第32話 夢で見た顔 城之崎光哉の場合
パン、と乾いた音がグラウンドに響き渡る。
それに続いて、耳を劈くような歓声が沸き起こった。
遂に体育祭当日を迎えたが、俺の気分は相変わらず低空飛行を続けていた。
クラスメイトたちがそれぞれの競技に熱狂し、クラスの色である赤いハチマキを誇らしげに揺らしている。
そんな姿を俺はどこか、他人事のように生徒席から眺めていた。
それでも鷲那がリレーで他をごぼう抜きにする姿や、芝浦が持ち前の運動神経で障害物競走を軽々とクリアしていく様。
そして咲良が応援団として声を張り上げている場面は、無意識のうちに目で追ってしまっていた。
そういう時だけは、普段は煩わしいだけの喧騒も少しだけ違う色を帯びて見えるから不思議だ。
俺自身の競技は午後に集中しているため、午前中は殆どやることがない。
手持ち無沙汰にプログラムを眺め、溜息を吐く。
昼休憩のチャイムが鳴り、漸く解放された気分で弁当の包みを手にした。
さて、誰と食べようか。
鷲那や芝浦、咲良あたりをと思っていた。
だが皆午後から始まる応援合戦の準備か何かで、やけに忙しそうだ。
声をかけるタイミングも見つけられず、俺は小さく肩を竦める。
仕方なく、いつもの文芸部室へと足を向けた。
少しは静かに過ごせるだろう。
ドアを開けると、お馴染みの先客がいた。
能田だ。
彼女は机の上に小さな精密ドライバーや見慣れない工具を広げ、自分のスマートフォンらしきものを分解している最中だった。
「能田、何をしているんだ?」
俺の声に彼女はびくりと肩を震わせ、慌てて顔を上げた。
「あ、城之崎くん。えっと、スマホの調子が悪くてちょっと自分で見ていたんです」
そう言って彼女は少し照れたように笑い、スマホのネジを戻していく。
「直りました」
問題なく動いているらしい、器用なものだ。
「自分で直せるのか?凄いな」
素直な感嘆が口をついて出ると能田は、
「いえ、そんな大したことじゃ。ただ、こういう細かい作業が好きなだけなんです」
そう謙遜しながらも、どこか嬉しそうに頬を緩めた。
その時だった。
「やっぱり!こんなとこにいた!」
勢いよく部室のドアが開き、芝浦が顔を覗かせた。
その手には、俺と同じように弁当の包みがある。
「芝浦か」
「一緒にお弁当食べよう、探したんだぞ」
そう言って迷いなく俺の隣の席に腰を下ろす。
少しだけ、心が浮き立つような感覚があった。
「ああ、能田もここで食べるなら一緒にどうだ?」
俺が何気なく能田に声をかけると彼女は、
「あ、いえ!私は大丈夫です! お二人でどうぞ!」
と慌てたように立ち上がり、そそくさと部室を出て行こうとした。
その瞬間だった。
彼女が抱えていた数冊の本の中から一冊が滑り落ち、床にパサリと音を立てた。
「おっと、危ない!」
芝浦が素早くそれを拾おうと手を伸ばす。
そしてそれがあの手帳だと気付いた瞬間、彼の動きがぴたりと止まった。
顔が引き攣り、その大きな瞳が見開かれる。
それは以前能田が小説を書いていた、あの手帳だった。
「芝浦くん」
能田の声が、静かな部室に緊張を孕んで響いた。
「やっぱりあの日、中を見たんですね?」
芝浦は手帳から目を逸らせないまま明らかに動揺し、言葉を詰まらせる。
「みっ見てない!落ちたから拾おうとしただけ!」
その否定は、誰の耳にも苦しい言い訳にしか聞こえなかっただろう。
「別にどんな作品だとしてもいいじゃないか、他人がとやかく言うことでは……」
俺が割って入ろうとしたその時、芝浦が顔を真っ赤にして叫んだ。
「いやさすがにあれは駄目だって普通に!」
「やっぱり!見てたんじゃないですか!」
能田が芝浦を責めるがそれよりも、芝浦の言葉に少々頭に血が上がってしまう。
引っ込みがつかない。
「何が駄目だと言うんだ!見損なったぞ芝浦、お前がそんな偏見に満ちた奴だったとは!」
芝浦は自身がバイセクシャルである事を隠さず、俺がゲイある事も理解してくれている。
それを裏切られた気がした俺は、芝浦を詰っていた。
芝浦は顔を赤くして反論してくる。
「だ、だって!僕がっ、お前に抱かれる小説なんてっ! 認められるわけないだろ!!」
芝浦が声を荒らげた瞬間、時が止まった。
部室の窓から差し込む午後の光が、やけに眩しい。
「……え?」
俺の口からは、間の抜けた声が漏れた。
今、こいつは何と。
俺が、芝浦を……抱く?
