第3話 責任の取り方 芝浦山手の場合
あの日城之崎に軽蔑の目を向けられ拒絶されてから、僕たちの間には重く冷たい壁ができてしまった。
廊下ですれ違っても、目を合わせることはない。
部活で顔を合わせても、必要最低限の会話すらない。
気まずいという言葉では足りないほどの断絶感。
僕は何度も彼に謝ろうとした。
あんな形で彼の心に踏み込んでしまったことを、心から詫びたかった。
けれど彼が放つ『近づくな』というオーラと、僕自身の罪悪感が邪魔をして、結局、一言も切り出せないまま、時間だけがいたずらに過ぎていった。
後悔と自己嫌悪は、薄れるどころか、日ごとに僕の中で澱のように溜まっていく。
そんな息苦しい日々の中に、一つの大きなイベントがやってきた。
7月の学園祭だ。
僕たちのクラスの出し物は、演劇に決まった。
そして、その台本を担当することになったのが、なんと城之崎だった。
彼が文学部だから、という安直な理由で押し付けられた形だが、彼自身は特に嫌がる風でもなかった。
一方僕はというと、出演させられそうになったが、なんとか音響係に逃げることができた。
まあ、裏方なら城之崎と直接関わることも少ないだろう、と少しだけ安堵したのを覚えている。
城之崎が書き上げた台本は正直、かなり難解だった。
西洋の古典文学を下敷きにした悲恋物語で、セリフはやたらと長く、古風な言い回しも多い。
「これ、本当に高校生がやるの?」
と誰もが思ったが、城之崎本人は至って真面目な顔で、
「このレベルでなければ、演劇をやる意味がない。」
と言い放った。
彼のそういう妥協しないところは、ある意味尊敬できるけれど、周りはたまったもんじゃない。
それでも、なんだかんだで練習は進み、本番が近づいてきた。
事件が起きたのは、本番当日の朝だった。
ヒロイン役を務める女子生徒が、家を出る際に階段から落ちて右足を骨折。
当然、舞台には立てなくなった。
クラスは大混乱に陥った。
本番まで数時間しかない。
慌てて代役を探すことになったけれど、あの難解なセリフを今から覚えられる生徒なんて、いるはずもなかった。
誰もが尻込みする中、誰かがぽつりと言った。
「…いっそ、台本書いた城之崎が責任取れば?」
冗談めかしたその一言に、クラスの空気が一変した。
そうだそうだ、と言わんばかりに皆が城之崎を見る。
「いや待て、なんで俺が…。」
珍しく狼狽える城之崎。
だが、そこですかさず大庭が悪ノリした。
「いいじゃん、光哉!絶対似合うって!メイクは私が担当するからさ!」
キラキラした笑顔で言う大庭に、クラスが沸く。
まずい流れだ。
僕は、
『いや、それは流石に無理があるだろ!』
と助け舟を出そうとしたけれど、クラスの妙な一体感と、
「他にいないんだから仕方ない!」
という勢いに押し切られ、あっという間に多数決で城之崎の代役、
つまり、女装してヒロイン役をやることが決定してしまった。
城之崎は、蒼白な顔で立ち尽くしていた。
そして迎えた本番。
正直、どうなることかと思ったけれど、舞台は意外なほど成功した。
小柄な城之崎に、ドレスのサイズはぴったりだった。
何より、城之崎は文句無しに美しかった。
明らかに不本意そうな表情を隠しきれない城之崎だったが、いざ舞台に立つと、その雰囲気は一変した。
長いセリフも淀みなくこなし、役に込められた悲しみや切なさを、彼独特のクールさの中に滲ませて演じきったのだ。
声の低さも途中から気にならなくなるほどの圧巻の演技。
観客からは惜しみない拍手が送られた。
僕も音響ブースから、複雑な気持ちでその姿を見ていた。
終演後、僕は真っ直ぐに控室へ向かった。
今度こそ、謝らなければ。
そして今日の舞台のことも、何か一言…。
「失礼しまーす…って、あれ?」
ドアを開けると、そこには先客がいた。
鷲那だ。
城之崎はまだドレス姿のまま、椅子に座っていた。
「先輩!すっごい綺麗ですよ!マジで!」
鷲那が、満面の笑みで城之崎に駆け寄る。
「びっくりしました!女装、めっちゃ似合ってます!正直、女装してる先輩なら俺、抱けますよ!」
悪気ゼロ、太陽のような笑顔で、鷲那はとんでもない爆弾発言を投下した。
僕は息を呑んだ。
それは城之崎にとって、どれほど残酷な言葉か。
しかし、城之崎は一瞬だけ目を見開いた後、ふっ、と息を吐くように笑った。
「…馬鹿じゃねーの。」
その声は呆れているようで、でもどこか優しさも含まれているように聞こえた。
鷲那はえへへーと照れたように笑い、
「じゃあ俺、そろそろ行きますね!」
と嵐のように去っていった。
部屋に残されたのは僕と、ドレス姿の城之崎。
重い沈黙が流れる。
「……城之崎。」
僕が意を決して声をかけると、彼の肩が、かすかに震えているのが見えた。
俯いていて顔は見えないけれど、泣いている…?
