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本当に大事なものは  作者: 城井龍馬
社会人・大学生編
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第55話 不穏の匂い 城之崎光哉の場合

今日の分の講義が終わり、俺は一人喧騒から離れて思考に耽っていた。


そう言えば、本を返さないと。


アラン・チューリングの伝記。


昔から彼の生涯や功績を記した本は、たまにどうしようもなく読みたくなるのだ。


俺は鞄を持ち直し、大学図書館へと足を向けた。


途中キャンパスの中庭で数人の学生が屯して、何やら不満げに声を荒げているのが聞こえた。


「マジでありえねえ、金田教授の授業単位どうなるんだ?」


「せっかく抽選通ったのに」


金田教授のゼミ……?


その幸運を享受しているだけでも十分だろうに、何をがたがたと抜かすことがあるんだ。


そう思い俺は少しだけ彼らに意識を向け、会話に聞き耳を立てた。


どうやら、今日の授業が急遽中止になったらしい。


「スマホの掲示板で一時間前に急に言われてもな、ふざけんなよ」


学生向け掲示板か。


大学の公式ホームページにも何か情報があるかもしれない。


俺はスマートフォンを取り出して確認する。


そこには彼らの不満の原因と思われる、不穏な知らせが記されていた。


【金田教授のご家庭の事情により、本日以降の授業は一旦全て中止といたします。再開の目処は現状未定です】


S1ターム、春学期が始まったばかりだというのに随分と穏やかではない。


それと同時にあの金田教授に家庭があったのか、という事実に少し驚いた。


確か指輪はしていなかったはずだ。


……いや、あの年代の方は結婚をしていても指輪をしない方も多い。


何より人の家庭事情をあれこれ詮索をすべきではない。


俺は小さく己を省み、スマートフォンの画面を閉じた。


元の目的を思い出し、図書館へと向かう。


荘厳な建物の自動ドアを抜け、返却カウンターへ向かおうとした。


その時だった。


「キノ!」


背後から、やけに明るい声が飛んでくる。


俺をその愛称で呼ぶ人間を、俺は一人しか知らない。


振り向くと、派手な色のパーカーを着た小柄な女性――敷島優雅が、笑顔でこちらへ駆け寄ってくるところだった。


「敷島か、お前が図書館にいるなんて珍しいな」


「確かに! まぁキノなんて、ここに住んでるようなもんじゃんね」


軽口を叩きながら敷島は、


「ちょっと借りたい資料があってさ」


と続けた。


フェルマーの最終定理についての資料らしい。


「アンドリュー・ワイルズとか?」


俺がそう言うと彼女は、


「え!もしかしてキノ、詳しかったりすんの?」


と目を輝かせた。


「まあ、それなりだろうか」


詳しく聞けば、定理の証明自体は理解したと言う。


アンドリュー・ワイルズによる証明の論文は100ページ以上。


もちろん書かれているのは数字と記号と英語がびっしり。


……ちなみに俺は読んでいる途中で、頭の中が真っ白になった。


そのフェルマーの最終定理が証明されるまでの三百数十年にも及ぶ歴史、その背景を知りたくなったらしい。


「そうだな、まず話は17世紀。フェルマーが愛読書『算術』の余白にある定理と一緒に『この命題の真に驚くべき証明を持っているが、余白が狭すぎる』と挑発的なメモを残したことから始まる。後世の数学者たちは、この一文に三百年以上も振り回されることとなる」


「ヤバ!めっちゃ煽るやん!」


敷島は楽しそうだ。


「ああ、オイラーやソフィー・ジェルマンといった天才たちが挑んでも部分的な証明しかできなかった。完全証明への道は、日本の数学者が提唱した『谷山–志村予想』という全く別の理論によって、思いがけない形で開かれた」


「なんか運命的じゃん……!」


「その繋がりを証明し、七年間もたった一人でこの問題に挑み続けたのが、アンドリュー・ワイルズだ。彼は幼い頃からこの定理に憧れていた。そしてついに証明を完成させ講演の最後に、静かにこう締め括ったんだ。『ここで終わりにしたいと思います』と」


俺は続ける。


「だが本当のドラマはここからだ、発表後証明に致命的な誤りが見つかった。ワイルズ自身、『全てが崩れたと絶望した』と語っている。一年以上も修正に取り組んだが、絶望は深まるばかりだった。しかしまさに諦めかけたその瞬間、彼は修正のアイディアを閃いた。その時のことを、彼は『人生で最も美しい瞬間だった』と言っている」


敷島はと言うと、口を開けてぼんやりと話を聞いているようだ。


「こうやって見るとフェルマーの最終定理の歴史は、ただの数式の話などでは決してない。挑戦・発見・失敗・執念――人間ドラマそのものだ」


俺の語りに敷島は、


「いやドラマってかもはや映画じゃん……」


と言って目を輝かせた。


敷島ははっとして、


「ヤバいヤバい!……ところで、キノは何しに?」


「アラン・チューリングの本を返しに」


敷島はまたしても目を輝かせた。


「エニグマじゃん!」


先程と同様に彼女のテンションが上がる。


「詳しいのか?」


と俺が聞くと、


「まあ、それなりだろうか」


と明らかにさっきの俺を真似て彼女は答えた。


「誂うなよ、詳しいのなら教えてくれ」


と言ったのがスイッチとなる。


ギン、と音が聞こえて来そうな目でこちらを凝視して来た。


「ヴァルツェン三枚の順序とリングシュテルング、それにシュテッカー盤の組み合わせで鍵空間は10の20乗を超える。ブルートフォースは不可能。だからチューリングはクリブを使ったの。平文と暗号文の論理的整合性の矛盾だけを突く。ボンベはクリブから想定されるダイアグラムのループを電気的に高速テストするマシン。エニグマは自己暗号化しない、その構造的欠陥がトリガーになる。論理矛盾の連続棄却で候補を絞り込む。思考の機械だよあれは!」


息継ぎもせず専門用語の奔流を浴びせられ、俺は完全に置いて行かれた。


もはや外国語を聞いているのと何も変わらない。


と言うかもはや喋り方すら変わっていないか?


