第22話 心の温度 芝浦山手の場合
能田ちゃんは僕が指差した手帳に、大慌てで駆け寄った。
それをひったくるように手に取って、ギュッと胸に抱きしめる。
はぁーっと大きく息を吐いて、ホッと安心した表情を見せた。
よっぽど大事なものなんだろうな。
その必死な様子に僕の罪悪感が、もっと深く抉られる。
見てはいけないものを覗き見てしまったんだと、改めて思った。
次の瞬間。
彼女はハッとしたように顔を上げて、今度は血の気の引いた真っ青な顔で僕を凝視した。
その大きな眼鏡の奥の瞳に、疑っていますと思いっきり書かれていた。
マズい、そう思った。
「……し、芝浦くん?もしかして、その……な、中見ました?」
か細く、震える声。
その質問に僕の心臓は、ドクンと大きく跳ね上がって嫌な音を立てた。
見た。
見てしまった。
君が書いた僕と城之崎の、あの生々しい小説を。
喉まで出かかった言葉を必死で飲み込む。
バレるわけにはいかない。
「え? いや、見てないけど? なんで?」
できる限り無関心なフリをして、わざとらしく首を傾げてみせる。
声が震えてないかな?
表情引きつってない?
これが今の僕にできる、最大限のポーカーフェイスだった。
「そ、そうでしたか。 その……プライベートなことも書いてたりもするので、疑ってしまってすみませんでした。ちょっと、神経質になってしまって……」
能田ちゃんは、ジッと僕の顔を見つめる。
その視線は痛いほど真っ直ぐで、僕の薄っぺらい嘘なんか完全に見透かされているんじゃないかと感じた。
冷や汗がジワリと、背中を伝ってく。
たった数秒の、針が落ちる音すら聞こえそうな沈黙。
その後に彼女はフッと視線を落として、力を抜いたように小さく息をついた。
諦めたのかな?
それとも僕の演技を信じたのかな?
「……すみません、変なこと聞いちゃって」
そう言ってどこかぎこちない、引きつったような笑みを浮かべる。
そして彼女は、
「すみません、今日はこれで失礼します」
そう小声で言い、逃げるように早足で部室を出ていった。
部活は休むみたいだ、よっぽど動揺してるんだろう。
パタン。
ドアが閉まる音だけが、やけに大きく部室に響いた。
シンと静まり返った部屋に、完全に一人取り残されたことを改めて感じる。
全身から一気に力が抜けて、今度こそ本当に近くのパイプ椅子にヘナヘナと座り込んだ。
ドッと鉛のような疲労感が押し寄せてくる。
浅い呼吸を繰り返しながら、冷や汗で背中に張り付いたシャツの感触の気持ち悪さに顔をしかめる。
なんとか誤魔化せた……のかな?
いや、分からない。
最後の笑顔は、どう見ても無理をしていた。
あの眼鏡の奥の瞳は、僕の嘘を見抜いていたのだろうか。
そう思うと、新たな不安が胸を締め付けた。
これから彼女とどう顔を合わせればいい?
グルグルグルグルと、おんなじ思考が堂々巡りになる。
それに割り込むみたいにあの手帳の文字と情景が、勝手に鮮明に頭の中で再生され始めた。
――コウヤの白い手が、ヤマテの赤みを帯びた頬に触れる。
あの城之崎の体温の低いけど滑らかな、綺麗な手が。
僕に触れる……?
その感触までリアルに想像してしまいそうになって、ぶるりと体が震えた。
――刹那、ヤマテの体がびくりと跳ねる。
コウヤはそれを見て右の口角を持ち上げた。
あの滅多に見せないアイツの少し意地悪な、それでいてどこか楽しそうな笑み。
それは城之崎が時折見せる表情を、少し思い出させた。
まるで見てきたみたいな……。
能田ちゃんは、やっぱりよく見ているということだろう。
――そしてコウヤは手を少しずつ下へとやり、やがてその手はヤマテのシャツのボタンへと辿り着いた……。
わーー!
やめろ!
考えるな!
声にならない叫びと共に、両手で乱暴に頭を掻きむしる。
けど一度脳裏に焼き付いてしまった光景は、まるでタールみたいに頭にこびりついて剥がれない。
繰り返し、繰り返し再生される。
……そういえば、あの小説の中。
明らかに『ヤマテ』は受け身で、『コウヤ』に翻弄されてリードされている側だった。
能田ちゃんの中では、僕は完全に『そっち側』っていう認識なんだな……。
別にどっちがどうとか、そんなこと真剣に考えたこともなかった。
まぁ僕はどっちでも大丈夫だけど。
それにしても、なんでこんなに動揺してるんだろ?
今更だよね。
それなのにどうしてこんなに心臓がうるさくて、顔が熱いんだろ?
あの小説の描写が、妙に生々しかったから?
それとも城之崎の表情や仕草が、あまりにもリアルに描かれていたから?
いや、そうじゃない。
城之崎の顔が、脳裏にちらつく。
修学旅行の夜、潤んだ瞳で僕を見上げたあの顔が。
あの時の、アイツの言葉が。
あの瞬間と手帳の中の光景が、勝手に結びついてしまうからだ。
……ダメだ。
考えれば考えるほど、訳が分からなくなる。
何が現実で何が妄想か。
それから自分の、この感情は何なのか。
気を取り直そうと窓の外に目をやる。
強く傾いた西日が作り出す部屋の長い影が、まるで自分の混乱した心を映し出しているみたいで余計に落ち着かなかった。
耳が痛くなるほどの静寂の中で。
自分の心臓の音だけがやけに大きく、そして不規則に響いていた。
腰掛けたベッドは少し固い。
シーツの感触がザラリとしている。
部屋には薬品の匂いが充満していた。
胸がドクドクと大きく脈打っているのが、自分でも聞こえる。
視界の端から、手が伸びてくる。
節くれだった、ゴツゴツとした大人の男の手だ。
その手が、ゆっくりと僕の胸元に近づいてくる。
『――随分、かわいい反応をするんだね。』
低い男の声が、耳元から鼓膜に響いた――。
「……あれ?芝浦、一人か?」
突然かけられた声に、僕の意識はようやく現実へと引き戻される。
目の前には、不思議そうな顔をした城之崎が立っていた。
「大丈夫か? なんだかボーッとしてるし、顔色もひどいぞ」
城之崎が心配そうに、僕の顔を覗き込む。
「城之崎か。いや、なんでもないよ」
「なんでもないって顔じゃないだろう、本当に顔色が悪い」
「そっか……ちょっと、調子悪いのかな?悪いけど、今日はもう帰るよ」
僕は立ち上がって、鞄を手に取った。
「送ろうか?」
「いやいいよ、大丈夫だから。それじゃ」
僕は早口でそう言うと、返事も待たずに部室を後にした。
一人、夕暮れの廊下を歩く。
夕焼けに染まる空を見上げながら、家路を辿った。
空は高く澄んで、茜色と深い群青色が混ざり合い始めている。
それはどこか物悲しく、胸が締め付けられるような色合い。
街を染める西日はいつの間にか強い赤みを帯びて、床に伸びる街路樹や建物の影を長く引き伸ばしている。
まるで時間を引き延ばすかのように、ゆっくりとその形を変えていく影。
冷たい秋風が遠くに見えるケヤキの木立を揺らす。
乾いた葉っぱがハラハラと、諦めたように地面へと舞い落ちていく。
あの日も、こんな風景だっただろうか。




