第50話 割れ物注意 芝浦山手視点
「この後、どうしよっか?」
意を決して尋ねた。
パーティーの喧騒が嘘のように消え去った祭りの後のような静けさが、部屋を支配する。
ピザとチキンの匂いが、まだちょっとだけ空気に残ってた。
心臓の音だけが、やけに大きく響いている気がした。
目の前の城之崎は、ただ真っ直ぐに僕を見つめ返してくる。
その瞳からは何を考えているのか、僕には分からない。
揺れているようにも、何かを堪えているようにも見えた。
ただその視線から、もう僕は逃げることはできないだろうということだけは漠然と理解していた。
「……え?」
城之崎の唇から、か細い声が漏れた。
その瞬間張り詰めていた空気がまるで水面に落ちた雫の波紋のように、ほんの少しだけ揺らいだ気がした。
城之崎が何かを言いかけた、まさにその時だった。
『PINE』
間の抜けた電子音が、静寂を切り裂いた。
その無機質な音に、僕たちの間にあった特別な何かがパチンと音を立てて弾けた気がした。
通知音に、城之崎の肩がビクリと跳ねる。
彼は慌てたようにポケットからスマートフォンを取り出すと画面チラリと見て、どこかホッとしたように見える。
それでいてちょっとだけ残念そうな、あまりにも複雑な表情を浮かべた。
「……鷲那から『今日はありがとうございました』って……あぁ、芝浦にもお礼を言っておいてくれだそうだ」
鷲那。
その名前が出た瞬間僕たちの間にあったあの特別な空気は、まるで幻だったかのように立ち消えてしまった。
またアイツか。
ここにいなくても、いとも簡単に僕たちの間の空気をリセットしていく。
心の中で、悪態をつかずにはいられなかった。
「そうなんだ」
湧き上がる失望感を隠すように、短くそう答えるのが精一杯だった。
城之崎はそのメッセージをきっかけに、我に返ったようだった。
それから一度咳払いをすると、今度は僕の足元に置かれたボストンバッグに視線を移す。
それからいつもの淡々とした口調で言った。
「お前のその鞄、まだ服を詰め込んだままだろう。早く出してクローゼットに入れないと、皺になるぞ」
「あ、あぁ……そうだね」
仕切り直しだ。
完全に。
僕は内心で深いため息をつきながらも、
「はーい」
と気の抜けた返事をして立ち上がった。
クローゼットに持ってきた服をかけていく。
そんな僕の背中に、城之崎がふと尋ねてきた。
「そういえばお前、スーツはいいのか?明日から仕事だろう」
「あ」
言われて、完全に忘れていたことに気づく。
そうだ、明日から僕はこの部屋から会社に出勤するんだった。
仕事の資料は持ってきたのに、肝心のスーツを忘れるなんて。
「ヤバい忘れてた、ゴメンちょっと取ってくるよ」
僕がそう言うと城之崎は、
「その間にこっちの片付けはしておくから、早く行ってこい」
そう背中を押すように言ってくれた。
急いで自分の部屋へと向かう。
マンションまでの道を早歩きしながら、さっきまでの出来事を思い出す。
あの沈黙と空気。
そして城之崎の、
「え」
という一言。
ふと高校の時の修学旅行、『大鷲の間』での出来事が脳裏をよぎる。
あの時も、あと一歩で何かが変わるかもしれなかった。
そして、大庭に邪魔された。
今回もあと一歩で、何かが変わったいたんだろうか。
それとも、何も変わらなかったのか。
鷲那のメッセージに、邪魔をされたのかな。
水浸しになった自分の部屋に着くと、カビ臭いような湿った空気が鼻をついた。
僕は早速、クローゼットの奥にかかっていたスーツに手を伸ばす。
ハンガーごと取り出して、3着まとめて慎重に収納袋に入れる。
他に忘れ物はないかと部屋を見渡すと、洗濯機置き場が目に付いた。
天井のシミが、まるで治らない傷跡のように見えた。
僕は小さくため息をつく。
あ、ネクタイとかワイシャツも持っていかないと。
そう気づいて再びクローゼットを開けた時、棚の奥に置かれた小さくて上質な紙の箱が目に入った。
3年前のクリスマスに、城之崎から貰った万年筆。
あいつは僕が鷲那にあげたボールペンと同じ、文房具というジャンルを選んでくれた。
何か通じる物があったのだろうか。
それとも単なる偶然か。
あの時、ものすごく嬉しかったのを覚えている。
僕はその箱をそっと手に取って中の美しい深い青色の万年筆を確かめると、鞄の奥にできるだけ優しくしまった。
城之崎のマンションへと向かう帰り道、またスマホが震えた。
城之崎からのPINEのメッセージだった。
『すまない急用ができた、少し家を空ける。悪いが中で待っていてくれ、もしかしたら遅くなるかもしれない』
急用?
まぁ、それなら仕方ないか。
『了解』
そう返事をしていると、マンションのエントランスに着いた。
オートロックのパネルの前に立つ。
それで、はたと気がついた。
「……あれ?」
結局まだ暗証番号、聞いてなかったな。
慌てて城之崎に『入れない』とメッセージを送る。
だがトーク画面には、いつまで経っても『既読』の2文字がつかない。
電話をかけても呼び出し音が、静かなエントランスホールに虚しく響くだけだった。
あれ?
これって、結構ピンチじゃない?
僕はスーツと鞄の奥にしまったあの温かい思い出の万年筆を抱えて立ち尽くす。
高級マンションのきらびやかなエントランスの前で一人、途方に暮れるしかなかった。




