第6話 天国と地獄 芝浦山手の場合
夏休みに入ってからというもの、僕の生活は一変した。
午前中は地獄の補習、そして午後は――天国?
城之崎に勉強を教えてもらう日々が始まったのだ。
どうせ適当に教科書を読まされるんだろうなんて、めちゃくちゃ失礼なことを考えていた。
でも。
「ここの不定詞は、名詞的用法で主語になっているから……」
「この時代の歴史的背景を考えろ。なぜこの条約が必要だったのか、当時の日本の状況と欧米列強の動きを対比させれば……」
城之崎の教え方は、驚くほど分かりやすかった。
僕がどこでつまずいているのかを正確に見抜いて、噛み砕いて説明してくれる。
ときどき質問をしてきてちゃんと自分で考えて理解できるよう促してくれたり、覚えるべきポイントを簡潔にまとめてくれたり。
その手際の良さは、そこらの予備校講師なんか目じゃないだろう。
もっと驚いたのは、その意外なまでの面倒見の良さだった。
僕が集中力を切らしてぼーっとしていると、
「おい、聞いてるのか」
なんて注意しつつさりげなく冷たいお茶を差し出してくれ、難しい問題が解けた時には、
「ふん、やるじゃないか」
と少しだけ口元を緩める。
クールで無愛想な態度は相変わらずだけどそんな城之崎に、僕はどこか不器用な優しさを感じていた。
そうした指導のおかげであれほど苦痛だった勉強が、少しずつではあるけどだんだん分かるようになってきた。
分かるというのは、単純に楽しかった。
「なあ、芝浦」
ある日問題を解き終えた僕に、城之崎が不思議そうな顔で問いかけた。
「お前って理解力は悪くないのに、逆になんで今までこんな簡単なことも出来なかったんだ?」
「えっ?いや……なんでだろ?」
予想外の質問をされて、言葉に詰まる。
城之崎は僕の反応を見てフム、と顎に手を当てた。
「……まぁ大方教えていた連中が、揃って残念なヤツらだったってことだろう」
さらりと言ってのけるあたり、実にコイツらしい。
でもその言葉は、妙に説得力があった。
確かに今までの先生たちは、質問しても教科書に書いてあることを繰り返すだけだったかもしれない。
僕が本当に『分からない』ポイントに、寄り添ってくれる人はいなかった。
そうして迎えた、夏休み中盤の補習組対象の確認テスト。
僕は奇跡的に、全科目で合格点を叩き出した。
これで夏休み後半は、補習地獄から解放される!
「……よく頑張ったな」
テスト結果を見せた時、城之崎がぽつりと呟いた。
その声にはほんの少しだけ、温かさが混じっているように聞こえた。
その瞬間、僕の中で一つの案が浮かぶ。
今だ、今しかない。
「なあ、城之崎!」
「…なんだ?」
「僕、頑張っただろ? だからさ……ご褒美、欲しいんだけど!」
意を決して、そう切り出した。
城之崎は一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐにニヤリと意地の悪い笑みを浮かべた。
その唇の薄い口角が上がるのを見て、少しだけ心が揺れる。
「フン!タダで教えてもらっただけでは飽き足らず、ご褒美まで寄越せときたか。随分と強欲だな」
「い、いいじゃんか! ちょっとくらい!」
城之崎の表情は変わらず、少し考えていた。
「……まぁいいだろう、言ってみろ。内容によっては検討してやらんこともない」
よし、乗ってきた!
僕は大きく息を吸い込み、練習した通りに内心で言った。
「あのさ!今度の日曜夏祭りがあるだろ?……一緒に行ってくれないかな? 実は俺、一緒に行く相手いなくて……」
もちろん、これは大嘘だ。
既に声をかけてくれている女の子も男の子も何人かいる。
でも、駄目なんだ。
僕は城之崎と行きたい。
僕の言葉に、城之崎は不思議そうに眉をよせた。
「変なヤツだな、お前は俺と祭りに行って楽しいと思うのか?」
その声には、純粋な疑問の色が浮かんでいる。
僕は満面の笑みで即答した。
「楽しい! 絶対楽しい!」
「……」
僕のあまりにも即答ぶりに、城之崎は目を丸くして少し驚いたようだった。
そしてはぁと大きなため息をつくと、仕方ないなという表情で言った。
「……分かった、付き合ってやる。祭りなんて久しぶりだな」
やった!
思わず飛び上がりそうになるのを必死で堪える。
……これってデートだよね?
うん、デートだ!
そして、待ちに待った夏祭り当日。
僕は少し気合を入れて、箪笥の奥から引っ張り出してきた白地に水玉模様の浴衣に袖を通した。
慣れない下駄で歩きにくいけれど、気分は最高だ。
ドキドキしすぎて、そろそろ死んじゃうかもしれない。
待ち合わせ場所の駅前広場に着くと、そこにはすでに人影があった。
「……え?」
思わず、固まってしまった。
そこに立っていたのは、シンプルな紺色の浴衣を着た城之崎だった。
普段の制服や私服とは全く違う、凛としたその姿。
浴衣の紺色が城之崎の白い肌を際立たせて、妙に色っぽく見える。
「……城之崎も、浴衣なんだね」
「あぁ」
「着てきてくれるなんて、意外だ」
僕がそう言うと城之崎は、少し申し訳なさそうな顔をした。
「……いや、これには理由があってだな。その、芝浦には先に詫びなければならないことがある」
「え? なに?」
詫びる?
どういうこと?
僕が首を傾げていると、ひょこりと城之崎の後ろから別の浴衣姿が現れた。
淡いピンク色の浴衣に、華やかな帯。
「やっほー!芝浦くん!」
「え?大庭?」
現れたのは城之崎の幼馴染、大庭咲良だった。
彼女はにっこりと満面の笑みを浮かべ、城之崎の腕を指差しながら言った。
「どぉ? この光哉の浴衣! 私が選んで、着付けてあげたんだから!」
嬉しそうに胸を張る大庭。
僕は大庭にでかした、と言いたかった。
城之崎の浴衣姿は実にいい、目の保養になっている。
ただ城之崎との2人きりを邪魔されたのは正直許せない。
大庭は本当に綺麗だ、相変わらず。
浴衣も、もちろん本人も。
いつもの僕だったら、何としても自宅にお持ち帰りさせていただいているだろう。
でもそんな気分には、とてもなれなかった。
城之崎は何とも気まずそうに、頭を掻いている。
「すまん芝浦、こいつがどうしても一緒に行くって言って聞かなくてな」
「えー、別にいいよね? 芝浦くんも一緒に! 人数多い方が楽しいじゃん!」
大庭が、悪気のない笑顔で僕に近づいてくる。
その目が笑っているようで、どこか値踏みするような光を宿している気がした。
あれ?
もしかして、これって威嚇されてる?
学園祭での大庭を思い出す。
『姫は僕が守る、他のヤツに触らせてたまるか……だって?おもしろいこと言うじゃん』
やっぱりわざと邪魔しにきてるよね?
僕がそんなことを考えている間に大庭は、
「さ!行こう!」
そう声を上げて、城之崎の手をぐいっと掴んだ。
「おい、咲良!」
「ほらほら光哉!早く行こうよー!」
そう言って彼女は、城之崎を引きずるように人混みの中へずんずんと進んでいく。
……完全に僕のこと、無視してるだろ。
「いや、僕を置いていくなよ!」
僕は慌てて二人の後を追いかける。
やっと掴んだ、城之崎との二人きりになるはずだった夏祭りデート。
それはもう、一筋縄じゃいかないイベントになりそうだった。




