第2話 好奇心が殺した猫 芝浦山手の場合
……昨日のリアルは全然楽しめなかった。
それもこれも、城之崎のことが頭から離れないせいだ。
あの日中庭で見た、城之崎が鷲那を見るあの熱のこもった眼差し。
忘れようとしても、まぶたの裏に焼き付いて離れない。
あれから僕の中でグルグルと渦巻いていた気持ちは、いつの間にか『知りたい』という強い欲求になっていた。
アイツが何を考えているのか、誰を見ているのか。
そしてあの疑念、城之崎はもしかしてこちら側?
確かめなきゃ、気が済まない。
一度そう思ってしまったら、もうダメだった。
失恋の傷がまだ完全に癒えていないせいか。
あるいは元々の僕の性格なのか、一つのことに囚われると周りが見えなくなる。
モヤモヤしたまま過ごすなんて、僕には耐えられなかった。
手段は選んでいられない。
僕は城之崎光哉の『真実』を、自分の手で暴こうと決めた。
ん?
下駄箱に手紙、ちょっと久しぶりだな。
隣のクラスの女の子だった。
可愛い系の女の子だ、今フリーだしオッケーしたいとこだけど。
『ごめんね、失恋したばっかでそういう気分になれないんだ』
申し訳ないけどお断りさせていただいた。
さて。
まずはあいつに近づく口実が必要だ。
手っ取り早いのは、同じ空間にいる時間を増やすこと。
僕はアイツが所属しているという文学部への入部を決めた。
「え、芝浦が文学部?万年帰宅部のくせに?意外すぎ!めっちゃ色んな運動部から誘われてたじゃん!アイツら泣いちゃうよ?」
友達の驚く声にも、
「いやー、最近ちょっと純文学に目覚めちゃってさ」
なんて、我ながら白々しい嘘をつく。
実際本なんて、ほとんど読まない。
文化系の部活が集まる特別棟の一室。
放課後恐る恐る扉を開けると、数人の生徒が静かに本を読んだり何かを書いたりしていた。
その一番奥の席に、アイツはいた。
窓の外を眺めているアイツの横顔は、やっぱり何を考えているのか読めない。
「あの、今日から入部する芝浦ですけど」
僕の声に近くにいた女子部員が、
「あ、はいはい!いらっしゃーい!」
と快活に迎えてくれたが、城之崎は一瞥しただけで、特に反応は示さなかった。
まあ、予想通りだけど。
それからというもの、僕は機会さえあれば城之崎に話しかけた。
「ねぇねぇ城之崎、なんの本読んでるの?」
黙って表紙を見せる城之崎。
アランチューリング?
……誰?
なんか偉い人の話みたい。
「部活以外だと、休みの日とか何してんの?」
「本を読むことが多い、今も読んでいるから静かにしてろ」
なかなかキツい反応だ、悲しい。
最初は無視されたり一言で返されたりすることが多かったけど、僕のしつこさに負けて少しずつ会話が成り立つようにはなってきた。
よし、この調子だ。
ある日の部活終わりに二人きりになったタイミングを見計らって、僕は核心に近づこうと試みた。
「城之崎ってさ、今までどんな子と付き合ったことあんの?」
その肩がほんの少しだけ、強張った気がした。
「……別に、お前に関係ないだろ」
ぶっきらぼうな返事。まあそうだよな。
「ちぇー、冷たいなー。じゃあさ、好きなタイプとか!年上?タメ?年下?」
僕はめげずに食い下がる。
城之崎は大きなため息をつくと、面倒くさそうに言った。
「……特にない」
「えー、そんなこと言わずにさー。ほら、可愛い系とか綺麗系とか!」
「……」
沈黙。
ダメだ全然食いついてこない。
こうなったら変化球だ。
僕は少し声を潜めて、真面目な顔を作ってみせた。
「あのさ城之崎。知ってるかもだけど、僕バイなんだよね」
彼の目が、少しだけ見開かれた。
「……ああ、聞いたことがある」
「うん。でさ、城之崎はそういうの……どう思う?」
これは賭けだった。
彼がもし同じなら、何か反応があるかもしれない。
あるいは偏見を持っているなら、それも分かるはずだ。
城之崎はしばらく黙って僕の顔を見ていたが、やがて静かに口を開いた。
「……別にどうとも思わない、そんなものは個人の自由だろ」
あまりにもフラットな答え。
肯定も否定もない。
拍子抜けするほど、当たり障りのない答えだった。
埒が明かない。
僕はさらに踏み込んだ質問をぶつけてみることにした。
少し意地悪な、試すような響きにならないように気をつけながら。
「ねえ。ちょっと変なこと聞くけどさ、『攻め』の反対って何だと思う?」
今度こそ城之崎の動きがはっきりと止まった。
彼の視線が宙を彷徨う。
数秒の沈黙。
彼は小さな、聞き取れるかどうかの声で呟いた。
「……受け」
……っし!
心の中でガッツポーズをする。
やっぱり!
