第16話 逆転の修学旅行 芝浦山手の場合
「失礼します」
声をかけて、ゆっくりと襖を開ける。
中はまず、スリッパを脱ぐための小さな玄関みたいになってた。
行儀よくスリッパを脱いで畳に上がるともう一枚、部屋の内部へと続く襖がある。
そっちも静かに開けると行灯の柔らかな光に照らされた和室の真ん中に、座布団に腰を下ろした鷲那がいた。
浴衣?
いや、高そうな着物姿だ。
「ようやっとお越しやす、あんまりに遅いさかい何やあったんやないかと心配しましたわ」
若旦那スマイルと共にかけられた言葉には、心配など微塵も感じられない。
明らかに『いつまで待たせんねん』という苛立ちが透けて見えた。
「ごめん、少し迷ってしまって」
正直に返事をして、さっそく本題に入ろうとする。
「それで鷲那――」
「お客様」
僕の言葉を遮り鷲那は僕の後ろ、つまり開け放たれたままの襖の方に視線を向けた。
「まだどなたか来られはるんですか?」
「え?」
思わず振り返るけど、もちろんそんなことはない。
「いや、僕だけだけど?」
「せやったらわざわざ換気してくれはったんですね、お気遣いいただいてエラいすんません」
ニッコリと笑いながら丁寧な京都弁でそう言われて、ようやく気がついた。
遠回しに『襖を閉めろ』と言ってるんだ。
直接言わずに相手が察するよう伝える。
その言い方に内心、『京都人こわ…』と呟く。
慌てて立ち上がって、2枚の襖をきっちりと閉めた。
元の位置に戻って、鷲那に向き直る。
「お客様もお忙しいやろし、ちゃちゃっとお話済ませましょか」
やっぱりどこか事務的で、壁がある。
このままだと、本音の会話なんてできそうにない。
「あの、鷲那」
僕は勇気を出して呼びかけた。
「できたらいつもの感じで話してくれない? その、若旦那じゃなくて」
その言葉に鷲那の顔から、スッと営業スマイルが消えた。
ただ後輩として振り撒くいつもの笑顔とは違う、ある種の素っ気なさ。
あるいは明らかな不機嫌さを乗せた目が僕を射抜く。
「……なんです? 改まって」
標準語だ。
空気がピリッと張り詰める。
これなら少しは本音に近づける……かもしれない。
僕は正座したまま畳に手をついて、深く頭を下げた。
「合コンのことは、本当にゴメン!」
先日の一件を心から詫びた。
「……で?」
頭を上げると、鷲那は表情を変えずに僕を見ている。
「それでお願いがある、高校の修学旅行なんてたぶん人生で1回だけだよね?だから、その……そろそろ許してくれない?」
鷲那はフン、と鼻で息を吐いた。
「なんのことです? どちらにしても俺に何のメリットがあるんですか?」
前回と同じ問い。
やっぱり、簡単にはいかない。
「それは……」
僕は言葉に詰まる。
どうしたら納得してもらえる?
「じゃあ今度こそ!本当に可愛い子を紹介するから……」
言いかけた瞬間、鷲那が割って入る。
「信用できるわけないでしょう?」
にっこり笑って言った。
「……だよね」
力なく頷くと、鷲那は小さくため息をついた。
「だったら、話はここまでですね」
素っ気なく標準語で言い放つ。
謝罪も取引も、この男には通用しないのか。
このままだと本当に修学旅行が終わるまで、もしくは終わってからも嫌がらせが続くかもしれない。
城之崎との関係も修復できない……。
どうすればいい?
コイツを動かすには、どうすれば――?
そこで、僕は考えを巡らせた。
鷲那は、話を打ち切るとばかりに、再びすっと表情を変え、完璧な若旦那スマイルを顔に貼り付けた。
「お客様」
すっと視線が僕の手元に落ちる。
「なかなかえぇ時計してはりますなぁ、どちらさんのですやろ?」
時計?