「…ごめん、全部聞いてた。」
そう言うと城之崎はしばらく黙っていたが、やがて絞り出すような声で言った。
「……お前に言うのは、本当に、癪だけど。」
「……。」
安易な言葉は出せなかった。
「良く考えたら…こういうこと、知ってるの、お前しか、いなかった。」
声が震えている。
「誰かに…言わなきゃ、多分、耐えられないから…。…たまたま、そこにいたのがお前で、良かったって…初めて、思ったよ。」
ゆっくりと顔を上げた城之崎の顔は、涙でぐしゃぐしゃだった。
ファンデーションが涙の筋を作って、痛々しい。
彼は無理に笑おうとしたのか、歪んだ表情で言った。
「はは…さすがに、ちょっと…堪えた。」
その時だった。
ガチャリ、とドアが開く音がして、明るい女子の声が響いた。
「城之崎ー!ごっめーん!咲良、先生に捕まっちゃって!代わりに私がメイク落としとドレス脱ぐの手伝いに来たよー!」
クラスメイトの女子だ。
まずい、この顔を見られたら…!
僕の体は、考えるより先に動いていた。
慌てて城之崎の前に立つ。
「え、芝浦くん?どいてよ、メイク落とすから」
女子生徒が訝しげに言う。
どうしよう、どうすれば――!
僕は咄嗟に、目の前にいる城之崎の体を、思い切り抱きしめていた。
彼の顔を、自分の胸に押し付けるようにして隠す。
ドレスのごわごわした感触と、彼の微かな震えが伝わってくる。
「駄目だ!僕がやる!この可愛い子ちゃんは僕の物だ!他の奴に触らせてたまるか!」
我ながらアホなことを言っている。
「芝浦君、あんたが言うと冗談か本気か分かんないよ。」
女子生徒が困った顔をする。
「メイクなら普段から僕もしてるし!」
こう見えて、メイクや美容には普段から気を使っているのは周知の事実の筈だ。
すると、僕の腕の中で、城之崎がもごもごと口を開いた。
「…コイツは後でどつき回すが。」
え?
「…正直、女子の前で服を脱ぐのは、ちょっと抵抗がある。…不本意だが、コイツに手伝ってもらうことにする。」
しっかりとした口調だった。
僕の意図を、瞬時に理解してくれたらしい。
「えー、そうなの?じゃあ、お願いねー。」
女子生徒は意外とあっさり引き下がって、パタンとドアを閉めて出ていった。
部屋には、再び僕と城之崎だけが残された。
抱きしめていた腕をそっと離す。
気まずい沈黙が、さっきよりも濃密になって流れる。
先に口を開いたのは、城之崎だった。
「……服、汚してごめん。」
見ると、僕のシャツの胸のあたりに、ファンデーションと、滲んだ涙の跡がくっきりと付いていた。
「あ、いや…別に、これくらい大丈夫だよ。」
お母さんにはどつかれるかもだけど。
僕は慌てて首を振る。
そして今度こそ、ちゃんと言わなければ。
「…僕の方こそ、こないだは本当に、ごめん。」
頭を下げる。
どんな言葉で続けても、言い訳にしかならない気がした。
城之崎は、暫し黙っていた。
やがて真剣な、低い声で言った。
「――許さない。」
その一言に、心臓が凍りつく。
やっぱり、そうだ。
当然だ、取り返しのつかないことをしたんだから。
僕は顔を上げられずに、ただ唇を噛み締めた。
だけど続いた言葉は、予想外のものだった。
「だから今度、しゃぶしゃぶ食べ放題な。」
え?
顔を上げると城之崎は、涙の跡が残る顔で、でも確かに柔らかく微笑んでいた。
「……は?」
「もちろんお前の奢りで。」
「……え、あ、うん…?」
状況がうまく飲み込めない。
許さない、けど、しゃぶしゃぶ?
僕が呆然としていると城之崎は、
「早く手伝え。この格好、疲れる。」
とぶっきらぼうに言って、ドレスの背中のファスナーに手をやった。
まだ混乱していたけれど、僕の心の中には、ほんの少しだけ、温かい光が差し込んだような気がした。