前で城之崎のお母さんが、ハンカチを差し出していた。
いつの間にか僕は、泣いていたらしい。
「聞かせてくれてありがとう、使って」
そう言われて僕は、そのハンカチを借りた。
「洗って、返します……」
「いいのよ、気にしなくて」
彼女はそう言って、僕がハンカチを返すのを静かに待っていた。
僕は震える声で、彼女に言った。
「やっぱりあなたも、孫の顔が見たいんですね」
すると城之崎のお母さんは初めて見るような、ちょっとだけ困ったような顔でこう言った。
「本当はね……少し、違うのよ」