自分の手首を見るが、そこには安物の時計があった。
まただ。
丁寧な京都弁での、遠回しな「帰れ」の合図。
……ヤバい、全然何も浮かばない。
「僕さ……城之崎には嫌な思いしてほしくないんだよ」
絞り出すように呟いたその言葉に、鷲那の笑顔がちょっとだけ揺らいだように見えた。
「できれば嫌われたくないけど、それより城之崎の気持ちを大事にしたい。アイツを巻き込まないでくれないか?」
鷲那は何も言わない、ただ黙ってこっちを見てる。
僕の言葉の真意を探るように。
しばらくして鷲那は、フッと息を吐いた。
その笑顔を崩さぬまま、でも目の奥には冷たい光を宿して言った。
「言わはりたいことは、それだけですやろか?」
静かに、でも最後はきっぱりとした標準語で彼は続けた。
「本日は、これにてお引き取りを」
その言葉は有無を言わせぬ最終宣告だった。
今はもう、どうしようもない。
僕は唇を噛みしめながら、立ち上がって部屋を後にした。
襖が閉まる音が、やけに重く響いた。
トボトボと自分の部屋に戻ると、さっきより騒がしさがさらに増してた。
数人の男子が、車座になって何やら盛り上がっている。
「やまのてせんゲーム!」
誰かの声が聞こえた。
懐かしいことやってんなって思い。
それと山手線か……と微妙な気分になりながら、僕はその輪に加わることにした。
「お、芝浦おかえり! お前もやろうぜ!」
一人が手招きする。
断る理由もなく、僕はその輪の端に腰を下ろした。
最初は当たり障りのないお題で進んでいたんだけど、何回か回ったたところで1人がニヤニヤしながらこう言った。
「次はー、お世話になってる夜の女優の名前!」
「うおおお!」
「いいねー!」
場が一気に沸く。
コイツらやってんな、僕もいつもお世話になっている方々の名前を挙げていくか。
なんて心の中で思いながら、皆がそれぞれ好きな女優の名前を挙げていくのを聞いていた。
「築島ももか!」
あーいいよね、何が良いってデカいんだよね。
「下原愛!」
わかるわー、家族に報告するやつとか!
「真上優亜!」
元アイドルの、いつも本当にありがとうございます。
……ふと。
隣を見ると、城之崎の顔色が明らかに悪くなっていることに気がついた。
唇をきつく結んで、視線を畳に落としている。
ヤバい……!
城之崎は、夜の女優なんてわからないんじゃないか。
あの献血のときの最低なやり取りがフラッシュバックする。
『俺はゲイだよ、これで満足か?』
あの時の冷たい声と視線が、今も胸に突き刺さっている。
激しい後悔と罪悪感が込み上げる。
せめてもの償いとして、城之崎を守らなければ。
僕が内心で焦っているうちに、順番は無情にも回っていく。
そして城之崎の番がやってきた。
ますます顔色が悪くなる。
何か言おうとして、口を開ける。
その姿を見て僕は、考えるより先に動いていた。
「やだ!城之崎の口からそんなの聞きたくない!」
大声で叫び、無理やりゲームの流れを断ち切る。
「えーいいじゃんかよー!」
「なんだよ芝浦、今度は城之崎狙いかー?」
周りからブーイングが飛ぶ。
今度はって……僕ってやっぱり節操ないイメージなんだな。
まぁ……ムリもないか。
それでいい。
何よりあのときみたいに城之崎が傷つくことだけは、絶対に避けたかった。
「こんな不健全なお題はダメ! もっと平和的なやつにしよ、ね?」
半ば強引に、でも必死に訴える。
僕のゴリ押しにみんなは渋々といった感じで引き下がった。
「ちぇー、まあいいけどさ」
「じゃあ次は……都道府県の名前な!」
僕が無理矢理変えたお題で山手線ゲームは再開されて、その後は平和に終わった。
チラリと城之崎を見ると、先ほどのような動揺は見られなかった。
俯いたまま、何も言わなかったけれど。
その夜。
やはり例の薄っぺらいせんべい布団では、なかなか寝付けなかった。
畳の硬さが背中に食い込み、寝返りを打つたびに体が軋む。
部屋には、皆の静かな寝息が響き渡る。
結局、鷲那には許して貰えなかった。
城之崎にも避けられたまま。
いや、でもさっきは……。
ぐるぐると考え事をしているといきなり、パジャマの袖をクイクイッと軽く引っ張られた。
驚いて目を開けると、すぐ隣で城之崎がこちらを見ていた。
暗闇に目が慣れてきて、その真剣な表情がうっすらと見える。
あ。
やっぱりコイツ、睫毛長いな。
あの軽蔑に満ちた冷たい視線とは違う、静かな眼差しだ。
「……さっきは」
城之崎が、囁くような小さな声で言った。
「ありがとう」
その一言が僕の耳に届いた瞬間、心臓が凍りついたかのように動きを止めた。
そして次の瞬間、信じられない速さで打ち始めた。
ありがとう?
城之崎が、僕に……?
あれ以来まともに口も聞いてもらえず、避けられて彼の視界にすら入れていないように感じていた。
軽蔑されて拒絶された相手から、予想もしなかった感謝の言葉。
「あ……いや、別に……大丈夫だよ」
声が震えなかっただろうか。
しどろもどろに返すのが精一杯だった。
城之崎はコクリと頷くと、またすぐに布団に潜って向こうを向いてしまった。
ほんの数秒の出来事。
けれど僕の混乱と動揺は、その後も全く収まらなかった。
でも今はただ、俺に話しかけてくれたこと。
そして『ありがとう』と言ってくれた、そのことだけで胸がいっぱいだった。
絶望的に凍りついていた関係にほんのわずか、一筋の光が差したような気がした。
安堵感と驚き、そして再び込み上げてくる自己嫌悪とそれでも消せない微かな希望。
そんな感情の嵐に翻弄され、結局その夜もほとんど眠ることができなかったのだった。
薄い布団のせいだけじゃない、あたたかい理由がそこにあった。




