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本当に大事なものは  作者: 城井龍馬
高校生編
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第26話 穴の空いた器 芝浦山手の場合

あれから数日後。


僕はまた、あの古びた診療所の引き戸をくぐっていた。


午後の柔らかな日差しが、年季の入った木の壁を照らしている。


足首の痛みだって、本当はもうほとんど引いてた。


包帯なんてもう、必要ないくらいだ。


でも僕には、ここに来る『理由』があった。


……あの人に会いたい。


大津先生に。


それだけだった。


幸運なことに、もしくは時間帯のせいか待合室には誰もいなかった。


少し消毒液の匂いが漂うその空間に、壁掛け時計の秒針の音だけが静かに響いている。


まるで僕の緊張を煽るみたいに。


すぐに診察室のドアが開いて、中から声がかかった。


「芝浦さん、どうぞ」


彼は淡々と、けれどどこか見透かすような響きで僕の名前を呼んだ。


今日は看護師さんはお休みのようで、診療所には彼と僕の2人っきりだった。


その事実に、心臓が少しだけ速くなる。


「その後の足の具合はどうですか? ……まあ、痛みが引きませんでした、なんて言いに来たわけじゃないんでしょうけど」


柔和な笑顔のまま、彼は少し意地悪く問いかけてくる。


その目は悪戯っぽく細められていた。


…分かっているくせに。


『ファイモン』で何回も、他愛のないメッセージのやり取りをしてたんだ。


だから今日ここに来ることも半ば約束のような、暗黙の了解みたいになっていたんだから。


「……痛みは、もう大丈夫です」


少し恨めしげに彼を見上げながら、そう答えるのが精一杯だった。


「そうですか、それは良かった」


彼は少しも悪びれずに満足そうに頷くと、部屋の隅にある診察用のベッドを手のひらで指し示した。


「では一応見ておきましょう、そちらへどうぞ」


その言葉に逆らうことなんて、できるはずもなかった。


まぁ準備万端でノコノコやって来た時点で、僕に勝ち目など無かったんだけど。


促されるまま、僕はゆっくりとベッドの端に腰掛けた。


腰掛けたベッドは少し固い。


ひんやりとした白いシーツの感触が、薄いズボン越しに伝わってくる。


部屋にはちょっと消毒液とは違う甘いような、でも清潔感を伴った薬品の匂いが充満していた。


この匂いを嗅ぐと、なんでかか胸の奥がざわつく。


ドクドクと大きく脈打つ心臓の音が、自分でもうるさいくらいに聞こえる。


緊張とそして理由の分からない、ほんの少しの恐怖が入り混じった感情が渦巻いていた。


視界の端で、白衣の袖が動いた。


すっと伸びてきたのは節くれだってはいるけれど、清潔で綺麗な形をした男の人の手。


あぁ、大津先生の手だ。


その手が、ゆっくりと僕の胸元に近づいてくる。


息が止まる。


見られている、という意識。


体が意思とは関係なく、石になったみたいに強張るのを感じた。


彼の指先がゆっくりと空気を掻き分けて、僕へと……。


『――随分、かわいい反応をするんだね』


低い囁くような声がすぐ耳元で、まるで脳に直接響くように聞こえた。


ゾクリと、背筋が粟立った。


頭の中が真っ白になって、思考が停止する。


目の前にある、彼の手から目が離せない。


その指が僕の着ている制服のシャツの一番上のボタンに、ゆっくりと確かめるように触れた――。




「……人が来たらどうしようかと、ヒヤヒヤしましたよ」


いつの間にか離れていた彼が、白衣を再び羽織る。


悪戯が成功した子供のように笑ってた。


僕の心臓はまだバクバクと暴れている。


浅い呼吸を繰り返すばかりで、彼の言葉にまともに返事もできなかった。


ただ、熱くなった顔を俯かせる。


「芝浦さん……いや、『ヤマトくん』?」


彼が『ファイモン』での僕のニックネームを呼ぶ。


「次からは場所を変えましょう、僕の部屋なら誰にも邪魔されませんから」


彼の提案を断るという選択肢は、僕の中にはもう存在しなかった。


ただ、コクリと頷くことしかできなかった。


それからだ。


『あの部屋』で、僕たちは密かに会うようになった。


彼が住む、街を見下ろす高層マンションの一室。


初めてインターホンを押して、オートロックのドアを抜けたとき。


それからエレベーターで彼の部屋の階まで上がった時の、あの言いようのない高揚感と背徳感。


玄関を開けるといつも知らない、でも僕を安心させるような心地よい香りが迎えてくれた。


彼が焚いているというアロマの香り。


部屋全体は僕の部屋とも他の誰の部屋とも全く違う、洗練されたモノトーンで統一されていた。


壁にはなんか凄そうな絵が飾られ、リビングには深く沈み込めるような大きなソファ。


オーツさんのセンスも好きだなと、改めて思った。


家具はほとんど部屋に備え付けのものらしいけど、そんなことはどうでもよかった。


そして大きな窓からは、宝石箱をひっくり返したような街の夜景が見下ろせた。


寝室には……柔らかな間接照明に照らされたクイーンサイズのフカフカしたベッドと、肌触りの良い上質なグレーのシーツ。


何もかもが僕の知らない、きっと『大人』の世界で。


僕は少しだけ気後れしながらも、その空気に酔いしれていた。


当時の僕の頭と心は毎日彼のことで、オーツさんのことでいっぱいだった。


学校の授業中も、窓の外を見ながら彼のことを考えて上の空。


友達と話していても、彼のことが頭から離れない。


スマホを手放せなくて、彼からメッセージが来ていないか何度も何度も確認する。


たった一言の返信に天にも昇るような気持ちになったり、既読がつかないだけで地の底に突き落とされたような気分になったり。


彼に会える日が決まるったらその日を指折り数えて、カレンダーに印をつけた。


僕は彼のことを、『ファイモン』での呼び名そのままに『オーツさん』と呼んだ。


現実世界の『先生』ではなく、ネットで出会った記号のようなその呼び方が、僕たちの秘密の関係には相応しい気がした。


そして彼は、僕のことを『ヤマトくん』と呼んだ。


『ヤマト』。


それは僕が『ファイモン』で使っていたニックネーム。


昔から「山手やまて」という自分の名前が大嫌いだった。


だからニックネームを考える時、別の名前に変えてやろうとそう思ったのだ。


僕なりの、ささやかな抵抗。


でも結局、全然違うものにはできなかった。


そんな自分でも好きになれない名前。


それをオーツさんは、他の誰にも向けないような特別甘い響きで呼んでくれる。


それが、僕の心をどうしようもなく満たした。


「ヤマトくん、好きですよ」


あの部屋で……あの人の腕の中で、低い声でそう囁かれるたびに僕の思考は完全に止まってしまう。


理性のタガが外れて、自分の輪郭が曖昧になって。


あの人の中に蕩けていくような、甘くて抗いようがない感覚に襲われた。


その言葉1つ、視線1つ。


たったそれだけで、僕の世界は鮮やかに色を変えて輝きだした。


いつしか、他の誰かと『リアル』をすることもなくなった。


あれだけ頻繁にチェックして、新しい出会いを求めていたはずの『ファイモン』を開くこともほとんどなくなった。


あんなものは、もう必要なかった。


オーツさんがいれば、それで良かった。


他に何もいらない、と本気で思っていた。


本当に、満たされた毎日だった。


生まれて初めて知った誰かに全身全霊で求められて、受け入れられるという感覚。


彼という存在だけで、僕の世界は完璧に満たされていたのだ。


あの日までは。

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