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本当に大事なものは  作者: 城井龍馬
高校生編
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第37話 家族のあり方 城之崎光哉の場合

あの奇妙な偶然が重なりに重なったサイセリアでの話し合いの後。


俺は家に帰り着くと、リビングで編み物をしていた母さんに事の経緯を告げた。


今年のクリスマスパーティーは、友達と芝浦の家で行うことになったと。


母さんは一度編み棒の手を止める。


こちらに視線を向けたがすぐにまた手元に戻り、


「そう、来年は受験なんだから今のうちに楽しんでおきなさい」


そういつものように淡々とした、抑揚の少ない声で言った。


その声色からは、特に興味も心配も感じられない。


過度な干渉も、過剰な興味も示さない。


それが俺たちの日常であり、ある意味では心地よい距離感でもあった。


夕食の時間も、いつも通り静かだった。


二人きりの食卓では、互いに今日あった出来事を詳細に報告し合うような賑やかさはない。


テレビの音だけが遠くに聞こえる中で、ただ黙々と箸を進めることが多かった。


それでもその沈黙が息苦しいと感じたことはない。


母さんが丁寧に作った料理の味とそこに流れる穏やかな時間が、俺たち家族の当たり前の空気だったからだ。


今日のメニューは和食が中心だ。


香ばしく焼かれた鮭とほうれん草の胡麻和え、そして味噌汁の具は揚げと豆腐。


味噌汁の具はこれが一番好きだ。


俺の好物を、母さんは良く理解してくれている。


派手さはないけれど、一口食べるごとにじんわりと体に染み渡る。


そんなどこかほっとする味がした。


食後に俺は自室に戻る前、食器を片付けている母さんに声をかけた。


「今日は空手も無いから、部屋で勉強と読書をするよ」


「分かったわ、今日は紅茶でいいかしら? 新しいアールグレイの茶葉があるのだけれど、良い香りよ」


「ありがとう、ちょうど紅茶の気分だったんだ」


そんな短いやり取りを終え、俺は自室へと続く階段を上がった。


自室の机に向かい、まずは学校の宿題を黙々と片付ける。


無機質な数式や歴史の年号をノートに書き写していく作業は、ある種の瞑想に近い。


それが一段落つくと、先日また図書館で借りてきた分厚い本を開いた。


『アラン・チューリング』


彼の人生について書かれた評伝だ。


彼はイギリスの偉大な数学者だ。


第二次世界大戦時にはドイツ軍の難解な暗号エニグマを解読する装置、いわゆる『チューリング・マシン』の理論的基礎を築くとその開発に多大な貢献をした人物。


その圧倒的な知性と、歴史を動かしたと言っても過言ではない功績。


ページをめくる度、純粋な敬服の念を抱かされる。


だがその輝かしい業績の裏で、彼の晩年は……。


コンコン。


控えめなノックの音がした。


「どうぞ」


そう促すとティーカップを乗せたトレイを持って、母さんが静かに入ってきた。


ふわりと、アールグレイの芳醇なベルガモットの香りが部屋に広がる。


「勉強、捗ってる?」


カップを机の端に置きながら、母さんが穏やかに尋ねる。


「ああ。宿題は終わったから、今は本を読んでいたところだよ」


母さんは俺の隣に立ち、手元の本の背表紙を何気なく覗き込んできた。


「アラン・チューリング、『コンピュータ科学の父』とも『AIの父』とも言われる人物ね」


すぐに誰の本か理解したようだ。


こういう時の母さんの知識の幅広さと深さには、時折こうして舌を巻かされる。


俺の読書好きは、間違い無くこの人の影響だろう。


幼い頃寝る前に読み聞かせてくれた物語の数々が、俺の世界を広げてくれたのだ。


「ああ、そうらしいね。この本では彼が『チューリング・マシン』を開発するまでの数学的思考の経緯。ブレッチリー・パークでのエニグマ解読までの、まさに血の滲むような努力。そして戦時下という極限状態での人間模様まで詳細に書かれていて、中々に興味深いよ。彼の思考の深淵を覗いているようだ」


