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本当に大事なものは  作者: 城井龍馬
高校生編
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第29話 画竜点睛を欠く 城之崎光哉の場合

翌朝。


学校の昇降口をくぐった時、俺は少し身構えた。


昨日の芝浦の顔が、まだ脳裏に焼き付いていたからだ。


あんなにも生気のない顔をしていたのだ。


今日もまた同じような状態だったなら、どう声をかけるべきか。


そんなことを考えながら、教室のドアを開けた。


そして思わず拍子抜けした。


教室には既に、いつもの芝浦がいた。


クラスメイト数人に囲まれ、明るい声で冗談を飛ばす。


人懐っこい笑顔を振りまくあいつの周囲だけが、朝の光を受けてきらきらと輝いているようだ。


「おはよー、芝浦! 元気そうだな!」


「おはよー! まあね、元気だけが取り柄だから! ってか昨日さ〜」


弾むような会話。


そこには昨日のあの影は微塵も感じられない。


「……大丈夫そう、だな」


安堵する一方、昨日の異変が嘘だったかのような『いつも通り』の振る舞い。


逆に若干の気味悪さすら覚える。


昨日は一体、何だったんだ?


体調が悪かっただけなのか?


それとも何か別の、俺には見せない理由が?


鞄を置き教科書を出すふりをしながら、芝浦を盗み見る。


芝浦は相変わらず、屈託のない笑顔で話している。


本当に、もう何ともないのか?


それとも無理をして『いつも通り』を演じているだけなのか。


どうしても気になって、話の切れ間を狙って俺は声をかけた。


「芝浦」


「ん? あ、城之崎おはよー!」


芝浦はぱあっと顔を輝かせ、俺にも同じ人懐っこい笑顔を向ける。


「おはよう、お前もう大丈夫なのか? 昨日は顔色が悪かったから心配してたんだが」


俺が真剣に尋ねると、芝浦は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐにまたいつものへらへらした笑顔に戻った。


「え? あー、もう全然大丈夫! 心配かけてごめん! なんかちょっと腹減ってただけかも? あはは!」


そう言って、わざとらしく腹をさする。


腹が減ってた、だと?