なぜか不意に修学旅行の夜、あの『大鷲の間』での出来事が脳裏に鮮明に蘇った。
『興味がないわけじゃない』
俺だって男子高校生だし。
決して無性愛者では無いのだと、ただそれだけのつもりで言ったこと。
その時の芝浦の戸惑っているような、それでいて何かを期待するようなあの真剣な眼差し。
俺自身に、他意は全くなかった。
だがあの気まずい雰囲気。
あの時の芝浦の反応を見るに、結果的に誘っているように受け取られてしまったのではないか。
あの時は本当に無意識だった。
しかし今回俺は、初めて明確に。
芝浦山手という人間を――そういう対象として、意識した。
芝浦を、抱く?
ぼんっ。
まるで頭の中で何かが破裂したような、破裂音が響いた気がした。
視界がぐにゃりと歪み、足元から急速に感覚が失われていく。
まずい、これは――。
そう思ったのを最後に、俺の意識はぷつりと途絶えた。
『先輩、大丈夫ですか?』
ああ、心地よく耳に響くこの感じ。
鷲那の声だ。
目を開けると鷲那が、俺を見て微笑んでいた。
『良かった、心配したんですよ?』
いつもの調子でそう言った鷲那は、ゆっくりと俺に覆い被さってきた。
ゆっくりと頬を撫でてくる。
突然のことに、俺は身動ぎひとつできなかった。
そして愛おしい物を見るような、愛を囁くような目で俺を見てきた。
……なんだ、夢か。
鷲那は決して、そんな目で俺を見ない。
そう気付いた瞬間、それは雲散霧消した。
最後に悲しそうに笑ったように見えたのは、俺の願望だろうか。
『城之崎』
鷲那より少し高い軽やかな声、芝浦だ。
少し離れた所から。
芝浦は何も言わず俺を見つめる。
沈黙が続く。
どれほど見つめ合っただろうか。
そんな時ふと、芝浦の目から大粒の涙が零れ落ちた。
なぜ、また泣いているのか。
一歩、踏み出した。
もう一歩、もう一歩。
芝浦の眼の前まで来た俺は。
芝浦をそっと抱きしめた。
まるで深い水底から急に引き上げられたような感覚と共に、俺の意識はゆっくりと浮上した。
また、意識を失ってしまったか。
働かない頭で、ぼんやりと考える。
最初に感じたのは消毒液の匂いと、額に触れるひんやりとした何か。
そして遠くで微かに聞こえる、体育祭の喧騒。
重い瞼をゆっくりと持ち上げると、視界に飛び込んできたのは白い天井だった。
ここは……どこだ?
混乱する頭で状況を把握しようとすると、すぐそばから穏やかな声がした。
「あら気がついた? うーんやっぱり熱中症かしらねぇ、気分はどう? もう大丈夫そう?」
視線を声の方へ向けると、白衣を着た女性が心配そうに俺の顔を覗き込んでいた。
保健室の先生だ。
どうやら俺は、保健室のベッドに寝かされていたらしい。
「あ……はい、多分大丈夫だと思います」
まだ少しぼんやりとした頭で、俺はそう答えた。
意識を失う直前のあの衝撃的な光景と芝浦の叫び声が、断片的に脳裏をよぎる。
先生は俺の額に乗っていた濡れタオルを取り替えながら、手際よく体温計を差し出しいくつか質問をしてきた。
「頭痛や吐き気はない? ちょっと脈見させてね」
俺がそれに一つ一つ答えると、先生は優しく頷いた。
「うん、熱も平熱だし脈も落ち着いてるわね。顔色もさっきよりずっと良くなったけどおそらく軽い熱中症と、あと少し寝不足も影響してるかもしれないわね。担任の先生には私から今日の午後の競技は見学するように伝えておくわ。だから今日はもう競技への参加は控えて、自分のクラスの応援席で静かに見学していなさい。絶対に無理はしないこと、少しでも気分が悪くなったらすぐにまたここに戻ってくるのよ。場合によっては、早退も考えましょう」
「分かりました、ありがとうございます」
俺は先生の言葉に頷き、ゆっくりとベッドから起き上がった。
体はまだ少し重く怠いが、意識は大分はっきりしてきた。
だが保健室を出て自分のクラスの応援席に戻ってからのこと、そしてその後の体育祭の時間のことは不思議なほど記憶が曖昧だった。
応援の声や競技の喧騒はどこか遠くに聞こえ、目の前で繰り広げられる光景もまるで薄い膜越しに見ているように現実感がない。
おそらくまだ本調子ではなかった体調と、そしてそれ以上に意識を失う直前のあの衝撃的な出来事が俺の頭の中を占拠し続けていたせいだろう。
ただ頭の奥で、あの時の芝浦の叫び――『僕がっ、お前に抱かれる小説なんてっ!』
――その言葉だけが。
繰り返し、繰り返し鳴り響いていた。




