第78話 そんなに甘くない 芝浦山手の場合
城之崎のお母さんは、大きく目を見開いたまま固まってる。
ほんの数秒。
でもやけに長く感じられた沈黙の後、彼女はフッと何事もなかったみたいにほほ笑んだ。
そして持ち直したスプーンで、優雅にパイを口へと運ぶ。
するとピッタリのタイミングで、ウェイターさんが部屋に入ってきた。
いやいや、タイミング完璧すぎない?
もしかして、どっかで見てたりしましたか……?
背中に、イヤな汗が流れる。
「次に前菜をご用意いたしました。帆立貝のカルパッチョ、柑橘のビネグレットでございます」
目の前にガラスの皿が置かれる。
美しく盛り付けられた帆立貝に、キレイな色のソースがかけられていた。
「新鮮な帆立に爽やかな柑橘のソースを合わせております、香りもご一緒にお楽しみくださいませ」
ウェイターさんが深々と頭を下げ、
「ごゆっくり、ご賞味ください」
そう言い残して、部屋を出ていく。
また部屋で二人っきりになる。
気マズい、あまりにも気マズすぎる。
その沈黙を破ったのは、お母さんの方だった。
「芝浦くんは、男の人が好きなの?」
静かな、でも真っ直ぐな質問だった。
「……僕は男性を好きになることも、女性を好きになることもあります」
別に、恥ずかしいことじゃない。
普段から隠してないし。
……いやでもさすがに好きな人のお母さんに面と向かって言うのは、めちゃくちゃ恥ずかしい。
「そう……光哉も男の人が好きなの?」
彼女の顔から、笑みが消えていた。
その刺すような視線に、一瞬怯みそうになる。
でもここで引いたら、完全にこの人のペースだ。
何より、城之崎のことを勝手に話すのは違うと思った。
「今してるのは僕の話、ですよね?」
僕は先ほど彼女に言われた言葉を、そのまま返すことにした。
「城之崎くんのことは今は関係ありません、気になるなら直接本人に聞いたほうがいいんじゃありませんか?」
さっきのお返しだ。
城之崎のお母さんの顔が、ピクッと引きつったのがわかった。
目が合ったまま、何も言わない時間が続く。
すると突然彼女の口からフッと、ガマンできないと言うような笑い声が漏れた。
「フフッ、アハハ! そうね、あなたの言う通りだわ」
彼女は声を上げて笑い出した、するとちょうどウェイターさんがやってくる。
「お待たせいたしました、本日のスープは季節野菜のポタージュでございます。旬の野菜の自然な甘みをお楽しみくださいませ、ごゆっくりどうぞ」
ウェイターさんが下がると彼女は続けた。
「揚げ足を取られるだなんて、口は災いのもとね」
そう言ってグラスのシャンパンを楽しそうに飲む。
僕も同じようにそれを飲むと彼女は、
「おいしいでしょう?」
と聞いてきた。
「はい、ほんのり甘くておいしいですこのシャンパン」
「あら芝浦くん、実はこれは『シャンパン』ではないのよ」
城之崎のお母さんがほほ笑む。
「え?そうなんですか?」
「いわゆる『シャンパン』というのは正式には『シャンパーニュ』と言うの。シャンパーニュと呼ばれるには条件があるんだけど、これはその条件を満たしていないからシャンパーニュではないわ。条件と言うのはまずフランスのシャンパーニュ地方で造られること、他にもいくつかの条件を満たさないとシャンパーニュとは呼べない。これはシャンパーニュ地方で作られたものではないから『シャンパン』ではないの」
彼女は、楽しそうに続ける。
「このクレマンはシャンパーニュと同じ製法だけど、シャンパーニュ地方以外で造られたもの。クレマン・ド・ロワール、ロワール地方で造られたものね」
そのスラスラと語る知識。
城之崎みたいだな……いや、城之崎がこの人に似てるのか。
やっぱり親子なんだなと、妙なところで感心してしまった。
さっききたスープも飲んでみる、これもおいしい。
「ねぇねぇ」
不意に彼女の声のトーンが、ちょっとだけ柔らかくなった。
「いつから光哉のことが好きなの?」
「……高校2年のときからです」
僕がそう答えると、その空気がさらにフッと柔らかくなった気がした。
少しホッとしている自分に気づく。
「光哉とはもう、付き合ってるの?」
「え!?」
直球のストレートが飛んできた。
付き合ってもいないのに同居しているなんて、やっぱりちょっとおかしいよね。
なんて言おうかな。
必死に言い訳を考える、けどその必要はなかった。
「あら?付き合っていないのね」
彼女は僕の心を、アッサリと読み切っていた。
「……何も言ってないですよ」
「『言った』事は否定するけれど、『まだ付き合っていない』事は否定しないのね? 素直でよろしい」
また笑顔だった。
やっぱりこの人、コワい。
そう思ったけど、本番はここからだった。
「でもね、芝浦くん」
彼女は優しい笑顔を浮かべたまま何でもないことのように言った。
「私は認めないけどね、絶対に」
今度は僕が、固まる番だった。
「なっ……なんで、ですか?」
ようやく絞り出した声は、情けなく震えていた。
すると彼女は、心底当たり前のことを言うかのようにさらりと言い放った。
「決まっているわ」
城之崎のお母さんが、僕の目をまっすぐ見る。
「孫の顔が、見られないじゃない」
子ども。
その一言で、心臓が凍りついた。
「次に魚料理のご用意ができました、真鯛のポワレ白ワインソースでございます。外側は香ばしく、中はふっくらと焼き上げております。お好みに合わせてレモンもご用意しておりますので、よろしければお申し付けください」
いつの間にかいたウェイターさんが、料理を取り替えていた。
「こちらのお料理、もしよければ白ワインとご一緒にいかがでしょうか。ご希望がございましたら、すぐにお持ちします」
「そうね」
ウェイターさんが微笑みながら一言添えると、城之崎のお母さんが少し考える。
「先程のアペリティフは少し甘かったかしら、甘くないものをいただける?」
ウェイターさんは畏まりましたと頭を下げると、静かに下がっていった。
『親というのは得てして、孫の顔が見たいと思う者だ』
小澤クリニックで金田教授に言われた言葉。
そうか、やっぱりそうなんだ。
『ねぇ、ヤマトくん』
……そこにもういるはずがない、あの人の声が聞こえる。
僕は振り向くことが出来なかった。
『……俺の子を、産んでくれないか?』
後ろであの人が、ずいぶんと悲しそうな目で僕を見つめている気がした。




