第21話 見てはいけないもの 芝浦山手の場合
あれだけ濃密で感情をぐちゃぐちゃにかき混ぜられた、そんな修学旅行が終わって数週間が過ぎた。
教室の窓から吹き込む風がひんやりと肌に心地よい。
京都や奈良での喧騒がまるで遠い昔のことのように感じられる、そんな平和で代わり映えのしない日々。
それでも事件だらけだった夏休み前に比べれば、空気はずっと軽やかだった。
そんな中校内は、来月に迫った体育祭の話題で持ちきりだ。
教室のあちこちで、
「どの競技に出る?」
「リレーのメンバー、もう決めた?」
「騎馬戦、誰と組むのが最強かな?」
なんていう浮ついたような、それでいて真剣な会話が飛び交っている。
運動神経にはそこそこ自信のある僕にとってクラス対抗リレーなんかは血が騒ぐし、体育祭自体は正直楽しみなイベントの一つだった。
体を思い切り動かせれば修学旅行以来ずっと頭の中にあるモヤモヤも、少しは吹き飛んでくれるかもしれない。
そんなある日の昼休み。
購買で買ったパンを齧りながら教室に戻ると、隣の席の友人が声をかけてきた。
「なあ芝浦、 能田さん文芸部入ったんだって?」
「え、能田ちゃんがうちに?」
修学旅行で同じ班だった、あの物静かな眼鏡の女の子。
能田未来。
意外ってより、『そりゃそうだよね』って感じだ。
彼女はいつも休み時間には、城之崎みたいに分厚い本を読んでいた。
修学旅行中も城之崎と目を輝かせながら、マニアックな歴史や文学の話で盛り上がっていた。
あれだけ本が好きそうなのに、今まで文芸部に入っていなかったのが不思議なくらいだ。
そう思った瞬間、ふいに修学旅行中の彼女の姿が鮮明に脳裏に蘇ってきた。
新幹線の中で僕に何度も向けられていた、あの遠慮がちでどこか熱っぽい視線。
一瞬『あ、これって僕のこと好きなのかな』なんて、自惚れた考えが頭をよぎったのを覚えている。
正直悪い気はしなかったけど、京都での自由時間。
彼女は別人のように生き生きと、城之崎と専門的な話で盛り上がっていた。
寺社の解説をする彼女の横顔は真剣で、知的な光を放っていた。
そこで城之崎に向ける眼差しは明らかに尊敬と……それ以上の感情を含んでいるように見えた。
あの潤んだ瞳にあったのは、単なる知的好奇心だけだったのだろうか?
僕への視線は?
城之崎への視線は?
一体、どっちが本当なんだ?
あるいは、どっちも彼女なりの真剣な感情だったのか?
人の気持ちなんて結局、本人にしか分からない。
それなのに勝手に期待したり、勘違いして舞い上がったり。
挙句の果てには『もしかして色んな人に興味があるタイプなのかな?』、なんて邪推までして……。
ジワリと胸に広がったのは、苦い後味。
人の好意を軽々しく受け止めて、勝手に解釈しようとした。
そんな自分自身への、どうしようもない嫌悪感だった。
僕ってこんなに軽薄で、器の小さい人間だったのか。
どんよりとした気持ちを引きずったまま、午後の授業も上の空で過ごして放課後のホームルームを迎えた。
議題は体育祭の、出場種目の最終決定。
リレーのアンカーや綱引きのメンバー決めなどで、クラスが最後の盛り上がりを見せる。
そんな中でも僕はやっぱり、チラリと窓際の席に視線を送った。
……城之崎。
アイツはいつも以上に、気配を消しているように見えた。
机に頬杖をつい、ただ窓の外を眺めている。
何を考えているのか、その表情からは読み取れない。
体育祭、やっぱり好きじゃないのかな。
それともまだ、修学旅行のあの夜のことを引きずっているんだろうか。
声をかけてみようか?
