第16話 逆転の修学旅行 芝浦山手の場合
夕食と風呂を終え、他の男子たちが部屋でトランプに興じる喧騒を背に、僕はそっと部屋を抜け出した。
昼間中居さんから伝えられた部屋の場所だけを頼りに、しんと静まり返った旅館の廊下を進む。
いや広すぎません?
絶賛道に迷い中だ。
磨き上げられた木の床が、僕の足音を微かに吸い込む。
やがてなんとか目的の部屋の前に辿り着いた。
古いが手入れの行き届いた、重厚な木の襖。
部屋の名前が書かれた札はかかっていない。
ここが若旦那である鷲那の私室、あるいは彼が用意したという『話し合いの場』なのだろう。
ごくり、と唾を飲み込む。
襖の向こうにいるであろう鷲那の顔を思い浮かべると、昼間の屈辱的なやり取りが蘇り、腹の底から怒りがふつふつと湧き上がってくる。
だが、今は感情的になってはいけない。
目的はこれ以上の嫌がらせを止めさせること。
そして何より、城之崎との間にできてしまった決定的な溝を、少しでも修復する糸口を見つけることだ。
深呼吸を一つ。
僕は意を決して、襖に手をかけた。
「失礼します。」
声をかけ、ゆっくりと襖を開ける。
中はまず、靴を脱ぐための小さな三和土になっていた。
行儀よくスリッパを脱いで畳に上がるともう一枚、部屋の内部へと続く襖がある。
そちらも静かに開けると、行灯の柔らかな光に照らされた和室の中央に、座布団に腰を下ろした鷲那がいた。
浴衣ではなく、おそらく彼自身のものだろう、仕立ての良い着流し姿だ。
「お待ちしておりました、ようやっとお越しやす。あまりに遅いさかい、何かあったんかと心配しましたわ。」
完璧な若旦那スマイルと共にかけられた言葉。
その声音には、心配など微塵も感じられない。
明らかに『いつまで待たせんねん』という苛立ちが透けて見えた。
「ごめん、少し迷ってしまって。」
正直に返事をし、本題に入ろうと口を開きかける。
「それで、鷲那――。」
「もしかして。」
僕の言葉を遮り鷲那は僕の後ろ、つまり開け放たれたままの襖の方に視線を向けた。
「まだ、どなたか来られはるんですか?」
「え?」
思わず振り返るが、もちろん誰もいない。
「いや、僕だけだけど…。」
「そうですか。それやったら、わざわざ換気してくれはったんですね。お気遣いいただいて、すみません。」
にっこりと笑いかけ、丁寧な京都弁でそう言われて、ようやく気がついた。
遠回しに『襖を閉めろ』と言っているのだ。
直接言わずに相手に察させる、その婉曲的な物言いに、内心『京都人こわ…』と呟きながら、僕は慌てて立ち上がり、二枚の襖をきっちりと閉めた。
元の位置に戻り、鷲那に向き直る。
「お客様もお忙しいお方でしょうし、ちゃちゃっとお話済ませましょか。」
やはりどこか事務的で、壁がある。
このままでは、本音の会話などできそうにない。
「あの…鷲那。」
僕は意を決して呼びかけた。
「できれば、いつもの感じで話してくれないか? その…若旦那じゃなくて。」
その言葉に、鷲那の顔からすっと営業スマイルが消えた。
ただ後輩として振り撒くいつもの笑顔とは違う、ある種の素っ気なさ、あるいは今は明確な不機嫌さを乗せた目が僕を射抜く。
「……なんですか? 改まって。」
標準語だ。
空気がピリッと張り詰める。
これなら、少しは本音に近づけるかもしれない。
僕は正座したまま畳に手をつき、深く頭を下げた。
「先日は、本当に申し訳なかった!」
カラオケでの一件を心から詫びた。
「…で?」
頭を上げると、鷲那は表情を変えずに僕を見ている。
「それで頼みがある、高校の修学旅行なんてたぶん、人生で一度きりだ。だから…そろそろ許してくれないか?」
鷲那はふん、と鼻で息を吐いた。
「なんのことです? どちらにしても俺に何のメリットがあるんですか?」
前回と同じ問い。
やはり、簡単にはいかない。
「それは…。」
僕は言葉に詰まる。
どうすれば納得させられる?
