第7話 奪われたイニシアチブ 芝浦山手の場合
「わー! 光哉、あれ食べたい! りんご飴!」
「次は射的! 私、得意なんだから!」
「あっちの金魚すくいも面白そう!」
完全に大庭咲良のペースだった。
城之崎の手を掴んだ彼女は、まるでこの祭りの主役みたいに振る舞い、次から次へと屋台を指差してはしゃいでいる。
城之崎は、
「おい、落ち着けって。」
とか言いながらも、結局は彼女の勢いに引きずられている。
そして僕はその数歩後ろを、とぼとぼとついていくだけ。
まるでお姫様とその騎士に付き従う、存在感の薄い従者のようだ。
…くそっ、なんでこうなるんだ!
内心で悪態をつく。
やっとの思いで取り付けた、城之崎と二人きりの夏祭りデート。
その筈だった。
それが開始早々、完全に大庭に乗っ取られている。
しかも時折こちらに向けられる大庭の視線。
笑顔の奥に棘が隠れている…いや、隠していないことを、僕は確かに感じ取っていた。
あれは間違いなく敵意だ。
僕という存在が、彼女と城之崎の間に割り込んできたことに対する、明確な拒絶。
…厄介だな、本当に。
どうすればこの状況を打破できる?
そう考えあぐねていると、城之崎がふと足を止めた。
「…ちょっとトイレに行ってくる。」
「えー、もうしょうがないなあ。」
大庭が少し不満そうな顔をする。
城之崎は、
「すぐ戻る。」
と言い残し、近くの仮設トイレの方向へと歩いて行った。
一瞬の静寂。
僕と大庭が二人きりで取り残される。
気まずい沈黙が流れるかと思いきや、先に口を開いたのは大庭だった。
「…ねえ、芝浦くん。」
不意に、穏やかな声で呼びかけられる。
そしてふっと表情を和らげ、まるで遠い目をするかのように語り始めた。
「私と光哉ね、家が隣同士なんだ。物心ついた時から、ずーっと一緒。本当に、生まれた時からって言ってもいいくらい。」
予想外の展開に、僕は戸惑いながらも耳を傾ける。
「幼稚園の頃なんて、光哉はいつも一人で隅っこで絵本読んでてね。他の男の子たちがチャンバラごっことかしてても、全然気にしないの。でも、意地悪な子が光哉の絵本を取り上げようとした時があったんだけど、その時は私が『こらー! やめなさい!』って言って追い払ってあげたんだ。そしたら光哉、ちょっとだけびっくりした顔して、でもすぐにまた本の世界に戻っちゃうの。…昔から、ちょっと変わってたかな。」
彼女の声には、慈しむような響きが混じる。
「小学校の帰り道はね、毎日一緒だった。途中にある古い駄菓子屋さんで、当たり付きのソーダ味のガムを買うのが日課でね。光哉はそういうの全然くじ運ないんだけど、私が当たると『半分あげる』って言って、無理やり口に突っ込んであげてた。あとね、学芸会で光哉が木の役だった時があったんだけど、セリフなんて一言もないのに、舞台袖で出番前、すっごいガチガチに緊張してたの。なんで分かるかって? 私が隣の木の役だったから、ずっと見てたんだもん。後で聞いたら『葉っぱがちゃんと揺れるか心配だった』だって。意味わかんないでしょ?」
くすくすと、楽しそうに彼女は笑う。
「中学に入って、光哉、少し背が伸びて、声変わりもして…。他のクラスの子とかが『城之崎くん、ミステリアスでかっこいいよね』とか噂してるの聞くと、内心『あんたたちは光哉の何を知ってるのよ?』って思ってた。家でジャージ着て、寝癖つけたままボケーっとしてる光哉も、テスト前になると私の部屋に来て『咲良、ここ分かんない』って参考書広げるの、光哉中学まで数学苦手だったんだよ?だからよく私が教えてあげてた。」
城之崎が数学苦手だった?
