第31話 掌で踊る心地良さ 城之崎光哉の場合
俺は以前から応援練習と言うものに、強烈烈な違和感を持っていた。
嫌悪感と言っても良い。
応援することを強要されるだけに飽き足らず、更にそれを事前に練習させられるなどとはその意味不明さに心底辟易する。
クラス全体が浮足立つあの独特の熱気も、どうにも性に合わない。
俺はここ数日、何かと理由をつけてはその馬鹿げた時間から逃げ回っていた。
その日も放課後のチャイムが鳴り響くと同時に教室を飛び出し、いつもの逃げ場所である文芸部室へと足を向けた。
静かで埃の匂いが微かに漂うその空間だけが、今の俺にとっての聖域だった。
ドアをそっと開けると、先客がいた。
能田だ。
彼女は机に広げた手帳の上でペンを止めたまま、まるで時が止まったかのように固まっていた。
「お前も応援練習から逃げた口か?」
そう聞くと能田はほっとしたように、
「雰囲気がどうも苦手で」
と苦笑いをした。
「……また、小説か?」
その質問に能田の肩がびくりと跳ねた。
そしてまるで禁断の現場を押さえられたかのように慌てふためき、バッと音を立てて手帳を閉じて胸に抱きしめた。
その過剰な反応に、俺は流石に少し考えさせられる。
そんなに俺に読まれるのが嫌なのか。
それとも俺自身が彼女にとって不快な存在なのだろうか。
そう思うと正直良い気分はしない。
「いえ、その……これは」
能田は顔を真っ赤にして俯き、しどろもどろになっている。
「そんなに慌てて隠さなくてもいいだろう、別に無理に見せろ等と言うつもりは無い」
俺が少しぶっきらぼうに言うと彼女は、
「あの、そういうわけじゃないんです」
とか細い声で呟いた。
困ったような、申し訳なさそうな表情だ。
「だったら少しくらい教えてくれてもいいじゃないか、どんな話を書いているんだ?」
俺が重ねて尋ねると、能田は顔は伏せたまま小さな声で言った。
「下手なので、その……恥ずかしいんです」
「誰だって最初は初心者だろう。俺も小説は読む専門だが、書くことの難しさは多少なりとも理解しているつもりだ」
俺の言葉に能田は少しだけ顔を上げたが、すぐにまた視線を落としてしまう。
そしてさらに小さな、聞き取れるかどうかの声で続けた。
「……恋愛小説なので……、城之崎くんはきっとご興味ないかと……」
「恋愛小説?」
意外な言葉に、思わず目を丸くする。
「そんなことはない。ジャンルに貴賤はないと思っているし、人間の感情の機微を描くという点ではどんな小説も同じだろう。俺は恋愛小説も普通に読むぞ」
そう言うと、能田は驚いたように顔を上げ大きな眼鏡の奥の瞳を瞬かせた。
そして何かを言い淀むように口を数回開閉させた。
そしてまるで最後の勇気を振り絞るかのように小さな声で、しかしはっきりとした口調で告げた。
「……男性同士の、恋愛なんです!」
その言葉に今度は俺の方が一瞬固まった。
脳裏にふと鷲那の、あの人懐っこい笑顔が浮かんだ。
俺は内心の動揺を悟られまいと、努めて平静を装った。
「……そうか、まあ今は多様性の時代だ。個人の趣味や嗜好について、他人がとやかく言うべきではないと俺は思う。それにそういう感情のあり方についても、理解はあるつもりだ」
俺自身がそうだから、とは当然言えなかったが。
能田は俺の反応が以外だったのか、口をぱくぱくとさせて何か言いたそうにしていた。
その時だった。
――ピンポンパンポーン。
やや間の抜けたチャイムの音と共に、校内放送が響き渡った。
『2年3組、城之崎光哉くん。同じく2年3組、能田未来さん。至急、職員室まで来てください。繰り返します――。』
俺と能田は顔を見合わせる。
タイミングが悪すぎる。
おそらく応援練習をサボっていることへの呼び出しだろう。
重いため息をつきながら、俺たちは二人して職員室へと向かった。
能田は終始俯き、緊張で肩を強張らせている。
職員室に入ると、予想通り担任が苦虫を噛み潰したような顔で待ち構えていた。
「城之崎くんも能田さんも、応援練習の時間にどこで何をしていたのかな?」
担任のねっとりとした詰問が始まる。
能田は完全に萎縮してしまい、何も言えずに震えている。
仕方なく俺が口を開いた。
「部室で、文芸部の活動をしていましたが。何か問題でも?」
「問題でも、ではないだろう!体育祭の応援練習は、クラス全員参加が原則だ!」