「じゃあ、今度こそ、本当に可愛い子を紹介するから…!」
言いかけた瞬間、鷲那が割って入る。
「いや信用できるわけないでしょう。」
にっこり笑って言った。
「…だよな。」
力なく頷くと、鷲那は小さくため息をついた。
「だったら、話はここまでですね。」
素っ気なく標準語で言い放つ。
謝罪も取引も、この男には通用しないのか。
このままでは、本当に修学旅行が終わるまで、あるいは終わってからも、嫌がらせが続くかもしれない。
城之崎との関係も修復できないまま…。
どうすればいい?
こいつを動かすには、どうすれば――?
そこで、僕は考えを巡らせた。
鷲那は、話を打ち切るとばかりに、再びすっと表情を変え、完璧な若旦那スマイルを顔に貼り付けた。
「お客様。」
すっと視線が僕の手元に落ちる。
「なかなか、ええ時計してはりますなぁ。どちらさんのですやろ?」
時計?
自分の手首を見るが、そこには安物の時計があった。
まただ。
丁寧な京都弁での、遠回しな「帰れ」の合図。
いやここで退くわけにはいかない。
僕は、意を決して、賭けの言葉を口にした。
「城之崎に嫌われるなんて……僕の片思いも、ここまで、か。」
ぽつりと、絞り出すように呟いたその言葉に、鷲那の笑顔がわずかに揺らいだように見えた。
彼は何も言わず、ただ黙ってこちらを見ている。
僕の言葉の真意を探るように。
僕の考えはこうだ、恐らく鷲那は城之崎の好意に気付いている。
でも鷲那はその思いには応えられない、女の子大好きで男には全く興味無いだろうし。
しかし城之崎の事は、先輩もしくは友人として慕っている。
それは普段の2人、そして柊鷲庵に来た時の鷲那の城之崎に対する歓迎ぶりを見ればわかる。
城之崎の思いが誰かに向けば、鷲那は城之崎と友人として今後もいられる。
僕と城之崎が両思いになるなら、それは鷲那にとっても願ったり叶ったりなのではないかと思ったのだった。
この考えが正しいかは分からない。
だがこの状況を打開するには、何かに賭けるしかない。
この推測に基づいた揺さぶりをかけるしか…。
言葉にはせず、ただ強い視線で鷲那を見据えた。
ややあって、鷲那はふっと息を吐き、完璧な笑顔を崩さぬまま、しかし目の奥には冷たい光を宿して言った。
「お客様のお考えは、わたくしにはよう分かりかねますけど。」
静かに、しかし最後にきっぱりとした標準語で彼は続けた。
「本日は、これにてお引き取りを。」
その言葉は有無を言わせぬ最終宣告だった。
今はもう、なすすべもない。
僕は唇を噛みしめながら立ち上がり、追い立てられるように部屋を後にした。
襖が閉まる音が、やけに重く響いた。
とぼとぼと自分の部屋に戻ると、先ほどまでの喧騒はさらに増していた。
数人の男子が、車座になって何やら盛り上がっている。
「やまのてせんゲーム!」
誰かの声が聞こえた。
懐かしいことやってんなという思いと、山手線か…と微妙な気分になりながら、僕はその輪に加わることにした。
「お、芝浦おかえり! お前もやろうぜ!」
一人が手招きする。
断る理由もなく、僕はその輪の端に腰を下ろした。
最初は当たり障りのないお題で進んでいたが、数周したところで、一人がニヤニヤしながらこう言った。
「次はー、お世話になってる夜の女優の名前!」
「うおおお!」
「いいねー!」
場が一気に沸く。
こいつらやってんな、僕もいつもお世話になっている方々の名前を挙げていくか。
内心で思いながら、皆がそれぞれ好きな女優の名前を挙げていくのを聞いていた。
「築島ももか!」
あーいいよね、何が良いってデカいんだよね。
「下原愛!」
わかるわー、家族に報告するやつとか!