いや、でも……。
そんな風に躊躇しているうちに、アイツの種目はいつの間にか『綱引き』と『玉入れ』なんていうなんとも地味な組み合わせで決定していた。
僕の方は結局。
クラス対抗リレーのアンカーと騎馬戦の大将っていう、目立つ役割を押し付けられてしまったけど。
ホームルームが終わり、教室が騒がしくなる。
友だちの『体育祭終わったら打ち上げ行こうぜ!』という声に曖昧に頷きながら、僕はその輪を抜け出してなんとなく文芸部の部室へと向かっていた。
最近は城之崎や大庭とサイゼで駄弁ることが習慣になっていたけど、今日はなんとなく一人で静かな時間を過ごしたかったのかもしれない。
自己嫌悪とか城之崎への微妙な感情とか、そういうのを整理したかった。
古い特別棟の、軋む廊下を歩く。
他の文化部の活動場所でもあるこの棟は、放課後でもどこか静かで少し埃っぽい匂いがした。
目的の部室の前に立ち、ドアノブに手をかける。
ゆっくりとドアを開けると、ヒンヤリとした空気が流れ出てきた。
「……誰もいない」
いつもより早く来たため、広いとは言えない部室の中には誰もいなかった。
壁には古い文学作品のポスターや、過去の部誌らしきものが貼られている。
いくつかの長机とパイプ椅子が並んで、部屋の奥には本棚が堂々とたたずんでいる。
窓から西日が差し込んで、床に落ちた埃を金色に照らし出していた。
適当な席に座ろうとしてふと、窓際に近い長机の上に一冊の手帳がポツンと置かれていることに気がついた。
あれ、誰かの忘れ物かな?
小ぶりで手に馴染むような、少し使い込まれた感じの落ち着いた色のシンプルな手帳だ。
城之崎のとか?
いや確かアイツはもっと無機質で、実用一辺倒なノートを使っていた気がする。
じゃあ、他の部員の誰かかな?
新しく入った能田ちゃん……とか?
忘れ物なら届けないと、名前は書いてあるかな?
そうして僕は吸い寄せられるようにその手帳に近づいて、そっと手に取った。
ズッシリとした、書き込まれたものの重みが伝わってくる。
外側には何も書かれていない。
……中になら?
いやいや人の手帳を勝手に見るのはマズいって。
プライベートなことが書かれていたらどうするんだよ?
分かってる、見たらダメ。
……でも、どんなことが書かれてるんだろ?
好奇心が、ジワジワと心の中に広がる。
指が、勝手に表紙をめくってた。
大丈夫、名前を確認するだけだから。
すぐに閉じたらいいだけ、そう心の中で繰り返しながら。
パラリとめくった最初のページに、名前はなかった。
代わりに僕の目に飛び込んできたのは、日記とかメモじゃない。
会話文と地の文。
明らかに、創作物――小説だった。
小説か……どんな話なんだろ?
興味を引かれてさらにページをめくってしまう。
登場人物の名前を探して見つけた、その瞬間。
――ヤマテ。
――コウヤ。
そこにはっきりと僕と城之崎の名前が、物語の登場人物として書かれてた。
「……へ?」
喉から変な声が漏れた。
完全に理解追いつかない。
これって、なに?
たまたま同じ名前?
奇跡の一致?
いやいやそんなはずないって、この名前の組み合わせはさすがにありえないよね。
震える指で慌てて数ページを乱暴にめくって、物語を追いかける。
これは間違いない。
舞台はこの学校で、登場人物は僕と城之崎。
描かれてるのはクラスでのやり取りや放課後の会話、それから……2人密の混じり合う視線と触れ合い、だんだん募っていく感情……。
甘酸っぱくも切ない、男子高校生同士の……恋愛。
ふと中の一節が目に留まる。
――コウヤの白い手が、ヤマテの赤みを帯びた頬に触れる。
刹那、ヤマテの体がびくりと跳ねる。
コウヤはそれを見て右の口角を持ち上げた。
そしてコウヤは手を少しずつ下へとやり、やがてその手はヤマテのシャツのボタンへと辿り着いた、
……僕と城之崎の、BL小説。
頭が真っ白になった瞬間、顔だけが燃えるように熱くなる。
タッタッタッ!
急に外で誰かがこの部室走ってくるような足音がしてきた!
息が、うまくできない。
ヤバい、見ちゃいけないもの見ちゃった!
混乱する思考、指先がカタカタと震えている。
慌てて手帳を元の位置に戻して席に着く。
誰かがドアを開けようとして手間取っている、相当焦ってるみたいだ。
ガチャガチャという音と僕の浅く速い呼吸と、狂ったような心臓の音だけが響いていた。
扉が開くと、入ってきたのは能田ちゃんだった。
僕をみるとすぐに、荒い息のまま声を上げる。
「し、芝浦くん!?……っ手帳!手帳置いてありませんでしたか!?」
「……手帳?」
僕は白々しく、部屋を見渡す。
「もしかして、それの事?」
僕はできる限り無心になって、あの手帳を指さした。




