第44話 嵐の再来 芝浦山手の場合
ボストンバッグに数日分の着替えと、ビジネスリュックに仕事の資料を詰め込む。
部屋を出る前に、気になって洗濯機スペースを見に行く。
天井のシミはさらに広がって、壁をつたって流れる水が床に大きな水たまりを作ってた。
忘れた頃に天井からポチャリと水滴が落ちてきて、静かな絶望を誘う。
やっぱりもうどうしようもないな、改めてそう思う。
僕は深いため息をつくと、もう見なかったことにして部屋のドアを閉めた。
マンションの階段を降りてくと、ポケットの中でスマホが震える。
表示されてたのは、大家さんの名前。
『あ、芝浦さん? 大家だけど今ね、上の階の人と話がついて』
電話口の大家さんの声は、さっきよりずっと落ち着いていた。
聞けば相手方が非を全面的に認めたそうだ。
それで修繕費はもちろん僕が一時的に住む場所が必要であれば、ホテル代も負担してくれることになったらしい。
『だからもし泊まる所がなかったら、遠慮なく言ってね。こっちでビジネスホテル、取れるように話しとくから』
「ありがとうございます、でも大丈夫ですよ。友達の部屋にしばらく泊めてもらうことになったんで」
僕がそう伝えると大家さんは心底ホッとしたように、
『それなら良かったよ』
と声を弾ませた。
『それじゃあ部屋の修理期間とか、具体的なことが分かったらまた連絡しますね』
そう言って電話は切れた。
トントンと、あまりにも急に話が進んでいく。
昨日までは城之崎と気マズいまま、何年も会わないでいたっていうのに。
今はこうしてアイツの家にこれからしばらくお世話になるなんて、とんでもない状況に向かってる。
これから毎晩アイツと顔を合わせて、同じ屋根の下で寝起きする。
その現実が胸の奥で、ジワジワと熱を帯びていく。
この状況に僕の心は戸惑い半分とそれに負けないくらいのドキドキ半分、っていったところだった。
グルグルと色んなことを考えながら歩いているうちに、ひときわ高くそびえ立つ城之崎のマンションが見えてきた。
この間城之崎に送ってもらった時は、自分のことで手一杯であんまり気にしてられなかったけど。
改めて見るととんでもないマンションだな、と素直に感心した。
20階建ての、新築タワーマンション。
黒を基調としたシックで重厚なエントランスには、もちろんオートロックが完備されている。
駅から徒歩5分という最高の立地。
そして2LDK。
……大学生が一人で住む部屋なのこれ?
いや、城之崎は言っていた。
『母さんが借りたんだ』と。
……だとしても。
だとしても、だよ!
息子が一人で住むには、あまりにも贅沢すぎるって!
城之崎のお母さん、どんだけ息子を愛しているんだよ。
ちなみに僕が住んでた部屋は、1K・駅徒歩15分・築25年の5階建ての2階。
もちろん、オートロックなんて大層なものなんてあるわけない。
決して文句があるわけじゃないし、何なら日当たりも良くて気に入ってる……いや、気に入っていたんだけど。
さすがにこの城之崎の砦みたいなマンションと比べてしまうと、なんだか自分の城が急にみすぼらしく思えてきてちょっとだけ恥ずかしくなった。
僕はエントランスの呼び出しパネルで、城之崎の部屋番号『1601』を押した。
呼び出しボタンを押すと、数秒の間があった。
スピーカーから「はい」という声が聞こえるのを待つ。
「城之崎、僕だよ」
そう呼びかける。
でもスピーカーから返事はなかった。
その代わりボタンを押したような短い電子音と共に、重厚なガラスの自動ドアが静かに開いた。
……いる、んだよね?
返事くらいしてくれてもいいのに。
エレベーターに乗り込んで、城之崎の部屋がある16階のボタンを押す。
扉が閉まると驚くほど滑らかに、そして速く上昇を始めた。
軽く息をつく間にもう着いちゃった。
さすが高級マンション、エレベーターも速いなと思いながら部屋へと向かう。
こんな高級マンションなんてはじめて……ではないかと思わず苦笑いする。
頭をよぎる『あの部屋』を振り払った。
部屋のドアの前で、もう一度インターホンを押す。
でも反応はない。
ドアノブにそっと手を掛けてみると、カチャリと軽い音を立ててドアが開いた。
鍵は、空いてる。
「城之崎?……入るよー?」
中に向かって声を掛けるけど、それでもやっぱり返事はなかった。
まぁ話はついているんだし、大丈夫だよね?
そもそもいないんなら、オートロックは開かないはずだし。
「お邪魔しまーす」
そう独り言のように呟いて部屋に入って、城之崎の姿を探した。
リビングダイニングとキッチン、どこにもいない。
ってなると、考えられるのは……。
僕は二つ並んだ部屋のドアの前に立った。
片方が城之崎の部屋で、もう片方が今日から僕が借りることになる部屋だと思う。
まず城之崎の部屋と思われる方のドアを、コンコンと軽くノックする。
シンと静まり返ってる。
「城之崎? いないの? 入るよ?」
声を掛けながら、ゆっくりとドアを開ける。
そして僕は思わず、
「えっ!?」
とマヌケな声を上げた。
そこにはちゃんと人はいた。
でもそれはあまりに、あまりにも予想外の人物だった。
ピンクのパーカーにショートパンツ姿、満面の笑みで手を振っている。
部屋の主であるはずの城之崎じゃなかった。
アイツのベッドの上に腰掛けて、こっちに向かってムカつくくらいかわいく敬礼をしながらこう言ったんだ。
「お疲れ様でぇす!」
そこにいたのは、満面の笑みを浮かべた大庭咲良だった。




