第1話 Revival 芝浦山手の場合
窓の外では灰色の景色の中で、延々と雨が振り続けていた。
雨の雫が窓をポタポタと静かに叩く度、水彩画のように色が滲んでいく。
6月、高校2年なってもう3カ月。
教室の中は湿度が高くジメジメとしている。
僕、芝浦山手はそんなありふれた放課後の空気の中で、頬杖をつきながらぼんやりと窓の外を眺めていた。
…おもしろくないなー。
心の中で呟く。
少しはスッキリしたはずだったのに、たまにこうしてフラッシュバックする。
そんな時は世界が少し色褪せて見える。
明るくて社交性が高いと良く言われる。
周囲にはいつも通りの『芝浦山手』を演じているつもりだけれど、内心は空虚だった。
いつも通りにするのがこんなに辛いなんて、というかいつもはどうしてたっけ?
結局人間関係なんて、いつかはあっけなく壊れてしまうものなのか。
そんな諦めに似た感情が、僕の心を支配していた。
ブルブルとスマホが震える。
ファイモン、ファイティンモンスターの通知だった。
昨日したリアルファイト、通称リアルのお礼。
まぁ昨日の人はなかなか良かった。
えー、『対戦ありがとうございました、またお願いします』と。
今の僕のささやかな楽しみと言えば、このファイモンと人間観察くらいだ。
教室や廊下、中庭。
行き交う生徒たちの表情や仕草を眺めていると、少しだけ気が紛れる。
他愛ない噂話に花を咲かせる女子グループ、部活のことで熱く語り合う男子たち、黙々と参考書に向かう真面目そうな生徒。
可愛い系の女の子が僕を見て手を振ってくる。
あーいいな全然イケる、なんて考えながら笑顔で手を振り返す。
お、こっちにはイケメン。
見たこと無いな、1年か?
ワンチャンこっち側だったりしないかな?
そんな観察対象の中で、最近、妙に僕の注意を引く存在がいた。
同じクラスの、城之崎光哉。
窓際の席で、いつも文庫本を開いている男だ。
真っ黒な髪は少し長めで、表情は硬い。
誰かと積極的に話すわけでもなく、休み時間も一人でいることが多い。
最初は『暗い奴だな』くらいにしか思っていなかった。
けれど、ふとした瞬間に彼が見せる、何かを射抜くような鋭い視線に気づいてから、なぜか目が離せなくなったのだ。
何を考えているのか分からない、そのミステリアスな雰囲気が、僕の興味を静かに刺激していた。
そんなある日、現代文の授業でグループ発表の課題が出された。
くじ引きの結果、僕はなんと、あの城之崎と同じグループになった。
メンバーは他に、クラスの中心的な女子と、おとなしい男子の計四人。
「よろしく、城之崎。」
僕が声をかけると、城之崎は一瞬だけ視線を上げ、
「…ああ。」
と短く応えただけだった。
やはり、とっつきにくい。
テーマ決めは比較的スムーズに進んだが、問題は資料作成の段階で起こった。
発表原稿の言い回しについて、担当の現代文教師――通称「現文ばばぁ」――が、城之崎の書いた一文に目をつけて指摘を入れたのだ。
「城之崎くん、ここの『全然大丈夫』という表現ですが、『全然』の後には否定の言葉が続くのが正しい使い方ですよ。」
教壇から、ねちっこい声が響く。
クラスの数人がくすくすと笑った。
僕もあーやっちゃったかと思った、その時。
「先生、そう断定するのは少し乱暴では?」
城之崎が、表情ひとつ変えずに言い放った。
教室が一瞬、しん、となる。
「…なんですって?」
現文ばばぁの声が尖る。
「『全然』は元来、『すっかり』『完全に』といった意味合いで肯定表現にも使われていました。例えば、夏目漱石の『吾輩は猫である』にも、『全然自分の威光を自分の手柄のように考えている』という肯定の用例があります。他にも石川啄木の『日露戦争論』で『全然関知せざるもののごとく装い』や、芥川龍之介の『羅生門』では『全然、自分の意志に支配されている』等といったように、枚挙に暇がありません。現代語において否定を伴うことが多いのは事実ですが、肯定表現が即座に誤りであるとは断定できません。」
淡々と、しかしよどみなく述べられる反論。
その内容は的確で、知識に裏打ちされているのが分かった。
現文ばばぁはぐっと言葉に詰まり、顔を赤くしている。
マジかよ、こいつ…!