「その原則の意義が理解できません。応援することやその仕方を強制することに、一体どのような教育的効果があると? 声を出す練習を事前にしたところで、本番の応援に心がこもるとは到底思えませんが。むしろ強制されると逆効果ですし、応援の仕方は人それぞれであるべきでは?」
冷静に反論すると、それまで黙って近くで作業をしていた現代文の先生が会話に割って入ってきた。
「城之崎くん!あなたはいつもそうやってルールや決まり事に反発するけれど、集団生活において規律を守ることは大切なことなのよ!」
あの女教師だ、また面倒なのが加わった。
「おかしなルールや意味のない伝統にただ盲従することが、規律を守ることだとは思いません。それは思考停止であり、むしろ教育上問題があるのでは?」
「なっ……! あなたは伝統を軽んじるというの!?」
「伝統だからという理由だけで無批判に全てを受け入れるのは、考えることを放棄する怠慢だと申し上げているんです」
一触即発、という言葉がふさわしい空気が俺と二人の先生の間に張り詰める。
能田は隣でオロオロと小さくなっているだけだ。
その時だった。
「失礼しまーす!」
良く通る凛とした、それでいて心地良い声と共に職員室のドアが勢いよく開いた。
そこに立っていたのは、鮮やかな青いハチマキを締め応援団の腕章をつけた体操服姿の鷲那だった。
「あ、城之崎先輩!」
出入り口のすぐ近くだったこともあり、目に止まったようだ。
唐突に現れたいつもとは違う姿の鷲那に、思わずどきりとしてしまう。
「あれ、城之崎先輩? ……何かあったんですか?」
すぐに異様な空気を察したらしい。
少し驚いたような顔をしながらも、すぐにいつもの人懐っこい笑顔を浮かべた。
「鷲那……」
俺が状況を簡単に説明すると鷲那は、
「なるほど」
そう頷く。
それから少し困ったような、しかしどこか楽しんでいるような表情を浮かべた。
「……鷲那は、どうしてここに?」
俺が尋ねると鷲那は、
「ああ、僕は1年の学年主任の先生にちょっと用事があって」
そう答えてから再び俺に向き直り、悪戯っぽく笑う。
「話を戻しますね。先輩の言うことも分かりますよ、でも応援だって頑張ってる人がいるのは先輩もわかってますよね?あんまり邪険にすると、芝浦先輩も大庭先輩も悲しみますって。2人とも応援団でクラス盛り上げようとしてますから」
咲良が応援団に自ら立候補、芝浦はクラスの連中に無理やり推薦されて応援団に入れられたのは実際に俺も見ていた。
「僕も応援団なんで、他人事とはとても思えないんです。そういうわけなんで先輩!ここは僕を助けると思って、ね?」
鷲那にそんな風に言われてしまっては、俺も引き下がるしかない。
こいつの頼みを、俺は断れないのだ。
「……分かった、参加する」
俺がそう言うと担任と現代文の先生は意外そうな、そしてどこか安堵したような表情を見せた。
鷲那は、
「ありがとうございます!」
と満面の笑みだ。
ふと隣から小さな声が聞こえた。
「鷲那くんすごいです、あんなに頑なだった城之崎くんをあっさり説得しちゃうなんて……」
能田が心底感心したような瞳で、鷲那を見上げている。
――そうだよ、鷲那は凄いんだ。
いつだって俺の心を、いとも簡単に動かしてしまう。
俺はそんなことを内心で思いながら、能田には聞こえないように小さくため息をついた。
重い足取りで応援練習の場所であるグラウンドへと向かうと、クラスの連中が俺の姿を認めてざわついた。
咲良がはしゃいでいる、あいつ何かあったと勘付いているな。
……なんか腹立つ。
他の生徒は皆一様に驚いていたが、特に驚愕の表情をしていたのは芝浦だった。
「城之崎じゃん!どうしたんだよ、お前が応援練習なんて珍しいな!」
少しからかうような口調で、しかしその目には純粋な驚きの色が浮かんでいた。
「……別に、少し気が変わっただけだ」
俺は短くそう答え、クラスの列に加わった。
なぜだろうか。
鷲那に言われたからだとは、素直に言う気になれなかった。
芝浦はまだ何か言いたそうにこちらを見ていた。
だがすぐに他の生徒に声をかけられ、そちらへ意識を移したようだった。
秋の空は高く澄み渡っている。
体育祭本番に向け、生徒たちの熱気だけが無駄に高まっていくように感じられた。