期待した通りの答えだ。
彼がそっち側の人間である可能性が、ぐっと高まった。
顔がニヤつくのを止められない。
でもその喜びも一瞬だった。
「俺、実は黒帯でな」
「……へ?」
マヌケな声が出てしまった。
「子供の頃から空手をやっていて、うちの道場では昔からそう言うんだ。空手の話だ」
城之崎は少し笑ったように見えた。
そして僕の表情の変化を見逃さなかったかのように、そう付け加えた。
「空手……?」
「攻めと受け、基本だからな」
そう言って、彼はさっさと部室を出て行ってしまった。
……はぐらかされた、完全に。
僕はその場に立ち尽くすしかなかった。
というかアイツ、わかっててやってない?
城之崎のガードは、僕が思っている以上にずっと固い。
どうすれば、彼の本心を知ることができるんだろう。
焦りが募る。
知りたい。
知りたい、知りたい。
その思いばかりが、頭の中をぐるぐると駆け巡っていた。
ブルブル。
ファイモンだ、またリアルの誘いだろう。
見ると中々の相手のように見えた。
けど。
すみません、最近立て込んでいてリアルは難しいですと。
そんな日々が続いた、ある日の放課後。
駅へ向かう途中に雑踏の中で偶然、前を歩く城之崎の姿を見つけた。
「おーい、城之崎!」
声をかけると、彼は少し驚いたように振り返った。
「……芝浦か」
「帰り?一緒に行こうぜ」
特に断る理由もなかったのか、彼は黙って頷いた。
隣を歩きながら、何を話せばいいのか分からない。
部活でのやり取り以来、どこか気まずい空気が漂っている気がする。
駅前の広場に差し掛かった時、大きな声が響いた。
「献血にご協力をお願いしまーす!」
プラカードを持ったスタッフが、僕たちの前に立ちはだかる。
「すみません、ただ今血液が不足しておりまして……」
ああこういうの、よくやってるよな。
断るのも面倒だなと思った時、僕の頭にある考えが閃いた。
そうだ、これを使えば……。
僕はスタッフに向かって、少し申し訳なさそうな顔を作って言った。
「すみません、僕バイセクシャルなんで協力できないんです」
同性と性的接触がある場合、一定期間献血できないというルールがある。
バイである僕は、その対象だ。
スタッフは慣れた様子で、
「そうですか、ご申告ありがとうございます」
と頭を下げた。
僕はさっき心に浮かんだ黒いものに、そのまま身を任せた。
悪魔の囁き、とでも言うのだろうか。
今なら聞けるかもしれない、こいつの『答え』を。
罪悪感が胸をかすめる。
だけど知りたい気持ちが、それに勝ってしまった。
僕は隣に立つ城之崎に視線を向けた。
「城之崎は、どうする?」
僕の声は、自分でも分かるくらい少し震えていた。
その答え次第で、すべてが分かるかもしれない。
僕の心臓が大きな音を立てている。
城之崎は僕の視線を受け止めると、静かにスタッフに向き直った。
そして、予想もしなかった言葉を口にした。
「すみません、信仰上の理由で献血には協力できません」
その声は落ち着いていた。
表情も、普段と変わらない。
「……し、信仰?」
僕は思わず聞き返した。
献血できない信仰って何!?
そんな話、聞いたこともない。
そもそも城之崎が何かの宗教やってるなんて全く知らない。
嘘なのか?
それとも本当に、そんな宗教があるんだろうか?
頭が真っ白になる。
スタッフは、
「あ、そうなんですね。失礼いたしました」
とすぐに引き下がっていった。
やはり慣れた様子だった、僕が知らないだけでそういう宗教があるのかもしれない。
僕たちは、再び無言で歩き出した。
「いやー、そんな宗教があるなんて知らなかったよ」
気まずい沈黙が怖くて、そう声をかけた。
城之崎は何も言わない。
人通りの少ない裏道に入ったところで、不意に城之崎が足を止めた。
僕もつられて立ち止まる。
城之崎が、ゆっくりと振り返る。
その目に宿っていたのは、冷ややかな光だった。
今まで見たことのない明らかな、軽蔑。
「……そうまでして」
静かな声が、夕暮れの空気に染みる。
「そうまでして、知りたいのか?」
その声は怒りというより、深い失望を含んでいるように聞こえた。
「俺はゲイだ、これで満足か?」
その言葉と視線が、鋭い矢のように僕の胸に突き刺さった。
凍りついたように、僕は何も言い返せない。
弁解の言葉も謝罪の言葉も、喉の奥で固まって出てこなかった。
城之崎は、それ以上何も言わなかった。
ただ静かに僕に背中を向けて、歩き去っていく。
その黒い後ろ姿が夕闇に溶けていくのを、僕はただ呆然と見送ることしかできなかった。
一人、道端に取り残される。
さっきまでの喧騒が嘘のように、辺りは静まり返っていた。
足元から、冷たいものが這い上がってくるような感覚。
…最低だ、僕。
城之崎の軽蔑に満ちた目と失望したような声が、何度も何度も頭の中で繰り返される。
どうしてこんなことをしてしまったんだろう。
好奇心?
独占欲?
分からない。
でもどんな理由があったって、許されることじゃない。
彼の心を、僕が土足で踏みにじったんだ。
激しい後悔とどうしようもない自己嫌悪の波が、僕の全身を打ちのめした。
夕焼けの空が、やけに目に染みた。
風が吹き抜け、乾いた葉が足元でカサリと音を立てた。
その音がまるで、僕の愚かさを嘲笑っているように聞こえた。




