第56話 自分で蒔いた種 芝浦山手の場合
城之崎の行ってらっしゃいという照れの混じった声が、まだ耳の奥で温かく響いてる。
僕はほとんど無意識に緩みそうになる口元を手で隠しながら、浮ついた足取りでマンションを出た。
途中までの新鮮な通勤路に、今日は世界がちょっとだけ輝いて見えた。
アスファルトの隙間から咲く小さな花とかショーウィンドウに映る自分の顔、電車の窓から流れていく景色。
束の間の新たな景色をじっくりと味わう。
なんか一気に状況変わったな。
城之崎はどういう気持ちなんだろ、考えるけど答えなんてでない。
「あ」
もう駅に着いちゃった、電車に乗ったらいつもの通勤路ど変わらない。
会社に着くのもそれほどかからない。
「芝浦くんおはよ、ついて早々何か良いことでもあった?」
職場に着いて席で荷物を降ろしていると、デスクの向かいに座る同僚の女性がすぐにニヤニヤしながら言ってきた。
「え、わかります?」
僕はとびっきりの笑顔でそう返す。
すると彼女は、
「顔に『幸せです』って書いてあるよ」
って言って呆れたように笑う。
「で、何があったの? 彼女でもできた?それとも彼氏?」
僕は職場でも公言してるので、これがいつもの反応だった。
「ふふっ、どうですかね」
僕は得意の営業スマイルで人差し指を口元に当ててほほ笑む。
我ながら最高にウザいだろうなと思うけど、口元が緩むのは止められなかった。
心の中の幸せが、蓋をしてもジワジワと溢れ出てくるから仕方ないよね。
僕は上機嫌なまま、仕事に取り掛かった。
昼休み。
同僚たちといっしょに、昼食のために外へ出る。
会社の近くの交差点で信号待ちをしてると、人混みの中に見覚えのある小さな後ろ姿を見つけた。
「……能田ちゃん?」
間違いない。
こないだのパーティーの時と同じ、少し俯きがちなその姿は間違いなく能田ちゃんだった。
「すみません、ちょっと知り合いを見かけたんで!」
僕は同僚たちにそう断って、青に変わった信号を渡る人波をかき分けて彼女を追った。
「能田ちゃん!」
後ろから声を掛けると、彼女はビクッと肩を揺らして驚いたように振り返った。
「あ、芝浦くん! どうしてここに?」
「こっちのセリフだよ、僕の会社の近くだからさ。能田ちゃんこそ、大学この辺だったの?」
「そうなんです、スゴい偶然ですね」
「だね、僕今からちょうど昼休みなんだよ。良かったらこのままどっか食べに行かない?」
「はい!ぜひ!」
彼女はちょっと驚いてたけど、嬉しそうに頷いた。
2人で入ったのは大手ハンバーガーチェーン『ミクドナルド』、通称『ミック』だ。
ツインテールで緑色の髪をした女の子が、巨大なネギを振りかざして『ミックにしてやんよ!』と甲高い声で叫んでいるアニメーションが店内のモニターで延々と流れている。
「芝浦くん、お仕事はどうですか?」
席に着いてポテトをつまんでいると、能田ちゃんがおずおずと尋ねてきた。
「まぁ順調だよ、大学の方はどう?」
「ボチボチです、でも……」
彼女はストローでドリンクをかき混ぜながら、力なく笑う。
「高校の時と比べると、ちょっと物足りないというか」
「物足りない?」
「はい、『コウヤマ』に代わるものをまだ見つけられていないので」
あぁなるほど。
彼女の創作意欲、ひいては生きる活力を支えていた僕と城之崎のカップリング。
……自分で言うのはハズすぎる。
それが供給断絶となった今、彼女は渇きを覚えてたみたい。
ションボリと俯く能田ちゃんを見て、僕の中にちょっとしたイタズラ心が芽生えた。
能田ちゃんが干からびちゃう前に、ちょっとネタでも投下しよう。
僕はわざとらしくコーヒーを一口飲むと、何でもないことのように言った。
「実は僕今――城之崎と一緒に住んでるんだ」
嘘じゃない、けど明らかに誤解を招く表現というやつだろう。
次の瞬間。
「――なっ、何ですってえええぇぇぇっ!?」
能田ちゃんは店中に響き渡るような大声を上げた。
そしてガタガタとテーブルを揺らしながら鞄から手帳を取り出すと、凄まじい勢いで何かを書き込み始める。
「ど、どど、同棲……! ついに、あの卒業式の日から途切れていた二人の赤い糸が、運命の引力によって再び……! ああでも、どちらの部屋で? ……そうか!先日の芝浦くんの部屋の事故で、城之崎くんの家に芝浦くんが転がり込んでそのままなし崩しに……! そうなると夜の主導権は……いや待て、ベッドは一つなのかそれとも……!? 最初の夜はやはり芝浦くんの襲いウケ……! お風呂上がりの濡れた髪の城之崎くんが、火照った顔で……!」
書き込みながら、その妄想は全て口からダダ漏れになっていた。
ヤバい、想像以上にスイッチが入っちゃったみたい。
「ちょっと能田ちゃん! 違う、そうじゃなくて! 本当は一時的に居候させてもらってるだけで……!」
僕は慌てて真実を話すが、もはや彼女の耳には届いていない。
その目は完全にイっちゃってる、手帳を前にブツブツと妄想の続きを呟いている。
そのあまりに生々しくて恥ずかしい妄想の内容に、僕の顔はみるみるうちに青ざめていった。
こうなれば僕にできることは1つしかない。
「……ゴメン、僕仕事に戻るね」
僕は店員さんに持ち帰り用の紙袋をもらうと、注文したばかりのバーガー類を紙袋に詰め込む。
妄想の世界に旅立ったままの能田ちゃんと、『お前コイツ置いてくのかよ』と顔に書かれた店員さんをその場に残して会社へと逃げ帰った。
席に戻ると案の定、さっきの同僚の女性が僕の顔を見てギョッとしてた。
「芝浦くんスゴい顔してるけど……なんかあったの?」
「……内緒です」
僕は力なくそう言うと、自分の席で冷たくなりかけたバーガーを虚しくかじった。
午後の仕事中も能田ちゃんのダダ漏れの妄想が何回も頭をよぎって、僕はその度に悶え苦しんだのだった。