僕は内心で叫んだ。
まさか教師に真っ向から反論するとは。
しかも、妙に説得力がある。
周りの生徒たちも唖然としているか、面白がってニヤニヤしている。
結局、現文ばばぁは咳払いをひとつして、
「…まぁ、そういう考え方もありますが、テストでは一般的な用法で答えるように。」
と、やや苦し紛れに話を収めた。
グループの席に戻ると城之崎の幼なじみの大庭が、
「ちょっと、光哉!ヒヤヒヤしたじゃん!」
と軽く城之崎の肩を叩いたが、彼は気にした風もなく、
「事実を述べたまでだ。」
とだけ返し、再び資料に目を落とした。
うわ、面倒くせぇ…けど。
僕の顔には苦笑いが浮かんでいることだろう。
だが城之崎に対する見方が変わっていくのを感じていた。
ただの無愛想で暗い奴じゃない。
妙なところで頑固で、面倒なほどのこだわりを持っている。
でもそれは、物事の本質を見ようとする真摯さや、妥協しない鋭さの表れなのかもしれない。
…筋は通ってる…のか?
そう思うと、ますます彼から目が離せなくなった。
決定的な光景を目にしたのは、それから数日後の昼休みだった。
友人と他愛ない話をしながら中庭を歩いていると、少し離れたベンチに座る二人の男子生徒が目に留まった。
一人は城之崎、そしてもう一人は――。
あれ、鷲那じゃん。
一年生ながら、その整いすぎた容姿で校内の有名人となっている、鷲那豊樹だった。
女子たちが常に遠巻きにしている、あの。
なぜこの二人が一緒に?
そう思った瞬間、息を呑んだ。
城之崎が、笑っていたのだ。
いつもは固く閉じられている唇が、柔らかい弧を描いている。
鷲那に向けているその眼差しは、普段のクールさからは想像もつかないほど優しく、そして隠しきれないほどの熱を帯びていた。
まるで宝物でも見るかのように、慈しむような、切ないような…。
「……。」
僕は、その場から動けなかった。
心臓が、ドクン、と大きく跳ねる。
…あんな顔、するんだ。
見たことのない城之崎の表情。
あれは、ただの友情に向ける顔じゃない。
特別な感情がそこにある、僕の目にはそう映った。
それ以来僕の視線は、より頻繁に城之崎を捉えるようになった。
授業中、ノートをとる横顔。
休み時間に窓の外を眺める姿。
そして時折訪れる、あの光景――。
城之崎の幼なじみ大庭咲良が、彼の席にやってくる場面だ。
綺麗系で胸もデカい、クラスの男子生徒にファンも多い。
大庭は明るい笑顔で城之崎に話しかけ、かいがいしく世話を焼こうとする。
しかし、城之崎の反応は、いつも淡々としたものだった。
特に嬉しそうでもなく、かといって邪険にするわけでもない。
ただただ、静かに受け入れているように見える。
明らかに好意持たれてるのに、あの態度…。
思わず勘ぐってしまう。
もしかして、城之崎は女の子には興味がないのだろうか。
城之崎が鷲那に向ける熱っぽい視線を思い出す。
確信に近いものが、胸の中にストンと落ちた。
そして最も僕の心をざわつかせるのは、城之崎が鷲那と一緒にいる時だった。
鷲那は、城之崎の前では気を許しているのか、いつもの人当たりの良い笑顔だけでなく、拗ねたり、はしゃいだり、表情が豊かだった。
まるで懐いた大型犬のようだ。
だがその態度は、どう見ても親しい先輩に対するもので、恋愛感情の色合いは感じられない。
城之崎から向けられている特別な好意には、全く気づいていないようだった。
能天気に笑う鷲那と、その隣で切なげな嬉しそうな表情を浮かべる城之崎。
鷲那、お前、絶対わかってねーだろ…!
僕は心の中で毒づいた。
その光景を見るたびに、胸の奥がチクリと痛むのだ。
なぜか分からないけれど、イライラする。
なんで僕が、あいつらのことでこんなにイラついてんだ?
友情?
いや、違う。
共感?
それも、なんだかしっくりこない。
僕は自分が城之崎光哉という、不器用で、クールで、面倒で、そして時折驚くほど熱い表情を見せる同級生に対して抱き始めた、この名前のつけられない感情の正体がわからず、一人、深い戸惑いの中にいた。
ブルブル。
あ、またファイモンの通知だ。
あー先輩か、今からリアル?
ま、暇だし別にいいですよ、と。
待ち合わせ場所は駅前のカフェか。
外では、風が一層強く吹き始めていた。