「……すまん敷島、もう少しわかりやすくお願いできないか?」


俺がそう言うと彼女は申し訳なさそうに、


「あー、ごめん!」


と頭を掻いた。


「あーし人に教えるのまじ無理なんだわ……感覚で喋っちゃうから」


「いや大丈夫だ、ならばこちらから聞こう。まず、『ヴァルツェン』っていうのは、回転する円盤みたいなものだな?」


「そそ回転子、中にごちゃごちゃーって配線があって入ってきた文字を別の文字に変えるの」


「それが三枚重なっていてキーを打つたびに回転して、組み合わせが変わっていく……と。じゃあ、『シュテッカー盤』っていうのは?」


「ああそれはヴァルツェンに入る前と、出てきた後。ケーブルを繋いで、特定の二文字を強制的に入れ替える追加パーツ。AとBを繋いだら、Aって打ってもBの電流がヴァルツェンに流れるし、逆にXって打ってヴァルツェンからBの信号が出てきても、Aのランプが光るわけ」


なるほど。


暗号化の前後にもう一段階、別の暗号化を仕掛けているのか。


「チューリングが使った『クリブ』っていうのは、定型文のことだな?」


「正解。例えば毎朝の天気予報とか、文末の『ハイル・ヒトラー』とか。暗号文の中に元の単語が分かってる部分があれば、そこを手がかりにできるってわけ」


俺は頭の中で彼女が放った情報の洪水を、一つ一つ整理していく。


断片的な知識が質問を重ねるごとに、少しずつ意味のある形に繋がっていく。


「……つまりチューリングは元の単語と暗号化された単語を比較してその日の『鍵』、つまりヴァルツェンの並びやシュテッカーの設定を推測することでその仮説が正しいかどうかを機械で高速に検証したということか。」


「まあ超ざっくり言えばそんな感じ! さすがキノ、理解はえー」


敷島はあははと嬉しそうに笑う。


俺は全霊を掛けて彼女の説明を噛み砕き、ようやくその巨大な論理体系の入り口に立つことができたという感じだった。


「キノはさ、チューリングの人生にも詳しいの?」


「まあ……多少は」


俺は彼の功績について語り始めた。


「彼は今ある全てのコンピューターの理論的な基礎になった『チューリング・マシン』の概念を、二十代前半で考案したまさに天才だ。そしてさっきお前が話してくれた通り、第二次世界大戦ではブレッチリー・パークでエニグマ解読の中心的な役割を果たし、戦争を少なくとも二年早めた。それにより数千万人の命を救ったと言われている」


そこまで一気に話すと、俺は口が動かなくなった。


ここから先だ。


アラン・チューリングの人生は、輝かしい功績だけでは終わらない。


暗く、理不尽な続きがある。


それを今ここで言うのは憚られた。


俺自身にとって、それは他人事ではないのだ。


「……キノ?」


俺が黙り込んだのを、敷島が不安そうに覗き込む。


「いや……彼の功績には、悲劇的な結末が待っている」


なんとか声を搾り出した。


「戦争を勝利に導いた英雄アラン・チューリングは同性愛者だった、そして当時のイギリスではそれが犯罪だった」


「は?」


敷島が、素っ頓狂な声を上げる。


「国を救った彼は有罪判決を受けた。彼は投獄を避ける代わりに化学的去勢、つまり女性ホルモンの投与を選ばされたんだ。その結果心身を蝕まれ、走り続けることが生き甲斐だった彼は走ることさえできなくなった。そして……最後は青酸カリで自殺したとされる、不可解な死を遂げた」


俺が全てを話し終えると、敷島はしばらく黙っていた。


が、やがて心の底から呆れたように一言、


「アホくさ」


と呟いた。


「アホ臭い……か」


俺はその言葉に、少なからず傷ついた。


だが敷島は続ける。


「人が誰を好きかなんてその人の勝手じゃん、なんで周りが口出すわけ? 法律がどうとか世間体がどうとかマジ意味わかんね、どーでもいいじゃんそんなん。ほっとけよって話だよ、キノもそう思わん?」


あまりにも真っ直ぐなその言葉を聞き、その軽やかな響きは心の最も深い場所にストンと落ちてきた。


そうして俺は、『アホくさ』と言った敷島の意図を取り違えていた事を理解した。


「……世の中の皆が、お前みたいだったら良かったのにな」


俺がそう言うと敷島は、


「でしょ?」


と笑った。


敷島と別れ、一人で帰路につく。


彼女の言葉が温かい灯りのように胸に残っていた。


敷島の様な考えが一般的であれば、俺の様な存在ももう少しは生きやすくなるのだろうか。


……埒もない事を考えてしまった。


だがもしそうなれば、俺は意識を失う事は無くなるかもしれない。


小澤先生も心因性だと言っていたしな。


……小澤先生?


そうだ。


小澤クリニックの次の予約を入れるのを、すっかり忘れていた。


俺は立ち止まり、すぐにクリニックへ電話を掛けた。


受付の女性が出て、予約を取りたい旨を伝える。


『申し訳ございません、現在心療内科の小澤舞先生ならびに形成外科の外来予約を全て停止しておりまして……』


「え……?」


どういうことだ?


俺は理由を尋ねた。


そして電話口から告げられた言葉に、俺は耳を疑った。

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