第45話 上には上がいる 城之崎光哉の場合
大学の図書館で借りていた資料の返却期限を、俺はすっかり忘れていた。
自分の記憶力のなさを呪いながら、春休みだというのに大学のキャンパスに来ていた。
今日から芝浦が来るという、まさにその日に。
万が一、俺がいない間にあいつが来たらどうする。
オートロックや鍵は暗証番号なので伝えられなくはないが、一人で部屋に待たせるのも気が引ける。
そう考えた俺は、家を出る前に咲良に連絡を取り事情を話した。
俺の部屋で留守番をしてくれるよう頼んでおいたのだ。
『光哉の頼みなら仕方ないなー!』
あいつは二つ返事で快諾してくれた。
少し騒がしいだろうが、まあ仕方ない。
無事にレポートの提出を終え、安堵のため息をつきながら家に帰ろうとしていた。
その時だった。
学部の校舎を出たところで、学生が教授に何かを厳しく言われている所に遭遇した。
いかにも今時の、華やかな身なりの学生だ。
ギャル、というやつだろうか。
そして彼女に向かって仁王立ちになっている老教授には、見覚えがあった。
金田教授。
現代日本語研究の権威であり、彼の著書は専門書から一般向けの物まで多岐に渡る。
何なら、俺が愛用している国語辞典の監修まで務めている人物だ。
俺は金田教授のゼミも授業も履修抽選に外れてしまった。
本物だ……。
ま直接ご本人にお会いできるとは、俺は運がいい。
そう思いながら二人の様子を、少し離れた場所で伺っていた。
「『誕生日おめでとう』を『おめー』とは……。この表現に、君はさして違和感を覚えないのだろう。しかし私に言わせればこれは単なる言葉の省略にはとどまらず、日本語という言語文化の根幹に関わる由々しき問題なのだ」
金田教授は胸を張り滔々と語る、まるでこの場を講義の壇上とでも見なしているかのようだった。
「『おめでとう』という言葉には相手の幸福を心から祝う気持ちと、その幸せが続くよう祈る意味が込められている。これは『言祝ぐ(ことほぐ)』という美しい大和言葉の系譜に連なる、まさに言霊を宿した表現だ。 それを『おめ』と二音に切り詰めた瞬間に、言葉から言霊が抜け落ち感情の深みや敬意は削ぎ落とされ単なる音の羅列となる。それは心のこもった手料理を、栄養素だけにしたサプリメントにすり替えるようなものだ」
ああ、とてつもなく話に入りたい。
これは俺の悪癖だ。
「言葉は人間関係の鏡だ。その言葉を簡略化し効率性を優先することは、ひいては人間関係そのものを表層的で即物的なものに変えていくのではないか?」
例のギャル学生は、戸惑いと困惑の入り混じった表情を浮かべている。
俺は心の奥で熱くなるものを感じていた。
このまま黙っているわけにはいかなかった。
「金田教授失礼します、二年の城之崎と申します。お二人のやり取りが目に入りまして、教授のお話を非常に興味深く伺っておりました。僭越ながら、ひとつ私見を述べてもよろしいでしょうか?」
教授は一瞥をくれたあと、小さく頷いた。
「伺おう」
俺は軽く息を吸ってから口を開いた。
「教授のご意見では、省略によって言葉の本質が損なわれるということかと拝察いたします。しかしながら言葉の省略自体は、日本語の歴史において常に見られる現象ではないでしょうか。たとえば『おめでとう』も、本来は『おめでたく存じます』のような長い表現が簡略化された結果とする説もあります」
教授は腕を組み、時折うなずきながら聞いている。
「『さようなら』は『然様ならば失礼いたします』の略、『こんにちは』や『こんばんは』も、かつては『こんにちはご機嫌よう』などの形だったとも聞いています。こうした例を踏まえると、日本語そのものが省略と変化の積み重ねで形成されてきたとも言えるのではないでしょうか」
緊張で手のひらがじっとりと湿っていた。
金田教授の様子を伺うと、たまに頷きながら聞いている。
「歴史と共に変化してきた言葉を否定することは、結果として日本語や大和言葉そのものを否定することにならないでしょうか?」
さすがに緊張する、変な汗が出てきた。
そんな俺を眺めながら、金田教授が口を開いた。
「『おめでとう』が『おめでたく存じます』の省略だというのは現在は主流ではないが、説もあると言われれば否定はできない。 確かに日本語が省略の歴史を持つという点は否定できない、それを指摘した君は見事だ……だが」
教授の声が一段と力を増した。
「君は重大な点を見落としている、それは省略にも『洗練』と『劣化』があるということだ」
教授の語気が更に強まる。
「君が挙げた『おめでとう』や『さようなら』は、長い年月の中で、多くの人々の口を通じて自然に形作られたものだ。発音のしやすさや音の響きの美しさ、そして丁寧さを保ちながら洗練された言わば文化の結晶とも言える省略だ。 川の石が時とともに角を削がれ丸くなるような、自然で緩やかな淘汰の結果と言える。対して『おめ』はどうか? これは自然な変化ではなくSNSやチャット文化がもたらした、単なる『切断』に過ぎない。言葉の背景や情緒を顧みず、情報伝達の速度だけを追求した結果だ。これは進化ではなく、機能への退化とすら言える」
先ほどからギャルはちんぷんかんぷんといった様子だ。
