第61話 テーブルに就く 芝浦山手の場合
朝の光が遮光カーテンの隙間から細く、埃を照らしながら差し込んでいる。
キッチンの方から聞こえる、トントンとリズミカルにまな板を叩く音。
それとフワリと漂う出汁の香りで、僕はゆっくりと意識を浮上させた。
ノロノロとベッドから這い出して、リビングに向かう。
そこには、当たり前のようにエプロンをつけた城之崎がいた。
ソファにドサリと腰を下ろして、その小柄な背中を眺めた。
「できたぞ」
湯気の立つゴハンと焼き鮭、キレイな黄色のだし巻き卵とほうれん草のおひたしが添えられている。
イメージ通りの日本の朝食だった。
向かい合って席について、手を合わせる。
……気のせいかな、城之崎もこっちを伺ってるような気がする。
味噌汁をすする音だけが、やけに大きく部屋に響いた。
何か言わないと。
この空気を変えなければ。
思い切って僕が口を開こうとした、その瞬間。
「「あの」」
僕らの声は、ビックリするくらいピッタリ重なった。
シン、と静まり返る食卓。
あまりにもベタな展開で僕は思わず、
「いやベタすぎるだろ!」
とツッコんだ。
するとうつむいてた城之崎の肩が、
「ふっ」
と小さく震えた。
そのまま我慢できないというように、クックッと笑い声を漏らし始める。
その楽しそうな声に引っぱられて、僕も声を上げて笑った。
張り詰めていた空気が、少しだけ緩んだ気がした。
「お前も、話があったんだな」
城之崎が頷くのを見て、僕は言った。
「じゃあ帰ってきてから、お互いちゃんと話そう」
その提案に城之崎は、
「あぁ」
と静かに頷く。
それから安心したような顔で、ゴハンを口に運んだ。
仕事を終わらせて人ごみにもみくちゃにされながら、帰宅のため駅に向かう。
駅前の広場でベンチに座って何やら熱心に話し込んでいる、見慣れた二つの人影を見つけた。
能田ちゃんと、敷島優雅だ。
声を掛けるより先に二人の会話が耳に入ってきて、思わず足を止めてしまう。
「てかさー、『コウヤマ』ってなんかゴツくない?『キノシバ』のほうがかわいーじゃん」
気だるげに頬杖をつきながら、敷島が言う。
「可愛さの問題ではありません!『コウヤマ』は『コウヤマ』なのです!」
能田ちゃんが拳を握りしめ声を上げる。
「んー、でもあーし的には、『キノシバ』より『シバキノ』のがしっくりくるかも、シバってあー見えて意外とって気がすんだけど」
「解釈は人それぞれですが、私の最推しが『コウヤマ』であることは未来永劫変わりません!」
熱弁をふるっていた能田ちゃんが、不意に僕に向き直る。
「芝浦くん!どう思いますか!?」
「あ、シバじゃんおっすー」
敷島が手をヒラヒラさせる。
「いや、気づいてたのかよ!」
僕がツッコむと、能田ちゃんははっとしたように深々と頭を下げた。
「あ!せ、先日は大変失礼いたしました……!」
「いやいや僕のほうこそ、勝手に帰っちゃってゴメンね」
僕は首を横に振って、少し考えてから言った。
「ちなみに能田ちゃんには前にも言ったかもだけど、僕は正直どっちでもいいんだよね。でも城之崎はどうなんだろ」
そして、一番の核心を口にする。
「というかそもそも僕たちはそういう関係じゃないからね」
その言葉に能田ちゃんが、
「ええっ!?」
と素っ頓狂な声を上げた。
「一つ屋根の下に2人っきりなのに!?」
本気で驚く能田ちゃんを敷島が、
「はいはいこの子はあーしが責任持って連れてくから安心してー」
と慣れた様子で引きずっていく。
その背中を見送りながら、なんだかんだいいコンビだなと僕は小さく思った。
部屋のドアを開けると、リビングの明かりがついていた。
城之崎は先に着いていたらしい。
「おかえり」
「ただいま」
短い挨拶を交わす。
城之崎は手際良く紅茶を淹れる。
ローテーブルに湯気の立つ紅茶と、有名な洋菓子店のクッキーが用意された。
その完璧な準備に、今夜話をするという城之崎の固い決意を感じ僕はゴクリと喉を鳴らした。
紅茶の香りが、静かな部屋に満ちている。
それをちょっと口にしてから、城之崎がポツリポツリと話し始めた。
その声は静かに、でも確かに響いた。
「俺は前から時々、何の前触れもなく意識を失うことがあってな。最初は何か身体の病気だと思って、親が色々な病院に連れて行ってくれたんだ。脳波もMRIも、考えられる検査はほとんど全部受けた。だが結果はいつも『異常なし』、原因がわからないっていうのが一番不気味だった」
そう語る城之崎の声には、当時の不安が滲んでいた。
僕はただ、相槌を打つことも忘れて聞き入った。
「それで最後に診てもらった大学病院の先生が、もしかしたらこれは心の問題かもしれないって言ったんだ。そこで初めて、『心因性』という診断をされた。原因不明の化物ではなく正体があるものなんだとわかったような気がして、少しだけホッとしたのを覚えてる」
「その先生が専門のカウンセリングを受けてみたらどうかって、紹介してくれたのが『小澤クリニック』だった。そこでカウンセリングを受けるようになってから、症状はかなり改善した」
城之崎にとって、そのクリニックがどれほどの希望だったかが伝わってくる。
「だが担当してくれていた小澤先生のご主人が自殺してしまった、それでクリニックも無期限で休診になってしまった」
「なんで自殺なんて……」
僕が呟くと城之崎は視線を落とし、静かに続けた。
「実は小澤先生はクリニックの院長で、ご主人は婿養子だったんだ。最後にカウンセリングを受けた日に、そのご主人にケガを診てもらったんだけど、すごく疲れているというか……悩んでいる様子だった。特に子どものことでは、何かあったみたいで」
子ども……。
紅茶の味が、一瞬にして苦い灰のように変わる。
また心の奥底に冷たくて黒いインクが一滴、ポタリと垂れてジワリと広がっていく感覚。
僕はそれを懸命に振り払うように、まだ温かいカップを強く握りしめた。
「それに小澤先生のお姑さん、ご主人のお母さんも亡くなったばかりだったらしくて。それも影響したのかもしれないとの事だった」
「そうか……城之崎はカウンセリングを受けられなくても大丈夫なのか?」
「まあ少しくらいならたぶん、落ち着いたら小澤先生に相談して、再開が難しいなら別の先生を紹介してもらうつもりだ」
「そっか」
僕がそう返事をすると城之崎はすっと立ち上がって、僕の前で深く頭を下げた。
「いつか話そうとは思っていたんだ、すまなかった」
その真摯な謝罪に、僕はワザとちょっとふざけたような口調で言った。
「なんでそんなこと謝るんだよ!別に僕ってただの高校の時の同級生で、たまたま家に住ませてもらっているだけの居候だからさ。別に話さなくても、それが普通だって」
それが僕たちの距離だ。
そう言い聞かせた、その時。
城之崎は、ゆっくりと顔を上げた。
その真っ直ぐな瞳が、僕の作った脆い壁を射抜く。
「そんなことはない」
キッパリと、力強い声で。
僕は何も言えなかった。
ただその言葉の重さを全身で受け止めながら、黙って彼を見つめ返すことしかできなかった。