俺がそう言うと、母さんは静かにカップをソーサーに置きながら頷いた。


「彼の功績は計り知れないわね、戦争の終結を少なくとも二年早めたと言われているわ。それによってどれだけ多くの人命が救われたことか、本当に歴史に名を残す天才よ。ただ……」


母さんの表情がふと、窓の外の夕闇を見つめるようにわずかに陰る。


俺は黙って母さんの次の言葉を待った。


アラン・チューリングの晩年。


それはその功績と比して、あまりにも悲惨と言えるだろう。


彼は同性愛者だったのだ。


当時のイギリスでは、同性愛は違法だった。


そのため彼は1952年に有罪判決を受ける。


懲役を避けるために出された条件は。


化学的去勢処置。


外科的手術ではなく、薬物による去勢。


彼はそれを受け入れた。


いや、受け入れざるを得なかったのだろう。


そして1954年に41歳で亡くなった。


死因は青酸中毒、自殺とされている。


母さんは何と言うのだろうか。


彼女が同性愛に対して、決して肯定的ではない事。


むしろある種の……嫌悪感のような感情を抱いていることは、これまでの会話の端々から痛いほど感じ取っていた。


俺は時折こうして、母さんの反応を確かめたくなることがある。


自分の内側にある決して消せない何かに対する母さんの無意識の評価を、まるで薄氷を踏むような心地で。


俄に母さんはふっと表情を和らげる。


いつもの落ち着いた、感情の起伏をあまり見せない声音に戻った。


そして俺の顔を真っ直ぐに見て安心したように、本当に心の底から安堵したかのように微笑んだ。


「あなたが、普通の子で本当に良かったわ」


その言葉は静かに、しかし確かな重みを持って俺の胸に落ちた。


脳裏に中学一年の頃の事が蘇る。


「なあなあ、お前は誰がいい?」


「やっぱりあの子かな」


クラスメイトが女子の品定めをしている。


「わかるわー!おい、城之崎は?」


「……見てわからないか?俺は今本を読んでいる、邪魔をするな」


俺はそんな連中を相手にせず、軽くあしらった。


「無駄だって、城之崎は変にしか興味ないからな」


「…………」


周囲の男子がどの女子がかわいい、付き合いたいと言う話をしていてもまるで共感できなかった。


俺が惹かれるのは、いつだって男性だった。


自分が『普通』でないなんて、考えもしなかった。


だから最初は皆、我慢しているんだと思っていた。


本当は女性に興味が無くても、男性に興味があってもそれを周りに悟られないように演じているのだと。


でも、違った。


普通の子。


母さんにそう言われるのは、もう慣れた。


聞き飽きたと言ってもいい。


その言葉が何を意味するのか、俺には痛いほど分かる。


そしてその言葉を発する時の、母さんの安堵した表情を見る度。


俺の心は母さんのその安心を壊したくないという切実な気持ちと、本当の自分を押し殺し偽りの仮面を被り続ける事への息苦しさとの間でいつも激しく揺れている。


「……ああ、母さんを安心させられたなら良かったよ」


俺は努めて穏やかに、何の含みもないかのように微笑んでみせた。


それが今の俺にできる、精一杯だった。


母さんはその言葉に満足そうに頷くと、


「無理しないようにね、ゆっくり休みなさい」


そう言い残すと、静かに部屋を後にした。


パタン。


ドアが閉まる音を聞きながら、俺は読んでいたアラン・チューリングの伝記を机に置きゆっくりと天井を仰いだ。


冷たい照明の光が、やけに目に染みる。


余計なことを考えないように。


心を、空っぽにしようと。


なぜまた、アラン・チューリングの本を手に取ってしまったのだろうか。


ただ静かに、何も考えずにいたかった。


それだけを、考える。


それでも瞼の裏には屈託なく、太陽のように笑う鷲那の顔が焼き付いていた。


あの笑顔を見るたびに、胸が高鳴るのを抑えられない。


そしてなぜか、泣いている芝浦の顔が浮かんできた。


その二つの顔がまるで万華鏡の破片のように交互に浮かんでは消えては、俺の心を容赦なくかき乱す。


俺はそれを消そうと、必死になっていた。


ただ、ひたすらに。


深い息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。


だが心の揺らぎは、そう簡単には収まってくれなかった。

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