あの青白い顔色と力ない後ろ姿が、空腹のせいなわけがないだろう。


明らかに何かを隠している口ぶりだ。


だがそれ以上追及しても無駄だと悟り、俺はそうかとだけ言って視線を逸らした。


昼休みに食堂で咲良と昼食を共にしている時にも、同じことを聞いてみた。


「なあ咲良、昨日の芝浦は顔色が悪かった。明らかに様子もおかしかったとお前も思わないか? 」


すると咲良は、けろりとした顔で俺の言葉を遮った。


「えーまだそんなこと言ってんの?いつも通りちゃらちゃらしてて、元気そうに見えたよ? 光哉、心配しすぎだって!」


「そうなのか」


咲良に聞いても無駄だった事を思い出す。


昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。


教室に戻る途中、廊下で能田の姿が目に入った。


彼女もわりと最近芝浦と話をしている、彼女なら何か知っているかもしれないと思い声をかけてみる。


「能田、少し聞いてもいいか?」


「え?城之崎君」


彼女は少し驚いた顔で立ち止まった。


「芝浦の様子のことだ、昨日も聞いたがやはり様子がおかしい。もし何か知っているのなら、教えて貰えないだろうか」


俺が尋ねると能田は一瞬びくりと肩を震わせ、視線を泳がせた。


そして少し間を置いて、意を決したように口を開いた。


「やっぱり、城之崎君も芝浦君の様子がおかしいと思いますか?」


その言葉に、俺はハッとした。


やはり、何かあったのだ。


そして能田もそれに気づいている。


「やはり何か心当たりがあるのか? 一昨日から様子がおかしくて、お前も部室に顔を出していたのだろう? もしかしてその時に何か……」


俺が畳み掛けるように尋ねると、能田は再び視線を伏せ煮え切らない様子で口ごもった。


「あ、あの……それは、その……」


明らかに何かを知っている、しかしそれを俺に話すことを躊躇っている。


彼女が何かを言いかけた、まさにその時だった。


午後の授業開始を告げるチャイムが鳴り響いた。


「ご、ごめんなさい! 授業始まっちゃうので!」


能田はそう言って、逃げるように足早に席へと戻っていった。


結局芝浦の異変の理由は、能田からも聞き出すことはできなかった。


ただ彼女もまた、あの日の芝浦の様子にただならぬものを感じている。


そして何かを知っているらしい、そのことだけは確かだった。


午後の授業が始まり、重たい空気が教室を満たす。


特に現代文の時間は地獄だ。


担当の先生はなぜか俺を目の敵にしており、授業中に何かと突っかかってくる。


俺が少しでも気を抜こうものなら、すぐさま皮肉を飛ばしてくるのだ。


今日も始まった。


俺がぼんやりとノートにシャーペンを走らせていると、教壇からねちっこい声が飛んできた。


「あら城之崎くん、今日は珍しく静かですねぇ。いつもなら授業中に、あれやこれやと文句ばかりなのに」


なんなんだよ、いきなり。


昨日の芝浦のことで頭がいっぱいなのに、授業に集中できるわけがないだろう。


「先生、俺はただおかしいと思うことがあれば言っているだけです。生徒個人を指して、まるで四六時中文句ばかり言っているかのように言うのはやめていただけますか」


努めて冷静に、しかし明確な意思を込めて反論する。


クラスの視線が一斉に俺と先生に集まる。


すると先生は目をぎらつかせ、皮肉たっぷりに話し出した。


「フフ、城之崎くん。『全然』という言葉を昔は肯定でも使っていたと言っていましたよね?それなら『四六時中』ではなくて『二六時中』ではないのですかねぇ。 昔の日本語が正しいと言うのなら、こちらが本来の日本語なのでは?」


……来たか。


売られた喧嘩は買う。


呆れてものを言う気にもなれないが、ここで引き下がるのは癪だ。


「先生。一つお伺いしたいのですが、この学校の始業時間は何時でしょうか?」


俺が不意に問い返すと、先生は一層訝しげな表情を浮かべた。


「何を今更、午前八時でしょう」


「『辰の正刻』ではないのですか?」


先生ははっとした表情をし、顔がみるみるうちに赤くなっていく。


『二六時中』というのは、かつての一日を十二等分した『十二時辰』の時代に使われていた言葉だ。


十二時辰では一日が子の刻から始まり、丑・寅・卯……と進む。


午前七時頃から辰の上刻で、午前八時に辰の正刻。


そこから午前九時頃までは辰の下刻といったように、二時間ごとに区切られていた。


余談だが、実は昼の十二時を正午と呼ぶのは『午の正刻』に由来する。


二時間の一刻が十二個ある。


その十二を九九の二六と表現して二六時中、つまり一日中というわけだ。


現在の二十四時間表記が使われるようになったのは明治以降。


二十四時間、それを九九で表し四六時中というわけだ。


「『二六時中』という古い言葉を使えと仰るのであれば、それはその言葉が使われていた時代の時間の概念──つまり十二時辰に基づいた時間──を用いるべきです。現在の二十四時間表記の時間を用いるのであれば、言葉の概念として片手落ちと言えるでしょう」


軽く息を吐いて、言葉を紡ぐ。


「先生、誤解の無いようお伝えします。俺は『的を得る』や『全然』の肯定表現での利用について、古い方が正しいと言ったわけではありません。先生がどちらも誤りだと仰ったので、それはどうかと異を唱えたに過ぎません」


さらに追い打ちをかける。


「人を陥れようとするのは結構ですが、少々詰めが甘いようです。さながら画竜点睛を欠く、と言ったところでしょうか。言葉は形だけではなく、その意味する概念があって初めて活きるものですから」


先生の顔は真っ赤を通り越して、紫になりそうだった。


机に置かれた教科書を乱暴に掴む。


まったく、突っかかってこなければいいのに。


揚げ足を取ろうとすると、藪蛇になることくらい学習しろ。


クラスメイトたちの反応は様々だった。


一部の奴らは腹を抱えて大笑いしている。


何人かは俺の言葉の意味が分からず、不思議そうな顔をしている。


そして中には、感心したような顔で俺を見ている奴もいた。


そんなクラスの様子を横目で見ていた、その時だ。


視界の隅に、芝浦が映った。


彼は他の生徒たちの反応とは関係なく、ただ俺と先生のやり取りを見ていたようだった。


そして俺が先生を言い負かしたのを見てあいつは、楽しそうに笑っていたのだ。


いつもの誰かに向ける為の笑顔ではない。


ただ純粋に面白いものを見たというような、少しだけ口角を上げたくすりと笑うようなそんな表情。


そこには昨日のような陰りも、無理をしている様子も感じられない。


その顔を見た瞬間、俺の中にあった張り詰めたものがふっと緩むのを感じた。


一昨日からずっと俺を苛んでいた芝浦の異変への気掛かりや不安が、その笑顔によって一気に吹き飛んでいく。


……よかった、大丈夫そうだな。


なんだか心底ほっとした。


あいつの笑顔一つで、俺の心はこんなにも軽くなるのか。


俺は自分の席に座りながらなぜか心の中に広がった、芝浦の笑顔によってもたらされた温かい感情をそっと噛み締めていた。

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