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本当に大事なものは  作者: 城井龍馬
高校生編
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第30話 残念な思い違い 城之崎光哉の場合

体育祭の日が近づくにつれ、俺の気分は反比例するように沈んでいった。


週の半分くらい道場で汗を流す。


空手で体を動かすことに抵抗はない。


だがクラスの勝敗だとかで一喜一憂するあの独特の熱気は、どうにも性に合わなかった。


中でも走るということに関しては、およそ自信というものがない。


俺があの芝浦のように軽やかにトラックを駆ける姿など、俺自身到底想像もできなかった。


そんな鬱々とした気分で教室を眺めていた時、ふと視界の端に能田の姿が入った。


小柄な背中を丸め、いつものように文庫本を読んでいる。


そうだ、芝浦のことだ。


数日前にあいつの様子が明らかにおかしかった時、能田も何か心当たりがあるような素振りを見せていた。


結局理由は分からないままだったが、あの時の彼女の煮え切らない態度は妙に記憶に残っている。


後でもう一度話を聞いてみるか。


いやなんて声をかける?


芝浦のことでやっぱり何か知っているんじゃないかなどとはさすがに聞けない。


そんなことをぼんやりと考えているうちに、午後の授業が始まった。


確か数学だったか。


既に理解している、興味を惹かれない内容。


板書をしつつも意識はどこか別の場所を彷徨い始める。


シャーペンの先でノートの隅に意味のない図形を描いていると、再び斜め前の方にいる能田の様子が気になった。


彼女は顔を伏せ、教科書でもノートでもない小さな手帳に何かを熱心に書き込んでいる。


時折何か思い詰めたように眉間に皺を寄せたり、かと思えばほんの一瞬口元が緩んだり。


その表情の変化は忙しない。


何か文章のようだ。


おそらく小説でも書いているのだろう。


文芸部員が小説を書くのはそう珍しいことではない。


どんな話を書いているのだろうかと、少しだけ興味が湧いた。


部活の時にでも、それとなく聞いてみるか。


放課後の部室で俺はいつものように窓際の席に座り、読みかけの文庫本を開いた。


他の部員や芝浦とともに能田も本を読んでいる。


能田は俺の目線に気づくと、軽く会釈をした。


「そういえば能田」


俺が声をかけると、彼女の肩がびくりと小さく跳ねた。


「今日の授業中、何か書いていただろう。あれは小説か? もしよかったら、どんな話か少し聞かせてもらえないか」


みるみるうちに顔が紅潮し、大きな眼鏡の奥の瞳が狼狽に揺れる。


「いえ、あの……私は、何も」


か細い声で否定するが、その動揺は隠しきれていない。


すると芝浦が俄に立ち上がる。


「あー、僕トイレ!」


そう言ってそそくさと部室を出ていく。


今だ。


「悪い能田。話は変わるが、先日の芝浦の様子の話。お前は何か知っているんだよな?」


思わず直球で聞いてしまった。


ただできるだけ穏やかな口調を心がけたつもりだったが、彼女の反応は予想以上だった。


「ご、ごめんなさいっ!」


彼女はほとんど叫ぶようにそう言うと、鞄を掴んで椅子から立ち上がる。


そのまま転がるようにして部室を飛び出していった。


「お、おい能田!」


呼び止める間もなかった。


あっという間に彼女の姿は廊下の向こうへと消えていく。


一体、何だったんだ?


俺は何か、彼女を追い詰めるようなことを言っただろうか。


一応後を追って部室を出たが、能田の姿は既にない。


呆然としていると体操服姿の咲良が、額に汗を浮かべながら不思議そうに俺を見ていた。


部活の練習の合間にでも来たのだろう。


「光哉? 今能田さんがすごい勢いで血相変えて走ってったけど、何かあったの?」


「いや、俺もよく分からないんだ。芝浦のことで少し話を聞こうとした途端、突然あんな風に……」


俺が困惑しながら説明すると、咲良はふーんと首を傾げた。


それから俺の顔と能田が去っていった廊下の方向を交互に見比べた。


「光哉が怖がらせるような言い方したんじゃないのー?」


茶化すような口調だったが、その目にはわずかに呆れの色も浮かんでいる。


「そんなわけがあるか」


俺は溜息を吐く。


咲良はまあいっかとあっけらかんに言うと、すぐに部活に戻っていった。


結局、能田のあの異常なまでの動揺の理由は分からないままだった。


ただ彼女が何か、少なくとも俺に知られたくない大きな秘密を抱えていることだけは確かなようだった。


そしてそれが芝浦の異変と何らかの形で繋がっているのではないかという疑念が、俺の中で燻り始めていた。


部室で再び文庫本に目を落とそうとした時、静かにドアが開いた。


戻ってきたのは芝浦だった。


芝浦の表情は、先ほど俺が能田に声をかける前と変わらない。


どこか掴みどころのない、いつもの芝浦に見えた。


無理をしているのか、それとも本当に何ともないのか。


「ところで芝浦、さっき能田が猛烈な勢いで出て行ったんだが途中で見なかったか?」


俺が尋ねると芝浦は少し首を傾げ、あっさりとした口調で答えた。


「え? 能田ちゃん? いや見てないけど、なんかあったの?」


思わず一瞬言葉に詰まった。


能田はあの手帳の話をしてから特に様子がおかしくなった。


きっと触れてほしくないことだったのだろう。


「いや、きっと俺が変なことを言ってしまったのだろう」


それに対する芝浦の反応は少し意外だった。


「変な事?……あー、まぁ気にしなくていいんじゃない?」


明らかに何か心あたりがあるように見えた。


「ん?何か思い当たる節があるのか?」


「え?あ、いや!そういうわけじゃないって」


動揺しているのが見て取れた。


何か隠しているようにも見える、なんだか面白くない。


それはさておき。


「そうか……それより芝浦」


この間、随分と顔色が悪かったが。


本当に、何も無かったのか?


もう、大丈夫なのか?


そう続けられず、俺は言葉を飲み込んだ。


目の前の芝浦は、不思議そうな顔でこちらを見ている。


その表情には戸惑いのようなものとほんの少しだけ、何かを探るような色が浮かんでいるように見えた。


今こいつに何を言っても、きっとまた何でもないと笑って誤魔化されてしまうだけだろう。


それに隠したいと思っていることを、無理矢理抉じ開ける様な事をするのは正しいことなのか。


俺のこの気掛かりもただの杞憂で、過剰な心配なのかもしれない。


そう思うと、それ以上踏み込むことを躊躇してしまった。


「……いや悪い、やはり何でもない」


結局俺はそう詫びて、話を終わらせた。


芝浦は一瞬何か言いたそうな顔をした。


だがすぐにいつもの調子に戻り、


「なんだよ、変な奴!」


そう軽く笑った。


その笑顔を見ても、俺の中にくすぶる疑念や心配は完全には消えなかった。


窓の外ではもうすっかり日が傾き、長い影が部室の床に伸びていた。

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