第73話 叶うならどうかもういちどだけ 芝浦山手の場合
翌朝。
リビングのドアをそっと開けると、いつもと同じくトントンと包丁の音が聞こえてきた。
城之崎が、朝食を作っている。
その背中を盗み見ると、特に変わった様子はない。
いつも通りの静かで、ちょっとだけ神経質そうな横顔。
「城之崎、おはよう」
いつも通りに声をかけると、
「おはよう」
城之崎は笑顔で応じた。
仕事を終わらせて、さっさと帰る。
今日はどうやって城之崎に振り向いてもらおうかなー。
城之崎の待つ、あの部屋へ向かう。
その時だった。
「あれ、芝浦?」
急に後ろから、声を掛けられた。
見ると僕と同年代くらいの、ちょっとチャラついたホストみたいな雰囲気の男性が立ってる。
どうしよう、誰だか全くわからない。
僕が困ったように愛想笑いを浮かべていると相手は、
「マジかよー」
なんて大げさにガッカリしている。
「え、覚えてない? 俺だよ、俺。」
いやオレオレ詐欺かな。
うーん……なんか、会ったことがある気はする。
でも悪いんだけど、全然思い出せない。
僕が正直に、
「すみません、どちら様でしたっけ……?」
と伝えると、相手は呆れたように笑った。
「それなら、こう言えばわかるか?」
そう言って、彼はニヤリと口角を上げる。
「――ヤ、マ、ト」
僕をそう呼ぶのは、『ファイモン』関係の人間だけだ。
それですぐに記憶が蘇った。
「タ、タクヤ先輩?」
「おー! やっと思い出したかー!」
そう言うと、先輩は馴れ馴れしく僕の肩を組んできた。
高校の時にファイモンで知り合って、何度かリアルで会った人だ。
相変わらず、スキンシップが激しい。
「ヤマトは相変わらず可愛い顔してるなー」
そう言いながら肩から腕へ腰へと、体をベタベタと触ってくる。
「お、昔より筋肉ついた?」
「……ハァ」
思わず、深いため息が出た。
この人顔もそこそこでおもしろいし、悪い人じゃないんだけど。
この距離感の近さだけが、本当に苦手だ。
……お前も人のこと言えないだろって、城之崎に言われそう。
「なぁ芝浦、この後ヒマ?」
先輩が、昔と変わらない口調で尋ねてくる。
「お兄さーん、お茶しない?」
昭和かよ、1つしか歳違わないのに。
心の中でツッコむ。
まぁ断って、しつこく言われるのも面倒くさい。
僕は釘を刺す意味を込めて、はっきりと答えた。
「お茶『だけ』なら、いいですよ?」
どうせそのあと、ホテルか家に連れ込むつもりに違いない。
こう言っておけば、諦めるはずだ。
昔からこの人はヤれないとわかったら、驚くほどアッサリと帰るからね。
でも今回の先輩は予想外に、パッと顔を輝かせた。
「ヨシ! じゃ行こう!」
そう言って、スタスタと歩き出す。
「え?え?」
僕の言葉など聞こえていないみたいに、先輩はドンドン先に行ってしまう。
……まぁ、久しぶりだしいっか。
僕は諦めて、その背中を追いかけた。
連れてこられたのは先輩らしくない、やけにオシャレな喫茶店だった。
店の入り口には金色の筆記体みたいなので、くらいあで……るねと書かれてる。
ダメだ、全然読めない。
店内にはクラシック音楽が静かに流れていて、僕みたいなヤツが来るような場所じゃないのは確かだ。
先輩は手慣れた感じでお店のスタッフさんに合図を送っている。
すると、奥の個室へと案内された。
……まさかこの人、個室でヤる気か?