「真上優亜!」
元アイドルの、本当にありがとうございます。
……ふと。
隣を見ると、城之崎の顔色が明らかに悪くなっていることに気づいた。
唇をきつく結び、視線を畳に落としている。
まずい…!
城之崎は…夜の女優なんてわからないんじゃないか。
あの時の献血の場での最低なやり取りがフラッシュバックする。
そして軽蔑に満ちた目で、『僕はゲイだよ、これで満足か?』と言われたこと。
あの時の冷たい声と視線が、今も胸に突き刺さっている。
激しい後悔と罪悪感が込み上げる。
せめてもの償いとして、彼を守らなければ。
僕が内心で焦っているうちに、順番は無情にも回っていく。
そして城之崎の番がやってきた。
ますます顔色が悪くなる。
何か言おうとして、口を開ける。
その姿を見て、僕は過去の自分の愚行への強い後悔に突き動かされ、考えるより先に動いていた。
「城之崎の口からそんなの聞きたくない!」
大声で叫び、無理やりゲームの流れを断ち切る。
「え、なんでだよ芝浦!」
「いいじゃんかよー!」
周りからブーイングが飛ぶ。
しかし僕は構わなかった。
彼が答えられないことは予想できたし、何より、あの時のように彼を傷つけ、追い詰めることだけは絶対に避けたかった。
「だめ! こんなお題不健全だ! もっと平和的なやつにしようぜ、な?」
半ば強引に、しかし必死に訴える。
僕の剣幕に押されたのか、あるいは空気を読んだのか、周りは渋々といった感じで引き下がった。
「ちぇー、まあいいけどよ。」
「じゃあ、次は…都道府県の名前な!」
僕が強制的に変更したお題で、山手線ゲームは再開され、その後は平和に終わったのだった。
ちらりと城之崎を見ると、彼はまだ少し顔色は優れなかったが、先ほどのような動揺は見られなかった。
俯いたまま、何も言わなかったけれど。
その夜。
やはり例の薄っぺらいせんべい布団では、なかなか寝付けなかった。
畳の硬さが背中に食い込み、寝返りを打つたびに体が軋む。
部屋には、皆の静かな寝息が響き渡る。
結局、鷲那とは話がつかなかったな…。
城之崎にも、避けられたまま…いや、でもさっきは…。
ぐるぐると考え事をしていると不意に、パジャマの袖をくいくい、と軽く引っ張られた。
驚いて目を開けると、すぐ隣で城之崎がこちらを見ていた。
暗闇に目が慣れてきて、彼の真剣な表情がうっすらと見える。
やっぱりこいつ、睫毛長いな。
あの日の軽蔑に満ちた冷たい視線とは違う、静かな眼差しだ。
「……さっきは、」
城之崎が、囁くような小さな声で言った。
「ありがとう。」
その一言が、僕の耳に届いた瞬間、心臓が凍りついたかのように動きを止め、次の瞬間、信じられない速さで打ち始めた。
ありがとう…? 城之崎が、俺に…?
あの出来事以来、まともに口も聞いてもらえず、避けられ、彼の視界にすら入れていないように感じていた。
軽蔑され、拒絶された相手からの、予想もしなかった感謝の言葉。
「あ…いや、別に…。大丈夫。」
声が震えなかっただろうか。
しどろもどろに返すのが精一杯だった。
城之崎はこくりと頷き、またすぐに布団に潜って向こうを向いてしまった。
ほんの数秒の出来事。
けれど僕の混乱と動揺は、その後も全く収まらなかった。
でも今はただ、彼が俺に話しかけてくれた、そして『ありがとう』と言ってくれた、その事実だけで、胸がいっぱいだった。
絶望的に凍りついていた関係にほんのわずか、一筋の光が差したような気がした。
安堵感、驚き、そして再び込み上げてくる自己嫌悪と、それでも消せない微かな希望。
そんな感情の嵐に翻弄され、結局その夜もほとんど眠ることができなかったのだった。
薄い布団のせいだけではない、あまりにも重く、そして温かい理由が、そこにはあった。