第17話 思惑入り乱れる修学旅行 芝浦山手の場合
修学旅行3日目の朝。
さすがに2日連続でまともに眠れていない体は、限界に近い悲鳴を上げていた。
ズキズキと響く頭痛、鉛を飲み込んだかのように重い体。
布団から起き上がるのすら億劫で、しばらく天井を眺めていた。
「芝浦大丈夫か? 顔色悪いぞ」
隣で身支度を整えていた城之崎が、心配そうな顔でこちらを覗き込んできた。
昨日はほんの少しだけ雪解けの兆しが見えた、その低く落ち着いた声が今は心地いい。
凍りついていた心が、じんわりと温められるような感覚があった。
「まぁちょっと寝不足なだけだよ、ありがと」
曖昧に笑って誤魔化した。
そして自由時間。
でも頭が働かない僕は、フラフラとみんなに付いていくだけだった。
そんな中、聞き慣れた会話が耳に飛び込んできた。
「先程行った哲学の道、すごく良かったですよね!」
能田ちゃんが少し興奮した声で話している。
「紅葉に染まった、あの疎水沿いの静かな雰囲気……西田幾多郎や田辺元があの道を歩きながら日本の哲学を深めていったんだって思うと、なんだか自分も少し賢くなれた気がして!」
「あぁ、分かる」
城之崎が穏やかに相槌を打つ。
「ただ美しいだけではない、知的な思索の香りが漂うような道だったな。あの谷崎潤一郎も愛したという法然院の静寂も、俗世から切り離されたようで印象深かった」
うわ朝っぱらからまたマニアックな話してるよ……哲学?
谷崎?
全然ついていけない……。
僕は置いてけぼりにされてさみしい思いをしているけど、会話はさらに続く。
「ですよね! それに比べてこの河原町の現代的な賑やかさ! 昔は鴨川の処刑場だったり江戸時代には芝居小屋が立ち並ぶ歓楽街だったりしたって歴史を知ると、今のファッションビルが立ち並ぶ光景もなんだか違ったレイヤーで見えてきませんか?」
能田ちゃんは目を輝かせている。
歴史の話になると本当に楽しそうだ。
「確かに」
城之崎も頷く。
「今の華やかな四条河原町も、その下には幾層もの時代の記憶が埋まっている。高瀬川の物流拠点としての役割や、幕末の志士たちが駆け抜けたであろう木屋町の喧騒。そういったものを想像すると単なる繁華街ではない、京都ならではの奥行きを感じるよな」
「そうなんです! 城之崎さん、やはり見識が深くていらっしゃる!」
能田ちゃんが心なしか潤んだ瞳で城之崎を見上げているように見えるのは、僕の寝不足による幻覚?
……おいおい、ただ歴史の話してるだけだよね?
なんでそんな目で城之崎を見てるんだよ……ほんと、誰でもいいのかよ。
僕のクソみたいな内心なんて知るはずもなく、二人の知的な朝の時間は僕の知らない固有名詞と共に過ぎていく。
その知的な会話の輪の外から、虎視眈々と機会を窺っているのが大庭だった。
城之崎が能田ちゃんとの会話の合間に一息ついた瞬間を見計らっては、
「ねぇねぇ光哉!」
そう明るく声をかけて、なんとか会話に割り込もうとしている。
その執念には、もはや尊敬すら覚える。
ただ僕はふと気になっていたことを確かめるために、朝食を終えて少し離れた廊下の隅で窓の外を眺めていた大庭を手招きした。
「大庭、ちょっといい?」
「ん、なぁに? 芝浦くん」
くるりと振り返って人懐っこい笑顔を向ける彼女に、僕は少し躊躇いつつも単刀直入に切り出した。
「いやさ、夏祭りのあとに城之崎と3人で話してたじゃん? それでなんか城之崎が好きなのが僕だったら、みたいなことも言ってた気がするんだけど……。でも今の大庭を見てると全然諦めてる感じしないし、今どういう心境なのかなって」
すると大庭はキョトンとした顔で数秒僕を見つめた。
次の瞬間、太陽のような満面の笑みで言い放った。
「え? 私、諦めたなんて一っ言も言ってないよ?」
「へ?」
予想外の答えに、僕はマヌケな声を出す。
「だって例えばセクシャルマイノリティだった芸能人が、後から普通に異性と結婚して子供できましたーなんて話ゴロゴロしてるじゃん? 」