僕が警戒心丸出しの目で見ていると、
「なんだよ、その目は」
そう呆れたように言われた。
「さすがに、こんなとこで変なことしねーよ」
と言う先輩に更に疑いの目を向ける。
「え? じゃあ、なんで個室なんですか?」
「ゲイとかバイの話なんて、人目ねー方がしやすいだろ」
平然と言われたその言葉に、僕はハッとした。
『えらい賑やかに、人の恋愛事情を話してはりましたね』
鷲那に言われた言葉が、脳内で蘇る。
そうだ。
先輩ですら、こういう気を使えるのに。
僕は城之崎のデリケートな問題を、公共の場でペラペラと……。
強烈な自己嫌悪に、胸がずきりと痛んだ。
「……おい、なんか知んねーけど大丈夫か?」
心配そうに覗き込んでくる先輩に僕は、
「大丈夫です」
そう力なく答えるしかなかった。
「そっかー」
すると先輩は、早速本題に入ってきた。
「で、最近どーよ?」
あっけらかんと質問してくる。
ちなみにこの人の『最近どーよ』って言うのは、『近頃はお盛んですか?』って意味だ。
……相変わらずド直球な人だよ。
「どうって……」
「いやだから、最近ヤッてんのかって聞いてんの」
わかってないわけじゃないんだって。
「全然ですよ。前に言ったじゃないですか、気になる人がいるって」
「マジかよ!? あれ、まだ続いてんの!?」
先輩が、心底驚いたという顔をする。
「そっすよ」
「じゃあ、ファイモンもやってないの?」
「あーそういえば……全然やってないっすね」
僕のその言葉に、今度は先輩が固まった。
それで気になって、僕はスマホを取り出す。
僕は数年ぶりに『ファイモン』のアイコンをタップした。
アプリが起動して、現在地情報を読み込む。
そして近くにいるユーザーが、トップ画面に表示されて――。
瞬間、僕は立ち上がっていた。
ガタン、と椅子が大きな音を立てる。
「うぉっ、どーしたんだよ芝浦!?」
先輩が驚いて何か言っているが、もう耳には入らない。
僕は慌てて財布から千円札を取り出し、テーブルに叩きつけるように置いた。
「ごめんなさい!」
そう叫んで、僕は店を飛び出した。
数年ぶりに開いた、ファイモンの画面。
一番最初に表示されていたのは『タクヤ』、さっきまで一緒にいた先輩の名前。
そこに他のユーザーの名前も並んでいる。
でもその中に。
その中に、『オーツ』という名前があったのだ。
『オーツ』さんが、近くにいる。
どこにいるかなんてわからない。
でもこの近くにいる。
僕は必死にまわりを探していた。
余計なことなんて、考えられなかった。
ただひたすら『オーツ』さんを探して、走り回っていた。
その時だった。
焦るあまり、足元の段差に気づかなかった。
グニャリと、足首が嫌な角度に曲がる。
「……っ!」
受け身も取れないまま、僕は地面に転がった。
なんとか起き上がるけど、足首に激痛が走る。
捻ったみたい。
でも『オーツ』さんが近くにいると思うと、居ても立ってもいられない。
また探そうと痛む足を引きずって、立ち上がろうとした。
その時。
「無理をしてはダメですよ」
優しそうな、女性の声がした。
「人を探してるんで!」
僕がそう言って行こうとすると、その女性は僕の前に回り込む。
「ちゃんと手当てしてから探さないと、悪化しては完治に時間がかかってしまいます」
「……お医者さん、みたいなこと言いますね」
僕がそう言うと女性は、
「フフっ」
とニッコリ笑った。
「ええ、私は医師ですから」
「え、そうなんですか?なんかすみません……」
僕が謝ると女性は、
「近くに私のクリニックがあるので、来てください」
と言って、僕の肩を支えてくれた。
彼女と一緒に、ゆっくりと歩き出す。
『オーツ』さんに会ったときも足ひねったなと思い出して、なんだか変な気分になった。
「もうすぐ着きますよ」
と女性に言われて、僕は思い切って言ってみた。
「実は僕が探しているのも、お医者さんなんです。」
「あらそうなの? それならもしかしたら私も知っているかもしれないわね」
女性が、柔らかくほほ笑む。
僕は震える声で、その名前を口にした。
「『オーツ』さ……大津、博満先生、です。」
その瞬間、僕を支えてくれていた女性の足がピタリと止まった。
「……どうかしましたか?」
僕が尋ねると彼女は、
「……いえ、なんでも」
とだけ言って、またゆっくりと歩き出す。
やがて白い、清潔感のある建物の前に着いた。
そこには『小澤クリニック』と書かれた看板が、静かに掲げられていた。




