第51話 不協和音 城之崎光哉の場合
芝浦がスーツを取りに部屋を出ていく。
ぱたんと閉まったドアの音が、やけに大きく部屋に響いた。
さっきまでの静けさとは、また違った静寂が満ちる。
芝浦が残していった熱と投げかけてきた言葉の余韻が、まだ空気中に溶けているようだった。
『この後、どうしよっか?』
あの問いに、俺の心臓は鷲掴みにされたかのように跳ねた。
「我ながら、芝浦にどう応えようとしてたんだろうな」
そう一人呟いた。
散らかったローテーブルの上を片付けながら、自然と口元が緩む。
パーティーは混沌としていたが、不思議と心は満たされていた。
芝浦が、俺の言葉の本質を誰よりも正確に理解してくれたこと。
あの時の胸にじんわりと広がった安堵と喜びは、今も温かい。
その穏やかな感傷を打ち破るように、テーブルの上のスマートフォンが鋭く振動した。
画面に表示された名前に、俺は息を呑む。
『小澤クリニック』
しまった!
完全に頭から抜け落ちていた。
今日は、心療内科の予約を入れていた日だ。
「っ、すみません城之崎です!」
慌てて電話に出ると、受付の女性の落ち着いた声が鼓膜を揺らす。
時計を見れば、予約時間はとうに過ぎていた。
「大変申し訳ありません、完全に失念しておりました。今から……三十分ほどで着けるかと思うのですが、ご迷惑でなければ診ていただくことは可能でしょうか?」
我ながら情けない話だ。
しかし受付の女性は、
「大丈夫ですよ、先生にお伝えしておきます。お気をつけていらっしゃってください」
そう優しく応じてくれた。
小澤クリニックは割と遅くまで開いていることに救われた。
「ありがとうございます……!本当に、すみません」
感謝を述べ、通話を切る。
途端に、どっと冷や汗が噴き出した。
急いで上着を羽織り、クリニックへ向かう。
もうすぐ着くという所で、はっとした。
芝浦に何も伝えていない。
あいつは今頃、部屋に戻るためにマンションへ向かっているはずだ。
『すまない急用ができた、少し家を空ける。悪いが中で待っていてくれ、もしかしたら遅くなるかもしれない』
走り書きのようなメッセージを『PINE』で送る。
ただ心療内科に行くというのは余計な心配を掛けそうで憚られた。
すると間髪入れずに『PINE』という軽快な通知音が鳴った。
画面には、芝浦からの『了解』の一言。
その素早い返信に、まずい状況の中にもかかわらずふっと心が軽くなる。
俺が送った直後に読んだということは、あいつも俺のことを気にしていたのかもしれない。
そんな思考を振り払いクリニックで着信音が鳴ってはまずいと、慌ててマナーモードに切り替える。
そして、半ば駆け出すように先を急いだ。
急ぐ気持ちが、足元への注意を疎かにさせたのだろう。
クリニックへと続く歩道の僅かな段差につまずき、俺は無様に前のめりに転倒した。
「……っつ!」
咄嗟に手をついたが、アスファルトに擦れた掌にじりじりと熱い痛みが走る。
見れば手のひらの皮がめくれ、血が滲んでいた。
「……大したことないか」
服についた砂を払い、立ち上がる。
痛みよりも、予約に遅れている焦りが勝っていた。
幸い、クリニックはもう目と鼻の先だ。
俺は傷ついた手を軽く握りしめ、再び歩き出した。
「先生、遅れてしまって本当に申し訳ありませんでした」
俺は診察室に入るなり、深々と頭を下げた。
白衣をまとった女医の小澤舞先生は、
「大丈夫よ、気にしないで」
と穏やかに微笑む。
三十歳くらいの女性医師だ。
彼女には体育祭で倒れて以来、稀に意識を失うことがあるという症状を相談している。
今のところあれ以来人前で意識を失うことはなかったが、流石に心配だった。
大学病院の精密検査でも原因が分からず、紹介されたのがこのクリニックだった。
ここには、定期的に通っている。
セクシャリティのこと、母とのこと。
誰にも言えなかった胸の内を、この場所でだけは少しだけ吐き出すことができた。
「それで最近はどう?何か変わったことはあった?」
促されるまま、俺はぽつりぽつりと最近の出来事を話す。
芝浦とのこと、友人の誕生日パーティーのこと。
感情の大きな波に揺さぶられた数日間を言葉にすることで、絡まっていた思考が少しずつ解きほぐされていくようだった。
話終える頃には強張っていた肩の力が抜け、心なしか胸の内が軽くなっていた。
「少し顔つきが良くなったわね、じゃあ今日はこれで――あら?」
立ち上がろうとした俺の手元を見て、小澤先生が眉を顰めた。
「その手、どうしたの?」
「ああこれですか、さっき転んだんです。大したことありません」
「ダメよそういう油断が一番いけないの、化膿したら大変よ。伝えておくからうちで診てもらっていきなさい」
先生の有無を言わさぬ口調に、俺は頷くしかなかった。
形成外科の待合室でしばらく待っていると、やがて名前を呼ばれた。
診察室に入ると、そこにいたのは四十代後半くらいのどこか少し草臥れた印象の男性医師だった。
彼もまた、『小澤』という名札を付けている。
「傷、見せてください」
促されるままに手を見せながら、俺は気になっていたことを口にした。
「あの……先生、もしかして心療内科の舞先生とは……」
俺の言葉に男性医師は一瞬だけ動きを止め、それから疲れたように微笑んだ。
「ええ、妻がいつもお世話になっています」
舞先生は三十歳くらいに見えたから、少し年の差がある夫婦なのだろう。
それにしても、夫であるこの先生は随分と疲れているように見える。
「先生、少しお疲れですか?」
思わず尋ねると彼は少し考える間を置いてから、ぽつりと言った。
「……最近、子供がやんちゃで」
「お子さんいらっしゃるんですね、おいくつなんですか?」
そのままの流れで質問する。
「もうすぐ、五歳になります」
「五歳、一番かわいい時期じゃないですか」
世間話のつもりでそう言うと先生は、
「まぁ……」
とだけぼそりと呟く。
それは肯定とも否定ともつかない、微妙な相槌だった。
その表情に何か複雑な事情があるのかもしれないと考えた俺は、それ以上詮索するのをやめた。
手際よく傷の処置が終わり、礼を言って診察室を後にする。
クリニックを出てスマートフォンを確認した瞬間、俺は自分のミスに気づいた。
画面には、不在着信とPINEの通知がずらりと並んでいる。
マナーモードにしたつもりが、どうやら無意識にサイレントモードにしてしまっていたらしい。
そしてその通知は全て、芝浦からのものだった。
『入れない』
『悪い、オートロックの暗証番号がわかんない』
『電話出てー』
『まだかかる?』
『何かあったの?』
メッセージの時間は、三十分も前から続いている。
情けない、今日は本当にミスばかりだ。
心臓が嫌な音を立てて跳ねる。
俺は慌てて芝浦に電話をかける。
だがコール音が虚しく響くだけで、彼が出る気配はない。
PINEのメッセージにも、既読が付かない。
あいつは大丈夫だろうか?
まさか、何かあったのか?
良くない想像が頭を過ぎる。
俺は滲む汗も拭わず傷ついた手の痛みも忘れ、ただひたすらに自宅マンションへと続く道を急いでいた。




