第28話 惨めな帰り道 芝浦山手の場合
肩で浅く息をしながら、ぼんやりと天井を見つめる。
身体の奥にはまだちょっとだけ『熱』が残っているのに、頭の中は妙に冷静だった。
『あの部屋』ではいつもこの時になると、お互いどこか素っ気ない空気が流れる。
僕は体を拭いたあとベッドでスマホをいじって、あの人はベッドの反対側に腰掛けて静かにタバコをふかす。
会話も少なくただ同じ空間にいる、そんな時間。
それは僕たちにとってはいつものことだった。
でもその日は違った。
オーツさんは珍しくタバコも吸わずに、ずっと僕にくっついてきたのだ。
肩にもたれかかってきたり、後ろから抱きしめてきたり。
普段の彼からは考えられない、甘えるような仕草。
正直、嬉しい気持ちもあった。
けれどそれ以上に戸惑いと、何かいつもと違うことへの言いようのない不安。
そして若干の面倒臭さが混じっていた。
「どうしたんですオーツさん、 らしくないですよ?」
僕がそう尋ねると彼は、僕の肩に顔を埋めたままでイタズラっぽく笑う気配だけが伝わってきた。
それから急に顔を上げると妙に真面目な、神妙な顔つきで僕の目を見つめてきた。
「ねぇ、ヤマトくん」
「はい?」
「……俺の子を、産んでくれないか?」
「…………え?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
彼の表情はどこまでも真剣で、冗談を言っているようには見えない。
けど言っている内容は、あまりにも突拍子がない。
「……医者が何、バカなこと言ってるんです?冗談はやめてください」
僕は彼がまたからかっているのだと思って、呆れたように笑って軽くあしらった。
男同士で子供なんて、できるわけがないだろう。
すると彼は、プッと吹き出した。
「アハハ、なんだバレたか」
そう言って、いつもの笑顔に戻る。
やっぱり、冗談だったんだ。
僕は少しだけ拍子抜けした。
彼のその言葉の裏にあるかもしれない真意を探る余裕もなく、ただ流されるままにその夜を過ごした。
翌朝。
目が覚めると、隣に彼の姿はなかった。
あれ、 珍しく早く出たのかな?
いつもなら僕が起きるまで隣で寝息を立てているか、先に起きていてもリビングでコーヒーを飲んでいるはずなのに。
少しだけ胸騒ぎを覚えながらベッドから起き上がる。
ふとベッドサイドの小さな棚に、白い封筒が立てかけられているのが目に入った。
なんだろう?
手に取ってみる。
上質な和紙でできたそれは、結婚式の招待状だった。
宛名は書かれていない。
誰のだろうと軽い気持ちで中を開いた、その瞬間。
全身の血が、凍りついた。
『御招待状』の文字の下に記されていたのは、新婦の知らない女性の名前と、そして――新郎・大津 博満の名前。
オーツさんの本名だと気がついて、頭が真っ白になる。
理解が追いつかない。
嘘だ、何かの間違いだ。
だってあの人は……。
慌てて部屋の中を見渡すと、そこでようやく異変に気がついた。
いつも部屋を彩っていたはずの、彼が選んだであろう趣味の良い調度品やアートが、いくつか無くなっている。
部屋全体ががらんとして、 個性のない印象に変わっていた。
そうだ、思い出した。
以前僕が家具を見てそのセンスを褒めた際、
「この部屋、家具付きなんだよね」
そう何気なく言っていた。
残っているのは元々この部屋に備え付けられていたであろう、最低限の家具だけなのかもしれない。
きっと彼はもう、ここには戻ってこない。
この招待状は、僕への別れのメッセージなのだ。
そう理解した瞬間、足元から崩れ落ちそうになった。
なんで?
どうして?
何も言ってくれなかったじゃないか!
パニックになりながら僕は自分の荷物を乱暴に鞄に詰め込むと、転がるようにして『あの部屋』を飛び出した。
向かった先はもちろん、大津診療所だ。
彼に会って、直接確かめなければ。
何かの間違いだと言ってほしかった。
息を切らして診療所の前に辿り着く。
しかしそこにあったのは、一枚の冷たい貼り紙だった。
『閉鎖のお知らせ 都合により当診療所は閉鎖いたします 長年のご愛顧ありがとうございました 大津診療所』
都合により……閉鎖?