夏休みに教わった時は全くそんなふうには見えなかった。
「そんな光哉も、全部知ってるのは私だけなんだからって。…昔夜中に『本、貸して』ってパジャマでいきなり部屋の窓叩かれた時は、さすがに心臓止まるかと思ったけどね。」
悪戯っぽく舌を出す大庭。
彼女の語る一つ一つのエピソードが、僕の知らない城之崎の姿を鮮やかに描き出していく。
そして同時に、二人が共有してきた時間の長さを、圧倒的な重みをもって僕に突きつけてくる。
「だから光哉が何を考えてるかとか、どんな時に嬉しい顔して、どんな時に無理してるかとか…大体、分かっちゃうんだ。」
淀みなく語られた、二人の歴史。
それを聞いているうちに、僕はある事実に気づかされた。
それは大庭咲良という女の子が、僕なんかとは比べ物にならないほど長い時間すぐ隣で、城之崎光哉という人間を見つめ続けてきた、という紛れもない事実だった。
その事実に僕は少しだけ、打ちのめされたような気持ちになった。
僕の持っている武器なんて、彼女の積み重ねてきた時間の前では、あまりにもちっぽけなのかもしれない。
…いや、待てよ。
思わず、口をついて言葉が出ていた。
衝動的な問いかけ。
「…なあ、大庭。」
「ん?」
「本当は…もう、気付いているんじゃないか?」
城之崎が本当に好きな人が、誰なのか。
大庭は、僕の言葉に一瞬だけ目を見開いた。
そしてゆっくりと僕の方に向き直ると、何も言わずにただ、ふわりと微笑んだ。
その笑みは肯定でも否定でもなく、どこか全てを見透かしているようで、それでいて底知れない深さを感じさせた。
…やっぱり、知って…。
僕がそう確信しかけた、その時。
「悪い、待たせたな。」
城之崎が戻ってきた。
その声に大庭は、パッといつもの明るい笑顔に戻る。
「遅いよー、光哉! よし、次はあっち!」
まるでさっきまでの会話など無かったかのように、彼女は再び城之崎の手を掴み、屋台が並ぶ方へと歩き出した。
…今の笑顔は、どういう意味だったんだ?
僕の頭の中は疑問符でいっぱいだった。
彼女の真意が読めない。
それが余計に、僕の焦りを増幅させた。
なんとか二人に追いつき、再び従者のように後ろをついて歩く。
人混みをかき分けながら、必死で彼らの背中を目で追っていたその瞬間だった。
視界の端に、見知った姿が映った。
…あれはっ!?
長身に、整った顔立ち。
間違いない、鷲那豊樹だ。
しかし彼は一人ではなかった。
隣には小柄な女の子がぴったりと寄り添い、親しげに笑いかけている。
――女連れ。
その事実を認識した瞬間、僕の背筋に冷たい汗が流れた。
まずい。
非常に、まずい。
どうする?
城之崎と大庭を放っておけば、大庭が城之崎にどんなアプローチをするか分からない。
僕がいない間に、彼女が城之崎に何を言うか…。
でももしこのまま進んで、城之崎が鷲那とあの女の子の姿を見てしまったら?
あの学園祭の控室で見た、彼の涙。
鷲那の無邪気な言葉に傷つき、涙に濡れた彼の顔が脳裏に焼き付いて離れない。
あんな顔を、もう二度とさせたくない。
…っ!
選択肢は、二つに一つ。
どちらを選んでも、リスクがある。
けれど、僕の中で答えは決まっていた。
守るべきものは何か。
僕は苦渋の決断を下した。
城之崎と大庭に気づかれないよう、そっと人混みの中に紛れ込みながら、鷲那とその連れの女の子の後を追う。
今はただ、最悪の事態を避けるために。
僕の夏祭りは始まったばかりだというのに、すでに波乱の様相を呈していた。