悪びれもせず、彼女は続ける。
「私は今ね、『何でも話せる、恋愛相談しやすい幼なじみ』っていう最高のポジションをゲットしたの。ここからじっくりジワジワ距離を詰めていく作戦なんだから、焦りは禁物ってね!」
そう言って彼女は、いたずらっぽく片目をつぶった。
その笑顔はどこまでも明るく、裏表がないように見える。
でもその底にある目的達成への執念と計算高さとある種の『割り切り』に、僕は肌で恐怖を感じずにはいられなかった。大庭咲良、恐るべし……。
その日は1日、班ごとに京都での自由行動だった。
僕たちの班は、相変わらずのメンバー構成だ。
城之崎は昨日僕が山手線ゲームで助け舟を出したせいか、単純に時間が経ったからかあからさまな冷たさは少し和らいだ。
それでもまだどこか、ぎこちなさが残ってる。
能田ちゃんはそんな城之崎と歴史談義を続けて、大庭は隙あらば城之崎に話しかける。
僕はと言えば、大庭の宣言を聞いた後ではなんとなく複雑な心境で、少し離れた場所から彼らを眺めていることが多かった。
あっという間に時間は過ぎて、夕方。
僕たちはそれぞれの自由時間を終えて、指定された夕食の時間に柊鷲庵の広間へと向かった。
これが柊鷲庵で過ごす最後の夜、最後の夕飯だ。
広間には多くの生徒が集まっていた。
中居さんが優しい声で挨拶をする。
「皆様、本日は自由時間お楽しみいただけましたでしょうか?今宵は柊鷲庵にてお過ごしいただく、最後のお夕餉となります。京都での良き思い出となりますよう一同、腕によりをかけてご用意いたしました」
その言葉通り各々のお膳には、見るからに豪華で美しい料理が並べられていく。
……はずだった。
僕の前に置かれたお膳は、どう見ても他の生徒たちのものとは違っていた。
品数が少なくて彩りも乏しい、なんだかとってもみすぼらしく見える。
鷲那は結局最後まで……。
ふと隣を見ると、城之崎のお膳も僕と全く同じみすぼらしい内容だった。
なんで城之崎まで……?
どういうことだ?
鷲那の意図が読めず、混乱する。
僕と城之崎が顔を見合わせめ、広間に微妙な空気が流れ始めた。
その時。
入り口から文字通り血の気の引いた青い顔をした鷲那と、彼に必死に合わせるように困り果てた表情の中居さんが駆け込んできた。
「も、申し訳ございません! お客様! こちらの手違いで、お二方のお料理の内容が……!」
2人は僕たちの前で深々と頭を下げて、必死に謝罪の言葉を繰り返している。
その様子は真に迫っていて、一見すると本当に重大なミスを犯してしまったかのようだ。
なんだ、嫌がらせじゃなかったのか?
……いや、待てよ。
しかしよく見ると鷲那の必死な表情の中に、どこか冷静さが窺える気がした。
中居さんの困り方も鷲那に促されているようで、少し不自然だ。
……なんか、わざとらしくないか?
この必死さ、妙に熱演がかってる気がする。
僕が内心で不思議に感じていると、鷲那が顔を上げた。
若旦那の仮面を被って、でも動揺を隠せないといった雰囲気で。
「このようなことがあっては、柊鷲庵の名に傷がつきます! つきましてはささやかではございますが、お詫びの印といたしまして」
彼は一呼吸置いて、とんでもない提案を口にした。
「当庵で最も格式の高いVIP専用のお部屋、『大鷲の間』を本日芝浦様と城之崎様のために特別にご用意させていただきます!」
その言葉を聞いた瞬間、僕の中でカチリと音がした。
やっぱり謝罪は全部芝居だったのか!
みすぼらしい料理もこの状況を作るためだけの、わざとらしい茶番!
でもコイツ、僕と城之崎を二人きりにするつもりなのか?
なんでそんなことを?
周りの生徒たちからはマジかよすげぇなという驚きと羨望の声が上がるが、僕は鷲那の企みに内心ため息をついていた。
夕食の後鷲那の狙いが分からなくて複雑な気持ちでいると、当の本人は中居さんに何か指示を出してそそくさと立ち去ろうとした。
あの芝居の真意を確かめずにはいられない。
僕は慌ててその後を追いかけた。