目の前が真っ暗になった気がした。
思えば僕は、あの人のことなんて何も知らなかったのだと思い知らされた。
もう会う術はないのだろうか。
ポケットに乱暴に突っ込んだ封筒に触れる。
そこには日程と場所が書かれているはず。
僕はポケットの中でその封筒を握ったまま、トボトボとあてもなく歩いた。
頭の中はグチャグチャで、何も考えられない。
考えているようで、何も考えがまとまらない。
ただ裏切られて、捨てられた。
その事実だけが、重くのしかかってくる。
そんな時だった。
どこからか楽しそうな音楽と、人々の明るい声が耳に入ってきた。
まるで火に引き寄せられる虫のように、僕はフラフラとその声がする方へと近づいていった。
そこは小さな教会だった。
思わず身構えた。
教会の扉が開かれる。
中から純白のドレスを着た新婦と、隣に立つタキシード姿の新郎が出てくるところだった。
見知らぬ新郎新婦。
降り注ぐフラワーシャワーと鳴り響く鐘の音、友人たちの祝福の声。
微笑む新婦のお腹は、ドレスの上からでも分かるほどふっくらと膨らんでいた。
できちゃった結婚みたいだ。
その光景を見た瞬間、昨夜の彼の言葉が脳内で不気味に反響した。
『俺の子を、産んでくれないか?』
冗談なんかじゃなかったのかもしれない。
子供が、欲しかったのか。
だから女の人と結婚して子供を作ろうと。
だから僕は、捨てられたのか。
それなら。
僕はポケットから封筒を取り出し、その手を離した。
オーツさんの結婚式に行った所で、どうにもならないとわかったからだ。
その瞬間、心の中に真っ黒な雫が生まれた。
ポタリ
そのほんの一雫が。
僕の心の中にある透明な水にこぼれ落ちた。
憎しみ。
妬み。
呪い。
絶望。
一気に僕の内側の全てを真っ黒に塗りつぶしていく気がした。
『人の幸せを妬んだり人の不幸を喜んだりする、そんな人にだけはならないでくれ』
あれ?
これってなんだっけ?
僕の意識は、過去に向かって駆けていった。
あ、父さんと母さんだ。
あっけらかんとした母さん、ズボラだけどいざという時頼りになる父さん。
そうだ。
放任主義の2人だが、よく言っていたことがある。
『人の幸せを妬んだり人の不幸を喜んだりする、そんな人にだけはならないでくれ』
本当にごめんなさい。
僕は今、眼の前の幸せそうな2人が妬ましくて。
妬ましくて妬ましくて、たまらない。
母さん、父さん。
こんな人間になってしまって、ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい、ごめんなさい……。
そう思うと、視界が急速に滲んでいった。
涙が、溢れて止まらない。
みっともない。
こんなところで、泣いているなんて。
僕は慌てて振り返って、その場を走り去った。
でもこんな状態じゃ帰れない。
どれくらいの時間、どれくらいの距離を歩いたのかも全く分からなかった。
足の裏が痛むのも、空腹も感じなかった。
人混みで誰かにぶつかっても道端で派手に転んでも、そんなことを気にする余裕は全くなかった。
ただひたすらに、遠くへ行きたかった。
涙で視界がぐにゃぐにゃに歪み、周りの景色は赤く染まって見えた。
あの日視界が赤かったのは、きっとさぞかし綺麗な夕焼けのせいだったんだろうと思う。
意識が、戻ってきた。
ようやく現実世界に帰ってこられた、そんな気持ちにさえなってしまう。
たまにこうして、思い出してしまう。
思えば去年の春に始まって。
1年も経たずに終わった。
あれから1年くらい、傷はまだ塞がっていないんだな。
けどきっと、大丈夫だ。
今日はちょっとだめだったけど。
明日はいつもの『芝浦山手』に戻れるはず。
僕は固く閉じていた瞼を、ゆっくりと持ち上げた。