「君が指摘した歴史的省略は、言霊を宿すための新しい器を生み出す営みだった。だが『おめ』は、その器そのものを叩き壊してしまう行為なのだ。 言葉の変化を無条件に受け入れるのではなく、その『質』を見極めることこそ我々に課せられた責務なのだよ」
さすが金田教授、全く揺らがない。
「さすがのご見識です。私のような若輩者にまで教授がお胸をお貸しくださるとは、誠に光栄なことです。教授も、言葉が歴史と共に変化すること自体は認めておられますね。であれば、変化が常に歓迎されたものかどうかは別問題です」
ここは別の角度から話を展開しよう。
「歴史を見れば、あらゆる革命は流血を伴い変化には賛否が分かれるものです。失敗に終わった変革者たちも数多く存在します。 言葉の変化についても同様で、たとえば『消耗』は本来『しょうこう』でしたし、『新しい』もかつては『あらたし』であったとされています」
教授の眉がぴくりと動いた。
「これらの変化も、当時は『誤用』『誤読』とみなされたはずです。 それでも現在では、誰もそれを間違いだと考えません。変化が人々に受け入れられ、定着したからです。教授のご指摘の通り、批判もまた必要でしょう。ですが変化が進むかどうかの最終的な結論は、やはり後世に委ねられるものだと思うのです」
教授は淡々と返してくる。
「ふむ……なるほど、君の視点には一理ある。歴史の流れの中で『誤用』が『正用』となる過程を、的確に捉えている。実に鋭い……と言えるが」
俺は教授が俄に口角を上げたのを見逃さなかった、これは……少々まずいかもしれない。
「私はそこにこそ、現代の危うさが潜んでいると考える。 君の挙げたような変化は極めて緩やかで、世代をまたぐような時間をかけて起こったものだ。その過程には、言語体系を調整するだけの『猶予』があった。教育や辞書といった権威が、それを追認するというプロセスもあった。しかし、現代の言葉の変化はどうだ? SNSを中心とする情報環境では、言葉は一瞬で拡散する。考える間もなく、思考停止的に定着してしまう。『新陳代謝』ではなく、『生態系の崩壊』に近い現象すら起きている。そして……」
教授は止まらない。
「君の言う『後世に委ねる』という態度。これは聞こえはよいが、私には知的怠慢……あるいは現代人としての責務の放棄とも映る。我々は今、目の前で起きている変化をただ眺めるだけでよいのか? その是非を問う姿勢こそが、文化の担い手として必要なのではないかね?」
うん無理だな、これはさすがに分が悪すぎる。
何とかうまく着地させられないか。
「教授申し訳ありません、誤解を招いたとすれば私の説明不足です。私は批判を否定しているのではありません。ただ変化の価値が最終的に定まるのは未来の人々によってであり、その前提で我々も今を生きる必要がある。そう申し上げたまでです」
それを聞いた金田教授は、呵々大笑した。
「なるほど、誤解であったか。君の真意を理解したよ。
確かにいかなる文化的変化も、最終的な評価を下すのは歴史そのものだ。そして我々の価値観が、百年後に通用する保証などどこにもない。だが重要なのはその過程だ。 この『おめ』をめぐる我々の議論そのものが後世の判断材料となり、言語文化の運命を形作る一部になるのだ。私の役割は、この問題に一石を投じること。 その一石が波紋を呼び、やがて歴史となっていく——君も、その一端を担っているのだよ。」
俺の意図を察してくださったらしい、金田教授はこの議論を締めくくった。
「すまない、もう一度名前を聞かせてもらえないか?」
真っ直ぐに目を見られ、どきりとした。
「城之崎光哉と申します。」
「城之崎くんか、覚えておこう。ではな」
金田教授は満足そうに頷くと、悠然と去っていった。
教授の姿が見えなくなると、例の派手な格好のギャルが俺に駆け寄ってきた。
「まじ助かったー! 電話切ったところでいきなりあのおっさんに怒られて!」
いやできればおっさんと呼ぶのはやめてほしいな……。
「いや俺はただ、思ったことを言っただけだ」
議論ではとても叶わなかったしな。
「にしても、マジ神! あ、そうだ!あの子もう着くかも!」
彼女はそう言うと、スマートフォンを取り出し誰かに電話をかけ始めた。
そして今しがたあった金田教授と俺のやり取りを、興奮気味に電話の向こうの相手に話し始めた。
「うん、それでさー。なんかスゴい人が助けてくれてー。え? マジ? ちょっと待ってて!」
彼女は驚いたように目を見開くと、辺りをキョロキョロと探し始めた。
すると少しだけ聞き覚えのある、けれど今はもうほとんど話す機会のなくなってしまったあの静かな声が聞こえてきた。
「――やっぱり城之崎くん、ですか?」
声のした方に視線を向けると、少し離れた渡り廊下の柱の陰からこちらを見ている学生がいた。
スマートフォンを耳に当てたまま、驚いたように固まっている。
俺は、その顔を知っていた。
「能田?」
俺がそう呟くと、電話をしていたギャルが能田の姿を認めて呑気に手を振った。
「未来ー! 久しぶりー!誕生日おめー!」
どうやら彼女たちは、大学は違えど友人らしい。
世間は時として俺が思うよりずっと、狭いのかもしれない。
俺はそんなことを、ぼんやりと考えていた。




